本当ならトレーニングなどしないでいられるなら、その方がよい。歌に限らず、自分が好きなもの、自分がよいと思うものばかりが世の中で成功したり認められているわけではないはずで、“なんじゃこれは”と思うものが流行ったりもする。であるなら取り合えず人前に出てみるべきだ。
歌とか声とか、何もしないでいきなり人からアドバイスを受ける類のものだと納得できるのだろうか?自分はとんでもないと思っていた。いろいろ売っている教則本のことを、読んでたまるがと思っていたほどだった。高い声だって叫びまくっていたら、人間の適応能力で何とかなると考えたこともあった。それで何回か実際に知らない人達の前で歌ってみて、少しずつ自分に対してもの足りなさを感じるように成り、しまいには“こんなことでよく人前に出られたな”と思うようになった。
だから、トレーニング中に痛いところを指摘されて、“そんな細かいことを気にしていたら個性がなくなってしまう”だとか、振り出しに戻るような反発をしてしまうくらいなら、いろいろなところ、たとえばライブハウス(ライブハウスにはオーディションがあるにはあるし、ゴチャゴチャと演奏に対していうけれども、結局ノルマ分の金さえ払えば出してもらえる。特に昼の部はそれ自体がオーディション気味で、曲の途中で止まってしまうような人もいっぱい出てくるので、出る気さえあればほとんどの人が出られる。)や、レコード会社が行う面談形式の新人発掘企画などにどんどん出向いていって、今のままか、それにちょっとした何かをプラスするぐらいで認めてもらえないかどうかを確かめてみた方がよい。
そういうふうに自分で動いてみて、その結果、どうも人が振り向いてくれない、何がいけないのだろうと思い出して、どうも原因は自分にあるらしい。そして自分の中のルックスなどでなく声そのものが大きな欠点だと思ったら、声関係のトレーニングをしたり、ときには人のアドバイスを受けたらよい。
本当に今のままの声じゃ自分自身嫌だと思うまで、気の済むまで人前に出てみるのが先決だ。
本気で心の底から悪いと思ってもいないのに、地味なトレーニングが毎日続くわけもないし、人のアドバイスを素直に聞けるわけもない。乾いているスポンジほどに水をよく吸い込むのだ。
エンゲルベルト・フンパーディンクの“ロミオとジュリエット”という曲の最初の出だしの“A”という単語、この一言だけでも一度同じように歌えるかやってみるとその難しさを痛感する。片仮名にすると、“エ~”だが“ア~”だか判断できない発音をしているけれども、口やそれに近い箇所では“エ~”といっていながら、喉から体の奥での形は“ア~”といっている感じに聞こえてしまう。
これをG.馬場のもの真似のように口の中で音をこもらせてやってしまっては何にもならないけれども、できるだけフンパーディンクみたいにしようとすると、かなり体の下の方まで深く動かせないと無理だとわかる。本人達は普通に“A”といっているだけで、この深さが頭に軽く出てきてしまっている所が何ともすごいし、ここもいえないのにサビの部分なんてお話にもならないと気づけたならば、かなり価値がある。地味な作業の繰り返しがもし間違いではなかったならば、これが難しいというのはきっと理解できる。
ボブ・ディランという人の曲は、歌詞が詰め込まれているものが多いので、口先だけで外面的に真似るだけなら器用な人には易しいかもしれない。しかしよく聞いていくと、あの早口の中にもちゃんと体が動いていてメロディーが単調な曲でも関係なくなってしまっていてあきさせないのがわかる。でないとデビュー何十年とかいう記念コンサートにわざわざあれほどのアーティスト達が集まるわけがないからあたりまえだ。
“時代は変る”という曲の5コーラス目に“curse it is cast”と歌っている箇所が出てくる。この“curse”と“cast”という2つの言葉を、正式な発音はどうなのか知らないけれどもディランは両方“ケース”とか“キャ~ズ”という感じで同じような音で歌っている。しかし口の音の形はほとんど同じでも、片方は深く体を使っていて、もう片方は少し違う使い方をしてはっきりと違う単語だと感じることができる。これを喉に力を入れて変化させていてはきっと何にも伝わらないのだろう。外国人のヴォーカリストはほとんどみんな同じようにできるのだと思うし、この原曲は3拍子で割と早いスピードの中でちゃんとそういう体の入れ方による歌い分けをやってしまっている。同じに歌えるかどうかやってみると本当に勉強になる。
ピーター・ポール・アンド・マリーが歌った“500マイルも離れて”という曲は、1コーラスの中で言葉を4回ずつ繰り返す。たとえば1番だと“A hundred miles”を4回も続けていって目立った起伏のないメロディーのクライマックスになっている感じがする。これも体を使っていない歌い方で口先でやるなら簡単かもしれないけれども、ちゃんと1回目から体を使った上での弱目の言い方にして、段々強く大きくしていって4回目で一番深くいってヴォリューム感を出そうとすると大変なのがわかる。この曲は優しくてよいメロディーで覚えやすいと思うし、ゆっくり歌ってもおかしくないので一言ずつ息継ぎしながらでもできるのでよいトレーニングになると思っている。
“悲惨な戦争”という曲の中にも口先だけではできない箇所があって、4コーラス目の“I fear you are unkind”という部分の“are unkind”の結合している所が特にそうだ。これをCDでよく聞くと“ア~アンカインド”ではなく“ア~ウンカインド”と、あくまでも大ざっぱに書くと“ア~”からそのまま伸ばして“ウン”へ移っているのがわかる。これも“ウン”というのに口を閉じてしまえばすぐにできるのだろうけれどどうも違うらしい。“ア~”で体をあたりまえに使っていて、“ウン”の所で更に強く体を使って口を開けたままで“ウ”と“ア”の中間くらいの発音をしているのではないか。こういうゆったり流れるような曲の感じを切ってしまわないためにも、水鳥がスイスイ水面を進む下で足をがんばって動かしているような作用が必要なのだというのがよくわかる。
カーペンターズの“青春の輝き”という曲の中で、2コーラス目のサビに入る少し手前で~Without a friend in sight Hanging on~”という流れの中の“Hanging”も、喉ではなく体で強くいっているのがわかりやすい。サビはエフェクトがかかっていてちょっと変になっている分、そこに入る直前のこの言葉がよく目立っているのかもしれないが、“sight”を伸ばし気味にしても充分体を整えてから思いっ切り溜めていう部分だけに、本当に深く強くいえるか試しやすい。発音自体も“ヘ”だが“ハ”だか判からないもので口先だけでは作れないと思うし、メロディーの盛り上がりを利用してそれを壊さないように歌えるかやってみれば、自分の表現力の足りなさが身にしみてくる。
ブルース・スプリングスティーンは、普段ガラガラ声で歌ったり叫んだりしているようなので声のトレーニングには応用できないのだろうけれど、“ネブラスカ”や“ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード”というアルバムではものすごく静かに小さめの声で語るように歌っている。こういうのを聞けば、唯単に大声でゴマ化しているだけではないというのが改めてわかる。キーもそんなに高くなくて、本当に物語を聞かせているみたいで、それでいて言葉が一つ一つ厚みを持っていて、全部深く強く体から出てきている。
タイトル曲の“ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード”という曲はその中ではメロディーが取りやすくドラマチックなので同じようにできるかやってみるとよい。小さく歌っても単語にはそれぞれアクセントになる部分があるし、そこで必ず深く体を使っていかないと伝わるものは何もかも吹っ飛んでしまうのだ。でっかい声をどこかにぶっつけていればよいわけでは全くないので、かえって大変なのではないかと思えるくらいだ。こういうのを苦もなくできる体があたりまえにあって初めてシャウトとか高音があるのが理解しやすい。
カルチャー・クラブで一番有名な曲の“カーマは気まぐれ”の中で、サビに入ってすぐに“Karma Karma Karma Karma~”という部分が出てくるけれども、こういうのをちゃんと声を張って一曲の中の中心として歌おうとしてみるのも自分のでき具合を知るのによい。特にどの部分でどう体を使ってなどという考えからではなくて、逆にどれだけそんなことを考えずに気楽に歌えるかという、もしかしたら最上級の難しさかもしれない。
ひとつの“Karma”の中の同じ部分に全部アクセントを入れようと力を込めてやると、いつの間にか“カ~マカマカマ~”が途中で“~マカマカ~”に変わってしまったりしてめちゃくちゃにたどたどしいことになってしまう。そこで曲の終わり近くでサビを繰り返す中に1回だけ、バックの演奏がリズム隊だけになる所があるのでそこでのアクセントの入れ方を参考にすると割とわかりやすい。
いろいろアップチンポでどんどん調子よく進んでいく中に言葉を入れているのが気持ちよい曲の中で、体の入れ方をいちいち考えていておもしろくできるとは思えないし、かといって誰でも出せる薄っぺらな声だとただの歌謡曲になってしまう。だからこういう曲を歌って痛感するのが、いかに深い声があたりまえに身についていて、自在にリズムに合わせて使いこなせるかどうかということだ。こういうことに気がついた上でならこの曲も少しやろうとしてみると勉強になると思うし、歌唱力を売りにしていないロック歌手の自然とやってしまっている凄さを知ることになるとも思う。
いろいろな歌手を聞いて参考にする中で、トム・ウェイツは段々と歌い方が変わってきたのがはっきりしていておもしろい。現時点や最近の作品だけを聞いてしまうと、もう何でもよいのかと思ってしまって危険かもしれない。実際は何でもよいというのが正解だけれども、大切なのはそのメチャクチャにたどりついたのだろうということであって、ただの思いつきでやっているのではないというのに気づくことだ。トム・ウェイツはデビュー前の録音も発売されていて、その頃の声や歌い方を聞いてわかるように、ごく普通に歌っても嘘っぽくならない体をあたりまえに持っているのだ。
引き合いに出してどうかとは思うけれど、画家のピカソにしても、キュビズムとか何とかいうずっと以前の少年の頃に描いた作品のデッサンを観てからでないと、あの後期の作品のことはわからない。そうしてもわからないとは思うけれど...。絵画の世界では“セルフ・トート”とか“フォーク・アート”といって、独学の画家達を一つのジャンルとして囲っているけれど、そういうふうに名前がつけられたらそこに乗っかってしまおうとする人が出てくるから恐い。
“独学”というのは学校に通ったり師匠についたりしなかっただけで、文字通り“独りで学ん”だのだから、あるアーティストがその生涯の後の方にたどりついた所だけを都合よく取り入れて勝手に暴れまわっても何にもならない。
それよりも、声を使って表現しようとするならば、自分は何にも考えず普通にしゃべっているだけでも自然に何かを放出しているくらいに、体の基本をもう一度考え直した方がよい。
そういうふうに考えてから、トム・ウェイツを聞き、そうしてそれまでと同じ種類のトレーニングをやってみると、少しずつ何かが変わっていく。
短い言葉の繰り返しの毎日で一曲歌う場が与えられたとき、歌を歌いこなすための練習は必要ない。これも初めの内は“歌ってみる”という感覚で取り組み始めるべきで、人前で恥かしい思いをしたくないからといって、体裁を整えにかかったのではどうしようもない。
歌詞をしっかりと構えることをしていれば、そうしてメロディーも変な外れ方をしないようにしていれば、後は今まで単調なトレーニングで変わってきているはずの体を使って今歌ったならば、どう違うようになっているのかを自分でも楽しみにするくらいにやればよい。
そうしてワンフレーズでも手応えがあったならば、今までのことは間違いではなかったわけだから、我慢して続ければよいということになる。トレーニングでたくさん我慢していればしているほどに、曲を歌うときには何にも考えずに叫んでも自然に聞くに耐え得る部分が増えていくのだと思って、そうして最終的にはそのレベルで全部歌い切れるようにがんばればよい。
それこそ一瞬前とか、当日にどっかで下手に予行演習なんかやるより、ほとんどぶっつけ本番みたいに「いっちょう歌ってみるか」ぐらいのリラックス感と緊張感を合わせ持って、歌うことに対する飢餓感をその一曲で晴らしてみるとよい。そうして後々それを冷静に判断する機会を設けて、それをその日家に帰ってから以降の課題とするべきだ。
リハーサルも含めて、練習と人前でやる本番とは絶対に同じではない。もし同じにしようとするならその唯一つの方法は本番で手を抜くことしかないとさえ思う。練習よりも本番の方がよい意味でも悪い意味でも力が入るのがあたりまえで、人前でやるために歌うトレーニングをしているならば、その人前でやった結果をしっかりと受け止めるべきだ。
緊張してしまっていつものようにできなかったならば、それこそがそのときでの実力で、練習ではできるということは、潜在能力なのだと考えて、実力の底上げをはかってたとえ緊張していても力が出てしまっているくらいにならないといけない。緊張しない訓練をするのもよいと思うけれど、応用の効くものでないと、シチュエーションが変わる度に新しく緊張し直さなければならないと思うからである。
実力の底上げ50とは少々のことでは声のポジションが上に上がってしまわない、あたりまえに体についた声を得ることだ。だから本番で上乗せされる力の入り具合が、声には余計と思える方に働いてしまってうまくいかなかったならば、そんなときでも関係なく声が出てしまうくらいに、歌以前のトレーニングを繰り返すべきだ。トレーニングで120できるようにしておけば、本番での緊張が悪影響するタイプの人でも、それを差し引いて人前で100になるという考え方をした方がよい。
リハーサルや練習より人前で歌うときの方が、より力が入ることでプラスの作用になる場合ももちろんある。トレーニングをする場所の音響はドライである場合が多いし、どうしても自分の最高のものを今この瞬間に出さなければいけないという義務感も薄れているから、そんな中で一曲の音域を歌い込んでも喉の開きも悪い。そこで自分が歌で使えると思っている音より低いキーだけで練習しておいて、できるだけ高い方の音へ上がっても体からの声の線を切らないイメージをとらえておいて、人前でやるときにいきなり半音上げて歌ってみるのもひとつの方法だ。
前の漫才ブームのときに紳助・竜助が、ロケットが空中へ飛び上がる理由はあれだけ多勢の人に見られていて、その上カウントダウンがゼロになってしまったら飛ばなしゃあないから飛ぶんやというネタをやっていたけれど、歌のときにもトレーニングでの吹っ切れない感覚があてにならずに、人に見られているとよい感じに体が充血してポンと声が抜けることがある。
それで大切なのは、その出てしまった声の瞬間的な体の中の感覚をしっかりと認識して、下半身に近い方との分離の度合を知らなければいけない。こういう音はトレーニングでは横着して出せないのだから使えないのはあたりまえだが、人前でやるときのみたまにやってみて、どれだけ以前と体のつき具合が変わっているかをよくチェックすれば、後々高い音を練習するときがあるなら少し後々立つのではないか。それにぶっつけ本番的な緊張感で、その場をなめてかかることを防ぐことにもなって、最後まで張りつめて歌えるならそういうこともたまにやってもよい。
何年か我慢して地味なトレーニングを続けていると、ちっとも意識して力も入れたりしていないのに、ものすごく楽にしゃべることのできる状態が出てくる。どうもうまく表現できないけれども、何か喉とか口とかそのあたりから声と共に空気のベールみたいなものが泉のごとくあふれてきているようで、体の表面まで何かいう度に少し響いているかのような感覚のときに気づく。それは息が漏れているのとは明らかに違うことで、取り敢えずはその感を持てているときが、歌ったり少し高目の音を使ったトレーニングをするタイミングではないか。
こういう状態のときは、普通の話し声の高さはもとより、歌の出だしの低い音の部分は楽にヴォリュームの多目な声を出せると思うので、そのままサビへ持っていってみて、低い所のリラックス感を保ったまま少し高目の声を出せるかどうかをやってみるとよい。ただし下手をすると1回で喉にくる場合もあるし、歌っているときは自覚していなくても、後で必ずダメージが残るはずだから、いずれにしてもやり過ぎない方がよい。
これもどれだけが適量かは自分で見つけていくしかないけれども。そうしてこの1回にそれほど長くはできないトレーニングを毎日できるようになりたければ、話し声が楽に出せている感覚をあたりまえのものにしていかなければならないし、そのためにはそれまで続けていた地味なやり方を、もっと深く追求しながら更にやり続けておくことが大切だ。
特に高音の方を少しずつやっていこうとする場合に、具体的に歌一曲を通して使うのがよい。物事の必然性というか、一般的によい曲といわれるものには、人間が本能的に気持ちよいと感じる音の流れがあり、その部分々々それぞれが、そこをそう歌わないと解決しないし盛り上がらないようにできている。だから最初からちゃんと歌っていって、サビの前のさあこれから思いっ切り解放するぞという所へ段々と持っていって次の箇所を歌わないと気持ちが悪くなる、途中でやめたくない状態で一気にその歌の中の一番高い音も歌い切ってしまうようにすると、体も目覚めやすい。
歌詞については言いにくい言葉もあって、そのとき々そこだけ替えてやるのもよいと思うけれど、本当なら自分が違和感を感じない曲をいろいろと歌ってみて発見していく方がよい。メロディーと言葉が本当にうまく寄りそっているような名曲はたくさんあると思うし、その意味でも課題として与えられた曲を、自分の即興的対応力を試してみるときは別として、ある程度声が安定してきて歌としてのトレーニングができるようになっているのに適当に一夜漬けで覚えてきて歌うだけという態度は好ましくない。
課題曲をできるだけじっくりやってみれば、歌いやすい曲がいっぱいあるのに気づく。そうしてその中に当然、出てくる次のステップというかもう一度深くやり直さなければならない箇所に気づくかどうかは自分だけの責任だ。
“翼を下さい”という曲は高い声の部分も割と出しやすい。曲全体で、そんなに音域が広いということもないので、出だしから自分が自然に話すように出せる音で初めてみて、サビに移ってもそのときの体の使い方が変わらないかチェックもしやすい。Aメロの中の“かなうならば~”の“う”の所は、ただ大声を出せばよいというのと全く逆なので一番難しいかもしれないが、ここではサビへの導入部の中の一部ということで深く考えないで、“このおおぞらに~“のときに、中間の高さの声を出しているときと同じに腰や背中、それに腹の内側にちゃんとつながっていて、その感覚を辺としてそこから声が角のように伸びている感じがあるかどうかを確認することが大事だ。
この曲の場合だと、高い音の所で言いっ放しではなくて、そのまま続けて言葉をいわなければいけないので、上に抜いてしまうのはやめておいて、高音部という中でもまだ中音部からほんの少し芽が出たくらいで、そこをいかに意志を持った力強い言葉としての音という範囲内で育てていけるかに重点を置くべきだ。それでそれができていると思えるキーを中心に半音下げたり上げたりして、曲の盛り上がりを活用して歌ってみるとよい。そうした後に爽快感だけで片づけてしまわないで、それ以前のトレーニングの大切さをより理解して、そっちはそっちでまだまだ続けていかなければならないことに気づけるかが一番大事だ。
ジョン・デンバーやリンダ・ロンシュタットの歌った“故郷に帰りたい”という曲も、気持ちよく高目の音を出しやすい。サビの“I belong”と叫ぶ所はそこの一番だけがちょっと高くて、取り敢えずその一声叫んだら少しずつ下がっていってくれるので割と何も考えずにできる。曲自体のんびりとした明るさで、よく聞くと少しもの悲し気な感じも入っていて、叫ぶところでちゃんと感情移入しやすい。
ここでは自分の出せる高さの範囲の少し手前まで使ってみて、たとえば声がオモチを手で握ったときに指の間からニュッとはみ出るような感覚で思い切って出せるかどうかやってみるとよい。やってみるだけで、後々高音へ抜けていくというのはこんな感じなのかなと想像するくらいにしておいて、その少し下の腰のあたりからたとえ細長くても二等辺三角形の感覚を保ったまま出せる声で練習しておくべきだ。でもこういうことも本当に正しい方向性かどうかも本当にはわからないので、トレーニング終了後の体の疲れどころがどこなのかをこれ以上ないというくらいの冷静さで感じ取っていくことがより大切だ。
“翼を下さい”や“故郷に帰りたい”を、その曲に出てくる一番低い音と自分の声で出せる最低音を含めたキーで歌ってみて、この場合曲本来のイメージは深く考えずにもう一度しっかりと体にピッタリとはまった声でしっかりと歌い切れるかやってみるとよい。そうしてちゃんと体が温まっていて、喉の周辺に響いているのを厚みのある声と間違っていないことが確認できたら半音上のキーで、ワンコーラスだけ歌ってみる。
こうして少しずつキーを上げていくと、サビの盛り上がりの高い音の所で体の力で引っ張ったままでもいけるといえばいけるけれども、放してしまった方が楽だともいえる高さが出てくる。そこでそのときその両方の歌い方をやってみて、開放した歌い方をしたときに、砂時計みたいな音の流れになってしまっていないかを感じてみるのが重要だ。
喉がちょうど砂時計のまんなかの細い箇所のような感じで、そこから上が急に拡がってしまっているような極端な声の飛び出方をしているのは、まだその音はトレーニングには使えない音だといえる。逆にこのときお腹の底に上向きにサーチライトが入っていて、それが体を通って空を光が走っているように声を出せていたら、割とよいのではないか。
低い音にしても高い音にしても、その自分の端の方の出るか出ないかの所を行ったりきたりのトレーニングをしたからといって、いずれ出るようになるとは思いにくい。現時点での自分の限界みたいなものがわかったら、もう一度これまでに続けてきたことのチェックを今までより深くやり直すことが大事だ。自分が一番出しやすいと感じる音一つ取ってみても、たとえばこの音なら30分叫び続けられるというのを今度は1時間でも大丈夫なようにしてみるとか。そういう入念な再チェックを気を長く持って続けた後に、それがしっかり行えていたのなら一番端の方の音にも何らかの好変化が感じられるはずだ。
特に高い声の方は、もっともっと豊かに出せるように成りたいと正直いって思うはずで、声に関するトレーニングを始める中で、本当は音域よりも一つの音の中身が大切だということを段々わかってはいっても、最後にはそうしていく結果としてもっと高い声も出ていれば素晴らしいと考える。しかし実際には、そういう方向に向いていたとしても本当に使える声を一からやり直していくと、それまで別の方法で出せていた声もぴったりと出なくなってしまったりして、調子が悪いときなどはふてくされて投げ出したくなったり、トレーニングに気持ちがまたしても入らなかったりする。
こういうときは自分以外の人の少しの成長がとてつもなく巨大に感じられて、途方もなく遠くに引き離されたようにも思ってしまう。こんな状態のとき、それでもその日も何かトレーニングをやろうと決めたら、川原の石コロと競争する積もりで取り組んでみたら妙に落ち着く。
小学校の理科の時間に、川の上流の方のゴツゴツとして大きな石が、気の遠くなるような長い時間をかけて、水に押し流されたりしている間に、けずられてきて下流のあの丸味のある小さな石コロに変わっていくというのを習ったけれど、それくらい気長に取り組んでいれば1ヵ月やそこらで違いはわからなくとも、もっと長いスパンで見ていけば、コツコツと地味な作業を続けている限りは、少しずつ変わっていっているのだと思えてくる。そんなふうにでも思って、気持ちが下っ腹に戻ってきてから、一から考え直して行くとよい。
ものを拾うような動作をしながら声を出すことは、低い音を安定させるきっかけになると同ときに結局はそれは高い方へ移っていったときに体の底からの息の流れみたいなものを切ってしまわないことにも繋がっていくんではないかとも思う。
何も本当にものを拾うほどに腰を落とさなくても、膝を柔らかくして足の方にも空気が巡っていっているみたいに感じるようになればよいのだろうけど、高い声のときは上に力が片寄り過ぎるのが一番いけないというから、逆に足の裏から息が、それこそ鉄腕アトムの足から火が出ているみたいに出ていっているようなイメージで、そのエネルギーが自然に声を発生させているくらいに上の体や首、肩、喉が無意識になっていればよいのかもしれない。
しかし、こんなことは、試行錯誤をしている中での勝手な想像に過ぎず、あくまでそういうイメージで声を出してみるというだけで、本当は今自分の体で起こっていることをうまく書き表すのは無理だ。
もう一度新たな気持ちで自分の声域のまんなかや少し低目の音をチェックして、そこをもっとヴォリュームアップして出せるようにしようとするとき、あまりにも力で体を押し下げようとすると、体の動きと声がズレていってしまうので危ない。器を捧げようとして、初めの内は意識して下腹の方に向かって思いっ切り息を溜め込んでから声を出してしまって、確かにかなり低い方に下がっていくとそうでもしないと声にならないかもしれないけれども、少しでも同ときに無駄な力が入ってしまうと思うのでやめた方がよい。
そのように文で伸ばしていくというか、無理矢理押し下げて声を出すというよりも、本当は声を出した反動で同ときに体が逆方向に押されているという感覚を拡げていくのが正しいのではないか。本当に初めの内は力で体を押し下げでもしないと何も変わっていかないとも思えるのでそうやっても仕方がないと思うけれど、今度はいかに力まないでスムーズに高い声の方へも移って行けるかという問題も出てきたのだから、どれだけ普通に声を出せるかをもう一度やってみるべきだ。そうしてそれまでのトレーニングが身についているならば、何も意識しないで出した声は前みたいに薄っぺらくはないはずだ。
決して先に力で体を押し下げて準備しなくても自然と歌い出し始められる範囲内での一番低いキーで、改めて曲を歌ってみて、それでその曲の部分々々の強く歌いたい所でどれだけ自然に通過できるかやってみるとよい。あくまでも好きなように歌うのであって、そうしている中で強調して歌っている部分で先々体が意識して動いてしまっているのではなくて、声を出すことによって勝手に体も動いているかを確認すればよい。
歌うキーを再び半音ずつ上げていったときに、わずかずつ体の使える範囲が縦長の形になっていくけれども、ひとつ前のキーで歌ったときといかに背のないなめらかな線で繋がっているかに注意を払って進めるべきだ。半音前とあまりにも段差のある体の負担の感じ方にならないように、油が水の底から水中を浮上していくさまざまなめらかな体に掛かる負担範囲の移り変わりを保てるかどうかよく感じてみて、それができていると思える内側のみでトレーニングを繰り返せばよい。
好きな曲をそのまま活用して、気持ちの盛り上がりも利用してその勢いでしっかりと声を出すきっかけにしていても、同ときに細かな部分でのより難しい点に気づいていくと思う。言葉の言いやすさだけを考えて曲は作られているわけではないから当然ともいえる。そして更に厳密さを増して考えれば、より基本に立ち戻ってトレーニングをしようとする場合に曲一曲全体というのは音域が広いと思える。
そのように思ったとしたなら、言葉そのものに大きな意味はなくともトレーニングに使いやすい短いフレーズや言葉、音の並びの重要度が以前にも増して理解できるのではないか。短い言葉やフレーズでの音の上げ下げを伴ったトレーニングの合理性とか、その中で気づかなければならないことの再発見とか、いろいろと思い当たってやっともう一度、本当のトレーニングに近づいていけるのではないか。
そしてこういうふうにあらゆる段階を踏んでいくことしか、教材としての本の活用は難しいと思うし、その教材を前のページからやっていっても最後のページから使っていっても、何往復できるかが最大のポイント。
音階を上下行しそのとき点での自分の声の幅の限界を認識して、それでもう一度まんなかあたりの音をチェックし直すと簡単にいっても、声を出した反動でお腹がグッと拡がるような感覚にも限界を感じてしまうときがある。何か自分の生まれ持った体のサイズというか、胴まわりや腰骨周辺の広さを手に取るようだ。感じてしまって、これ以上器を捧げるのは物理的に無理だと感じてしまっても不思議はない。 しかしこういう思いも再びというか三度というか、基本の基本に戻ってみるきっかけになる。前回にそういう積もりでチェックしたときにも、今になってもう一歩厳密に考えてみると甘かった点というか、気長に待ちながら少しずつ進めていこうとしたポイントが、ちゃんと当時の計画通りに好変してくれているかどうかを見直すときなのだ。
特に首の姿勢を冷静に考えてみると、前よりはよくなってはいるかもしれないが、もっと効率よく声を出そうとするならば、まだまだ生活態度の癖が勝ってしまっていて、本当に力の抜けた自然な形には至っていないことがわかるし、普段のしゃべり方からしても、今の自分では具体的に気づくことのできない数々の要素が、以前より強く出てくる呼気の流れをどこかで少しずつ邪魔をしていたりするのだ。もし本当にそういう考えにたどりついたのなら、絶対に自分に正直になって、歌を歌う時間を減らしてでも姿勢やリラックス、もっと効率のよい呼吸をじっくりやり直すなどをやっていった方がよい。上から見ると同じ所をグルグルまわっているようでも、横から見ると螺旋階段を昇るように少しずつ進歩している。
何年も続けてトレーニングして、自分にとっての一日の適量をつかんだと思っても、それでも未熟さに少々目をつむってでも続けていることの蓄積がある日突然に顔を出すことがある。それも更に自分にとって本当にふさわしい方法に向かって進化していけるきっかけであるし、そういうことはある意味起こるべくして起こっているとも思える。
それはこれまでに書いたような要因以外のこと、しゃべったからどうで、トレーニングのやり方がどうでということ以外の自分の置かれている状況を全て考え出さなければならなくなる場合でもある。
理由はそれこそ無数にあるのだろうけれど、本当に息読みすらできないくらいにどこかの調子が悪くなることもあって、その最悪の状況からは何とか脱したとしても、それ以後のトレーニングはたとえ一時的にしても保守的に成らざるを得ない。
でもそれはあたりまえだけれども歌いたいという気持ちがなくなるわけでは決してないから、何とかしなければならなくなってくる。当然どんな場であるにしても機会があれば歌いたいと思う響であるから、練習はしなければならない。そこでまたしても実際に声を出してトレーニングしている以外の時間の使い方が大事になってくる。
馬鹿らしいと思われるかもしれないが、実際に声を出しているイメージで、ご飯のときと完全に寝ているとき以外は心の中で歌って体の中をリアルに動かすことがよい。薄く口を開けて、それより内側はちゃんと息を流して体をちゃんと動かして、息継ぎもちゃんとやる。これは喉に負担がこないけれども、真剣にやればどんなふうに歌うか少しずつイメージがふくらんでいって、そしてあまり長くできない実声を使った練習のときにその通りに声を出してみると、何もしないよりもかなりうまくいく。
電車の中でもできるので、あまり無意識にやっていると口が大きく動き過ぎて他の人から変な目で見られるので気をつけた方がよいけれど、それくらい夢中になっていれば効果も上がる。
しかしこんなことは声や喉に異状がなくとも、トレーニング以外の時間、特に新しく歌を覚えようとしているときなどは誰でも勝手にやってしまっていることだ。
他の人からみたら何ということはないかもしれないが、何ヶ月の間もしっかりと声が出せないと、もうこれからずっとこんなふうだったらどうしようと思ってしまう。いろいろと考えてしまって本当に心配になってくるけれども、それをよい機会として普通にしゃべったり歌ったり、それを思ったときにやれるのがどれだけ幸せなことかというのを強く感じることもできる。
世の中には生まれつき満足に話すこともままならない人だってたくさんいる。それを思ったら以前よりもっと声を大事にすることに気を配って当然だと思えるようになった。歌えるだけで幸せなのだからうまく成ろうなんて欲張り過ぎだという考えではなく、トレーニングできる限りは自分が興味を持った以上は続けていくことが大切だ。
普通に声が出せるように戻って最初に歌ったときは本当に一曲歌い終わっただけでものすごくほっとしたし、何か新鮮な気持ちにもなったけれども、こういうのを時間と共に忘れていってしまわないで、ちゃんと自分の財産にしていかなければならない。
痛みの種のようなものはずっと残っていて、疲れているのに意地になって続けたりすると少し顔を出しそうになるけれども、それは少し方向がズレそうなときの信号であると認識してしまえば、これほど便利なものもないと思うし、見せかけのためではなくいろいろな機会を逃さないために声のことにはずっとこだわるべきだ。
老年に至って声が衰えるのではなく、30才代に入ったとたんに急に声が出なくなってしまう人もたくさんいると聞く。それはそれまでに一流と世間から認められていたような人でも例外ではないらしく、本人にしてみれば完璧に喉周辺の力なんか抜いて息の流れだけで高音も出しまくっていた積もりでも、それは若さに任せてどこか力で支えていたのだというのが、出せなくなって初めてわかったりするのだそうだが、そう考えると本当に声の出し方は自分の責任だと改めて思えてくる。
どんなに素晴らしい声に聞こえて勢いのある人でも、極端にいえば明日突然声が出なくなっているかもしれない。だから参考にするならできるだけいろいろな体験をしてきた人の方がよいし、そしてそういう人を参考にしながら最後は自分の責任において自分の方法を体得していくことが大事だと思うし、それに関してプラスになる情報はもっともっと欲張って仕入れていくべきだ。このこと自体も実際に肉体を使ってできるトレーニング時間以外の時間の有効な活用方法だ。広い意味で考えるなら、そういう時間もトレーニングの内だ。
自分の体の動きをできる限り自然な生物としてのものに戻していくと改めて考えた場合に、もう一度冷静に身のまわりを観察してみると、よくもまあそんなことがいえたものだと感じてしまう。いくら生活の癖からくる姿勢の乱れをチェックしていっても、現代においてそれなしには考えられないような文明の産物を本当にシャットアウトなどできない身で自然に帰ろうとはおかしな話だ。
排気ガスひとつ取っても、いくら自分が車持っていなくともそのせいで喉がおかしくなるのは自業自得以外の何物でもない。野菜や農産物も、どんなに自然な方法で作っていっても、文明が発達してしまう以前よりもおいしい味にはならないという話もあるくらいだし、高級な有名会社のアコースティック・ギターにしても、同じ品番で同じ産地の同種の材料で伝統的整法で作ってみても、どうしても昔通りには鳴らないそうで、これは時間による乾きの度合いを差し引いてもそうだと耳の肥えた人はいっていた。
こういった話をそのままヴォーカリストにも置きかえられはしないだろうか。声楽やフラメンコの世界でも、年老いた辛口の批評家達は口をそろえて昔の方がよかったといってしまうし、日本の伝統芸能にしても、音で伝える分野に関しては初代に近いほど音源も映像も残っていず、移動をするのに車や飛行機を使い自分の演技をVTRなどで客観的に見、そうしてTVなどから外国の言葉や音楽が嫌でも耳に飛び込んでくる現代の名人と、そういう物が全くなかった時代の人達との芸が全く同じとはどうも思い難い。
最近亡くなられた野球評論家の青田昇さんが、ピッチングマシンでの体感球速と自分の記憶とを照らし合わせてみて、沢村栄二投手の球は160km/hだといっているのを聞くと、昔感じたことは少々オーバーに憧えているのではないかとも思ってしまうし、それに芸ことに関してはどちらがよいかなんて一人ひとりが違う感覚でとらえるから、そんなことはどうでもよいかもしれない。
オリンピックを見ていても古い記録はどんどん破られていくから、技術的には進歩し続けるのだろうとも思うが、身につける道具をも含めての進歩でもあるので、結局歌の方の話に戻って何が言いたいのかというと、今どうしてもこの目の前の人に伝えたいと思う気持ちというものが、少しずつ薄れてしまってきているというのは本当ではないか。
そこで数々のトレーニングに加えて、身のまわりにある便利な物、それは自分の出した音を増幅するための物や、光のような速さでそれらを録音したり遠くへ伝達したりできる物も全て含めて、もう一度疑ってみるところから始め直すのが、本当は最も重要なことなのではないか。排気ガスなんていう物は、それら全てから吐き出されて結局自身の体にまわりまわって帰ってきたに過ぎないのだ。
最近デパートへ行くと、川のせせらぎや鳥の声のCDを流していることがあって、音楽の方が機械化して行き着く所まで行ってしまったから、その反動でそういう所へ帰ってしまったのだとかいわれている。訪れた人々も落ち着くからよいなどといってしまっているけれども、よく考えると本当にとんでもない話だ。生活の便利さはそのままでも自然から出てくる者は気持ちよいから聞きたくて、結局誰かが必死で録音してきたものを方向性が全く逆の、機械や電気で再生しているというのもそうだけれども、人間の声も自然の産物だというのを忘れられては困る。
こんな流れに押し負けないためにも生の声の大切さというものにもっとこだわらなければならない。音にとことんこだわるミュージシャンはいっぱいいるけれども、マイクなしとマイク有り、そしてそれをCDにしたり電波に乗せて流したりして、その端には全く違う再生装置が待っているというのに、自分の思い通りの音がそんなに一度に多勢の人々に全く同じに届くわけがない。
本当にこだわるならそれのできる範囲内の人を集めて聞いてもらうのが本当だ。鳥がバードウォッチャーの仕掛けたマイクの前に降りてきて、わざわざ一番声が入りやすいように鳴いてくれず、逆にそんな物は警戒して近ずいてはくれもしないように、ヴォーカリストも本当に生で聞かせられる規模にこだわり、マイクを誰かが置くならこっちの御機嫌を損ねないよううまくやってくれといえるくらいの、金儲けとはほど遠い繊細さを取り戻すことが、これからは大事になってくるのではないか。
オリジナリティーというのを自分で曲を創ることと同じに考えてはいけないというのも改めて確認しておくべきだ。どんなに古くからある歌を歌っていようが、今考えた歌を歌っていようが、誰が歌っているのかが一番重要なのだ。プロと呼ばれている人の中でもそうでない人達でも、環境問題がクローズアップされたり、自分の国の行政に問題が発覚したりすると、メッセージソングなどと銘うって、それらに関係した新聞の記事を切り抜いてきてそのままメロディーをつけて歌って平気な人もいるけれども、そういうのは論外だ。
そこまでいかなくとも最後は細かい詞の内容が漠然としていても、歌っている本人が人前に出ている以外の時間どんなふうに生きているかが表に出てくるのだ。たとえ本人が気づいていなくとも、聞く人が聞けば全部バレてしまうし、そのレベルで他人を納得させられることが本当のオリジナリティーだ。
チャリティー・コンサートとかいって飛行機をチャーターしてわざわざ来日してくる歌手も、もうそろそろいらないのではないかと思うし、本当に聞いて欲しかったら筏を漕いででも渡って来いといえるくらいにみんなでしっかりとしないといけないのではないか。その内CO2を過剰に排出するということで、息吐きもさせてもらえなくなるかもしれない。
いろいろな国の歌をトレーニングに取り入れて、最終的にはそれを日本語の歌に応用できたらよいとは思うけれど、それを意識しないで、その国の人よりうまく歌えることをめざすのもおもしろい。フランスでもイタリアでも、現代流行っている音楽はほとんどアメリカの影響を受けているとか、そのアメリカの人の中でも軽い歌い方をする人がたまに出てきているし、それだったら日本人の方がその先行き着きそうな歌い方をとっくにやっているのだから、日本人はだまっていれば今度は海外から自分を殺した歌い方の見本として一気に世界のトップに立てるかもしれない。
情報がこれだけ速く伝わってしまうと、地球が一つの村になってしまって本当にそうなるのではないかと悪い頭で考えてしまうけれども、ここでそうではないのだといえるようにしたい。
ブルーズなんか特にそうだけれども、シャンソンでもカンツォーネでもファドでも、海外から新鮮な気持ちで聞くことのできる自分達が、貴方達の国にはこんなにも素晴らしい音楽があるではないかと逆に教えてあげられるくらいになるのも、そういうのをめざすのもおもしろい。
どこの国でも老人は、たとえばブルーズなら「本当のブルーズを歌える人はいるくなった。」とかいっているし、歴史的に考えてブルーズなんて悲しい物はもうなくなってしまった方が人類にとって幸せという証明であるかもしれないからむし返すのもどうかと思うけれども、魂を込めて歌うという意味においては簡単には失いたくない物だとも思う。
ヨーロッパから来日して平家琵琶を真剣に習っている人の話を聞くと何かこう「やられた」という感じを受けるけれども、日本人の自分よりそんな人達の方がよほどうまくできるのかもしれない。そういう思いを我々が海外の若者達にさせてみるのも意義深いことだ。自分にしてみれば途方もない話ではあるけれど。
ヘッドホンやイヤホンで耳を塞いで街を歩くということは、音楽で他人に何かを伝えようとする人にとっては絶対にマイナスだ。だいたい音楽がどうこういう前に、耳という身のまわりに随時変化しながら起こってくる数々の情報を受け止めるのに、これほど便利で重要な物はないのに、それをわざわざ塞いでしまう人の気がしれない。緊急の危険を知らせる者がいつなんどき聞こえてくるかもしれないのに、きっとそういう人は、毎日何の変化も起きるわけがないと安心し切っているのだろう。
そしてそんな緊急のこと以前に外を歩くということはいかに自分一人分の体が邪魔にならないように気を配るということでもある。自動車のエンジンの音、自転車が走ってくる音、自分よりも急ぎ足で追い越したがっている人の足音、そして目の不自由な人の材の書など、クラクションなんか鳴らされているようでは終わり。このようにちょっと思い浮かべるだけでも耳を塞いでしまうことの無神経さがわかるし、これでは耳の不自由な人々に対して失礼なのではないかとさえ思う。
歌を歌うという行為において、その人の生きている時代というものをちゃんと受け止めて、それがどこかに反映されているというのも大事なことだ。そう考えると身のまわりから聞こえてくる音には全て耳を傾けて、今自分の生きている環境はこうだと、それが嫌な音ばかりならば自分も遠かれ近かれそういう音を生み出す社会の一部なのだと認識してこそ、本当の歌が歌えるのだ。
現実に耳に飛び込んでくる音を音楽でごまかすのはやめにしたいし、もしそういうためにではなく、本当に歩いているときでさえ聞き続けていたい音楽があるのなら何も自分で創り出すこともないと思うし、曲を覚えるために仕方なくウォークマンを使っているなら、そんなにまでして覚える必要はないとさえ思う。
そういうのは一見すごくがんばっているようでも本当は反則技で試合に勝つようなもので、自分の寿命を越えるくらい長い目で見た場合結局それは失敗なのだ。というような考えから、音で何かを伝えようとするなら、ウォークマンはやめるべきだ。
携帯がこんなにも普及しているということは、とても便利なのだろう。本当にそんなに緊急な用事ばかりでまわりで鳴っているのかは本人にしかわからないから別に何もいうことはないけれども、こういう便利な機械も電波やなんかが身体に及ぼす影響とかそんな難しいことではなく、倫理的とか道徳的な意味で、良薬といわれていた葉が何十年も経ってから副作用が発見されるというようなことになるのだろう。
今の時代、連絡をいつでも取れる人間が一番つき合いやすい相手なのだろうし、そういう人ほどどんどん信頼を得て商売の面においても成功していくのだろうけれど、こういうのも長い目で見れば大事な物をどっかに忘れてきてしまっている目先の勝利と思えてしまう。
人は自分の話している相手を横から入って来られて話ごと取られてしまうとムッとするはずであるけれども、電話という物が間に入ると平気でそれをやってしまっているし、そして取られた方も仕方がないので待ってしまうことが多い。
本当は今自分の目の前にいる人間を最優先しなければいけない箸で、あくまでも基本的にではあるがそういうことをないがしろにしてまで自分の計画を遂行していっても本当の成功ではない。たとえそれが現れてくるのが孫の代になってからにしても。こういうことも含めて、本当に自分の心の行き届く範囲で少しずつ何かを伝えて行くというのが、それがコンサートであれば尚更に大切だ。
だから今のところの考えでは、携帯などという耳障りな物を何とか衰退させられるくらいのパワーが自分のヴォーカルにあれば。こんなことをいってはみても、車の排気ガスの誰と同じで自分は携帯なんか持ったことも使ったこともないだけで、そういう物なしには回転していかない世の中のサイクルにどっかりとあぐらをかいているのはわかっているから、本当に幼稚な夢の話であって、今突然携帯電話がなくなってしまったら、間接的にせよこんなことをいっている人間に限って困るのだろう。
NHKのラジオやテレビでイタリア語の講座を聞くときに、出演している日本人とイタリア人の声を聞き比べるのは本当に勉強になる。自分で深い声が出せるように下っ腹や横っ腹を動かしていると、そういう方向性と逆の人が出てくると本当に聞いているのが嫌になることがある。
一番そう思ったのは、容子という人の声だけれど、この人が出ている半年間は本当に辛かったのを覚えている。御本人には失礼な話だけれども、もうちょっと声のよい人にしてくれないかと本当に思った。
こんなことを思うのは、声に関してより神経質になったということでよいと思うけれど、それと同ときにちょっと気を許すと自分も、それに近い声にいっぺんに戻ってしまうのだと体が知っているから余計に避けようとしてしまうのだ。
その他の講師で、高田和文という人や一ノ瀬俊和という人は、おそらくイタリアで生活したこともあるのだろうけど一般的な日本人の中にあってはよい声をしておられるのだろう。
その人達でも真横でしゃべっているイタリア人の声と比べると、本当に豊かな声の文化を持っている国の凄さを改めて思い知るばかりである。何もイタリア人よりうまくイタリア語を話そうなんて思わないけれども、以前に比べて少し増しな声が出せるようになったと思ったら、もう一度こういうあたりまえに深い声を使いこなしている民族と、がんばってもやっとまだここまでという自分の声を上げては、その課題の果てしなさを思い出すべきだ。
ラジオで流れる本物のイタリア人の極普通の会話の後に、自分も同じにいえるか、もちろん発音の上手さより声の底に流れる太さとか強さとか柔らかさについて比べてみるとよい。深くて太い声の人が多いので低い声かと思っていると、意外にも高い音で平然としゃべっているのがはっきりと理解できるし、細かな子音も全部ひとつの土台の上にちゃんと乗っかっていて、カンツォーネやオペラなんかこういう所に生えてくるものなのだと感じて嫌にもなると思う。
けれども、そう思えるだけにやり続ける価値はある。その他、音節の短い単語からイタリアの言葉を本物に近づけるように繰り返すのもよいトレーニングになる。昔の自分と今の自分を比べているだけでは進歩も止まってしまうから、常に着段の会話に使う基本的な声から少しずつ厳しくチェックするようにしていくべきだ。
イタリア語を聞いていると、たまに、関西の人が会話をしているのとそっくりな箇所が断片的に出てくる。英語でもたまにあるし、スペイン語でもそういう感じがする。西洋の人が片言で日本語をしゃべっているときでもどちらかというと関西弁に近いイントネーションになってしまっていることが多いと感じる。
タモリが明石家さんまなどの関西のお笑い芸人とトークをするときに、大阪の漫才師のしゃべり方といってすごく喉に力を入れてガラガラ声でがなりまくるということをわざとやってみせるけれど、確かにそういうイメージは強くそれはまずいと思うけれども、何かこうドスが利いていて迫力ある声という点で、東京近辺の言葉よりも関西の方が勝っているのではないか。
東京へ出てきたばっかりの頃、買い物をするときに店員にいろいろと質問をするときなど、何度もいっていることを聞き返されたのを覚えている。これだけ関西の芸人がテレビに出まくっている時代になっているのに、テレビも見てないのかと思って順応性のない人達だなと腹立たしくなったりもした。
東京の言葉も大阪の言葉も文字で表せばその違いはほとんど語尾の方だけで、単語の前の方はほとんど同じなことが多い。それでも東京の人の自分の話しかけに対するときの反応をよく見ていて気づいたのは、わからなくて聞き返してくるときはもうその言葉を言い出したと同時くらいに目が泳いでいるのがわかってきた。
ということは、しゃべり出しの音の高さというものやタイミングも地方によってかなり違うのではないかと思うようになった。それでも意地を張って純粋な大阪弁でしゃべり続けていたある日、仕事中に話していた相手から「あんたたまに関西のなまりが出るねぇ。」といわれて本当におどろいた。自分では今まで通りにしゃべっていた積もりが、自然と関東の空気になじむ話し方に変わっていたのだと知らされた。
このとき自分はアグネス・チャンか小錦かでいうと小錦の方なのだなあと思ったけれども、新しく言葉を学ぶときには、かえってこういうことは大切なのではないかと思った。この場合に限ってみれば、自由に自信を持ってしゃべっていた関西から、東京でうまくやっていこうとする、言い替えれば長い物に巻かれようとしてしまった上での関東への移行が普段の会話で喉が痛くなるということにつながったとも思っている。個人的にはこれから徐々にでも、もっと自分の生まれつきしゃべっていた関西を大切にしていければ。イタリア語に似たイントネーションもいっぱい利用して、世界に通じる大阪弁を考えていきたい。
ピアノやテープの伴奏に合わせて声を出していくとき、どれだけ脱力できているかにこだわって、それこそ軟体動物にでもなった積もりで体中ブランブランしながらやってみるのもよい。膝や足首を柔らかく使って、腰と首は後ろ以外のあらゆる方向に曲げたり倒したり、腕はそれにつられて離れているだけで、体重はたとえば片足ずつ移し変えたり、本当に後ろに戻る動き以外は自由に楽にやってみて、どこにどう重心がきて、腰や首がどういう角度のときに声が下半身の方から生まれてくる感じがあるかを調べる。
ため息から声に変換したような、本当に何も化粧をしていない声の原点ともいえる出し方で、体を縦に響いて出る声をもっと確実に促えようと試みる。そういう声だと喉に負担をかけていないので、首を前や横に倒していても関係なく、そこより下で鳴っている感じがするので、それで声の中心で本当に余分な力を使っていないかチェックするのがよい。
ハミングのトレーニングをするときは、自分がコントラバスだと思ってやってみる。弓を使って演奏しているように深く体中が響いていながらも、音と音の継ぎ目はなめらかになるように試みる。この場合いろいろなメロディーを使うとおもしろいけれども、あまり広く音程の飛ぶようなものより、ゆるやかに上下するものにしておいて、深い音をいかに段差感なしに表現できるかに集中した方がよい。コントラバスのように体全体から音が鳴り響いていて、そして一本の弦でフレットレスな感覚を持ってスムーズに隣の音に移って行けるかやってみるとよい。
胸についた声を意識し過ぎるばかりに間違って暗いこもった声になってしまわなひように、今度はコントラバスからチェロに変わった積もりでメロディーを歌ってみる。本当に楽器を取り替えるようにそんなに広い音域なわけがないから、あくまでも気持ちだけれども、同じハミングをするにしても、「ン」より今度は「ウ」に近い感じで、そして少しだけ幅の広い音程もやったりしてみる。
音のなめらかさは擦弦楽器を更に意識して、強弱も自在につけてそして、なるべく長く伸ばせるところは伸ばしてみて、フレーズ一つ一つはもちろん曲全体もなめらかにしようとしてみる。そうして「ウ」から少しずつ口を開けて「オ」や「ア」で同じように声が頭から飛んでいってしまわないようにやると、少し気持ちよく声が出ているのがわかるような気がする。
“アメージング・グレイス”という歌を覚えるときに、たまたまスーザン・オズボーンという人が歌ったものを聞いた。2コーラス目に~We have already come~”という箇所があって、その中の“already=オールレイディー”を最後の“~ディ~”の部分を伸ばしながら4度音程を上げていたので同じようにやってみたらよい。同じ単語をいっている中で強調するように伸ばして上げているのだから、不自然にならないで、そして曲のイメージも考えるならなめらかに、割と広い2つの音の間をそれこそ温度計を熱湯につけたときの水銀の動きくらいスムーズにできるかやってみるとおもしろい。
ここで失敗したら曲全体が台なしだと勝手に思って、ワンコーラス目から通して歌って、音を上げる所で声の出し方が変わってしまわないように注意してやってみて、半オクターブくらいでのでき具合をじっくり調べるのも大切だ。
プロのヴォーカリストが伴奏なしで歌うのを聞く機会はなかなかないけれど、本当はそういう他の楽器の力を借りずに自分の呼吸だけで歌っているときをもっといっぱい聞きたい。それで思い当たるのがスポーツ・イベントでの国歌斉唱で、ボクシングの世界タイトル戦やサッカーの国際試合はできる限りセレモニーから観た方がよい。
以前は、君が代を歌う人といえば一般的にあまり有名ではない声楽の人達が引っ張り出されていたように思ったが、最近ではポップスの歌手の方が多くなってきている。’97に行なわれたサッカーワールドカップ・フランス大会アジア最終予選でもそうだったし、3~4年前のプロ野球オールスター戦では郷ひろみさんも歌わされていた。こういう人達にやらせた方が盛り上がるのだというのをやっと気づいたのだろうけれど、本質的に成功しているのかどうかは疑わしい。
ボクシングのときにジョー山中さんが歌っている途中で「かえれ〜」とヤジられていたし、知名度と、こういう場にも対応力があるというのは必ずしも一致していないのだと思える。だからこういうことを踏まえて、国家斉唱には毎度呼び出されるような、その勢いでよその国のまで歌わせてもらえるような、それくらいめざす積もりでやってちょうどよいのではないか。
“なるほど・ザ・ワールド”という番組で、森久美子さんがアメリ力のプロ野球の試合前にアメリカ国家を歌っていた。番組の企画とはいえ、そのときの観客は本当に拍手を送っていたと思えるし、自分もよいと思った。ヴォーカリストというなら、これくらいの力は持っていなければならないと思って、無伴奏でどれだけ聞かせられるかというのをもっと大切に考えたい。
それにしても、海外でも世界が認める超一流の歌い手でさえも、スポーツの大イベントにおいては前座あつかいなのを見て、スポーツの方がランクが上ということなのかと思ってします。コンサートの前に余興でサッカーやボクシングのエキジビションをやられても変だろうし、一つ考えられるのは、歌は一般的労働、金儲けからは遠い物だといえるのだ。そういうことをする人を慰めたり勇気づけたりするもう一つ特別な選ばれた者であるべきだといえる。
そうすると本当に自分がどうあるべきかというのがわかってきて、道は険しいというのを更に感じてしまう。本当のヴォーカリストとは、それほどすごいものなのだと思っていかなければならない。
食費を少し減らして、その分スタジオ代に使ったり、交通費をケチってどこへ行くにも自転車を使ったり割と最近までやっていた。そうすることで歌のためにがんばっている積もりになっていたのだと思うけれど、結局ちゃんと歌い切るためには体のことも考えなければならないと思うようになってきた。おにぎりばっかりで他の物はあんまり食べないと、目まいもよく起こったし、排気ガスもよくなかったし、歌う以前の最低限の体調保持は本当に大切だ。
歌うということができて初めて自分のバランスが取れなければならないが、その100%から歌うということを引いた残りは残りで、常にバランスをとっておかないと、そのものが満足にいかなくなる。どんな場であれ歌う機会というのは逃したくないし、もっとコンスタントにいくよう心掛けるのも重要だ。もちろんこういうこともいろいろ試してみないと何もわからないから、初めから保守的になるのもどうか。
一時期こういうことをかなり神経質に思いつめて、口に入れる食材を全て無農薬とか無添加の物を買ってきては自分で調理して食べていたことがあった。お金が高くついたし時間もかかったのでとうとう10ヵ月くらいで根を上げてしまったが、そのときに思ったのはそういう物は下手クソな料理でもおいしかったのを覚えている。こういう物を食べるのが普通になれば、芸事やスポーツなど体を使うこと全てもっとレベルが上がるのではないかと本当に思った。
歌ならばそういう本当に体が喜ぶ物を食べれば、他の人の体が喜ぶものを歌えるのではないかというふうに。世の中のこと全てを受け止めてそれを体から発して歌うのがヴォーカリストなら、今簡単に手に入る物を季直に食べて、それがまずいと思うならそういう憂いを含んだ歌を歌っていけばよいともいえるかもしれないけれども、それを変えていこうとする意志を歌うことがあってもよい。そういうことも真剣に考えなければならない。
極端な意見だけれど、たとえそれがラジオ体操であろうと、その人が声のためだと思って1日3回本気で続けたならば、声は変わっていくのではないか。毎日何かを続けるということは、必ず毎日声について考えるということになる。
そうすれば自ずと情報も集まることになり、もっと有効な手段だって試すようになるだろう。そしてそれだけ規則的に声について考えるということは、常に新陳代謝を繰り返して新しく生まれてくる細胞一つ一つが、声に対して協力的になっているだろうということだ。ここへきて、たとえ5分でもよいから毎日続けることというのが本当に本当に大事だと思えてきた。
たとえば個人レッスンを受けているならば、それと自分一人でやるトレーニングとを間違った意味で混同してしまわないことも大切だ。個人レッスンでは30分間ビッシリすき間なく声を出し続ける。高い音の方も割合使うし、咳やガスを抜くこともしていられないくらいだし、しまいには意識して体勢を作り直してる暇もなくなってくる、というか筋肉の疲労で作り直そうとしてももう駄目ということもある。
これを自分一人でやるときも同じようにやるのは危険だ。レッスン中の30分間というのは、ある意味ライブと同じともいえなくもない。なにせライブでフレーズの、いや曲の途中に咳やげっぷできるわけがないし、トレーニングで100%やれる人ならライブではそれ以上できるはずだから少々喉も赤くなる。
だから個人レッスンのときに高い方へ上がっていくときに、体の変わり目はどのあたりで、どれくらい行くと戻ってきたとき低い方に影響が出るか、低い方も同じように変わり目はどこかと、それをちゃんと感じ取っておいて一人でやるときはまんなかの音からその上下の変わり目以内でやるべき。極論すると、一番出やすいまんなかの音だけでもトレーニングできるし、その一番の中に色のポイントを見つけていけないと発展しない。変わり目の外側の音は、その日のトレーニングの最後に中間音がうまくいっているかを確認する意味で少しやってみる程度でよい。
冷静に考えれば、個人レッスンでは自分より耳のよい人が完全に客観的に声を聞いてくれていて、その都度次々に課題を出してくれているのだし、しかもそれはこういう状態のときはこうやっていけば声がお安くなっていくというノウハウに基ずいてピアノを叩いてくれているのだから、一人でそれをやろうとしても無理である。
そういうことから考えても、一人のときはまんなかとその前後の少しの音で、そしてトレーニング後にトレーニング前より声が出安くなっているかに注意してやるべきだ。個人レッスンの30分を全部満足に発声するためには、まずその中にある課題をひとつずつ片づけていくのが正解だ。
どんなタイプのトレーニングをやるにしても、何ヶ月、何年と続けていくならば集中力を毎回保っていくのは大変なこと。単調な作業を繰り返していこうとすると、必ずやり始めた頃の新鮮な気持ちはいつの間にか忘れてしまって、下手をすると何でこんなことをしているのかという所まで頭が行ってしまったりもする。そこで、いつもちゃんと気持ちを入れてトレーニングできるかどうかの鍵は、現在の自分の立場を忘れないことだ。
そもそもこんな面倒なことをやろうと決めたのは、余りにも自分の歌が下手だと感じたからだったはずである。ところが内にこもって一人でやり過ぎると、ほんの少しの体の変化でもうれしいものだからそのことに酔ってしまって満腹感から抜け出せなくもなる。こういう時期が一番成長の妨げになるし、ただ時間を費やすだけのトレーニングをしてしまう原因だ。だからこういうことにならないために、常に刺激を受けることが大切だ。
グループレッスンに顔を出すのも有効だ。だいたいトレーナーの声を一声聞いただけでもその違いで全て思い知らさせるけれども、同じようにレッスンを受けている人達の中にも自分にない物を持っている人はたくさんいて、同じ条件の中で劣っている部分を感じられる。それら感じたことを胸の中に刻み着けて家に帰って、その悔しさとか情けなさとか恥ずかしさを思い出しながら床に着く前にもうひと踏ん張りする。これが大事だ。
確かにスタジオでグループレッスンをやって割と夜遅くに帰宅したのなら、実声を使ったトレーニングをしなくてもよいと思うけれども、今日は一時間レッスンを受けてきたからこれでおしまいではなくて、基本姿勢や落ち着いて深くゆったりした呼吸を確かめ直したりとか、少し息吐きをやってフォームを整えておいたりなど、時間は少しでもよいから必ず何かやっておくべきだ。
外に出て行ってレッスンを受けるのは、それで満足しに行くのではなく、自分はまだまだ未熟だという事実を思い出しに行くのだ。だからその思いが温い内に少しでも体を動かすのが、一番身になるトレーニングだ。プロ野球でも秋期キャンプは大切だといわれている。
以前にいっしょにレッスンを受けていた人から、研究所を出た後に何の進歩もないという電話が少々不満のはけ口気味にかかってきたり、すっかりタダの人々戻ってしまったトーンで横のつながりを大切にしようとかいわれたり、ライブをやるのできて下さいといわれたのをハッキリと断わって切った後や、そういう人から届いたコピーを貼りつけた葉書のDMをゴミ箱に捨てた直後も、適度に体が温まって充実感のあるトレーニングができる。
何かやれる、ことを起こせると思ったからこそ出て行ったのだと思っている所へ意外にもめちゃくちゃにめめしい直接的な友達宣言的案内状がきたら本当におどろく。こっちはてっきり風の噂で呼び寄せてくれるものだと思っていただけにそのスケールの小ささに腹が立ってきて、こんなふうになったら本当におしまいだと思った。その直後にトレーニングをやると集中力が増す。だからこういう嫌なこともよい方に切り換えて使えば、気分的マンネリを防ぐきっかけになる。
ただ単に美しい音としての声を求めるだけなら、絶対に健康的に生活して、ストレスなんか全く溜まらないようにした方がよいに決まっている。しかしその声に乗せて伝えたいことというのはそんな完全なヘルシー生活が実現すると同ときに消えてしまうような気がする。気分よく目覚めて快調に働き、仲間と飲んで騒いで幸せ感いっぱいで眠る。こんな所から出る歌はどんなに美しい声であっても楽しいのは内輪だけで、他人に聞かせるものでは決してない。
深く考えさえしなければどんなときも楽しいかもしれないけれども、ついついいろいろと思ってしまうからこそ人によってはそれが歌として現れてくるというのが本当だ。それでそうなったならなおのことお酒やその日その日の馬鹿騒ぎでチビチビ発散しないで、というか本当に大事なことに思い当たったらそんなものでは納まらないのがわかってくるとは思うけれど、そのうっぷんというようなものをもトレーニングのエネルギーに変えていった方が、これも時間だけが流れてしまう充足感のないトレーニングを防ぐ方法だ。
そうして最終的には他人に歌を聞かせるのが発散する最良の手段となっているべきだ。これは極論で、本当は精神面での健康は考えていかなければいけないことだけれども、自分にとってのよいバランスを知るためにもギリギリまで極端にした方が後々のためにもよい。
カラオケに誘われたときに断わってばかりいないで年に1~2回つき合ってみるのもトレーニングをやる気分を充実させることになる。自分がちゃんとチェックする気持ちさえ持っていれば、カラオケといえども満足には歌える曲が一曲もないことを改めて思い出すし、声に関するトレーニングの発展途上の自分と何にもしていない人とを比べると、かえって何もしていない人の方がテレビ・タレントの真似をうまくやってしまってカン高い声も出せたりして、そしてまわりの人は高い声が出た方を歌がうまいといって拍手する。
それから自分にうまいといった人が、自わから見て決してうまいとは思えない人にもうまいといっていたりで、情けないやら悔しいやらで、本当に心底これでは駄目だと思えてくる。このように自分がしっかりチェックすることを忘れずにいれば、たまにカラオケに参加するのも非常に危機感を思い出させてくれるチャンスになる。そうした後でたとえば息吐きでもやれば、今までの甘さを再チェックできて同じトレーニングでも中身が濃くなる。
長さが何10メートルもあって、更に幅も自分の身長の15倍くらいはある紙、これはフォト・スタジオでモデルさんの撮影のバックとして使われる物だけれども、このような物を一度ひろげて使った後に、元通りに円柱状に丸めなければならないとする。部屋に貼るポスター程度でもそうであるように、急いでやると側面がはみ出してきて横からたたいたり、そうするとたたいた箇所が折れてくるので結局ひろげてゆっくりと丸め直さなければならなかったりする。早く美しくできればそれに越したことはないけれど、それが難しければものすごく遅く慎重にやって行く方がかえって近道なのかもしれない。そういうことを思ってから息吐きでもやれば、汗ってイライラしてトレーニングが上の空の状態のときには効果がある。
高くて遠い目標を持つのは絶対に大事だと思うけれど、それだけだとあまりにも自分とかけ離れ過ぎていて、本当に気がめいってしまって自分は何と無駄な努力をしているのかと思ってしまう。でもそんなことは承知でやり始めたのだからその辺は気が重くなるほどにはこだわらない方が身のためだ。ここで大切にしたいのが、自分より少し前を行っている人の存在だ。確かに自分より進んでいるのはわかるけれど、地道に努力をしていれば何とか追いつき追い越せるのではないかというくらいの関係の人を少し気にかけてみるのもトレーニングに力が入る要因にできる。
陸上競技の競争でも、前のランナーに引っ張られて記録が伸びることがあるようだし、水面に起こる表面張力のようなものが人間にもあって、ギリギリに近い力関係の人に引き上げられて力を着けてしまうことがあるのではないか。
10年ほど前に藤子不二雄Aさんが描かれたトキワ莊に住んでいた若い漫画家達の話を読んだけれど、あんなふうにいろいろな個性の持ち主が互いに刺激し合って自然に伸びていける時期があるのとないのとでは物すごい差がある。だからそういう具合に大目標はそれとして心の中にちゃんと置いておいて、当面の目標をキッチリと片づけていこうとするのも、1回の息吐きに真剣さを増す術になる。
地道にコツコツ努力しているときに、他人からの褒め言葉ほど気をつけなければならないものはない。自分以外の人々と切磋琢磨するのは素晴らしいけれど、ちょっと油断すると、ものすごく簡単に人を褒める者が現れてしまうときがある。
地味な作業の中、適度なタイミングの褒め言葉は確かにうれしいけれども、正直に受け取り過ぎるとその後のトレーニングの内容が薄くなってしまう恐れがある。だからそんなときはもう一度冷静に考えてみた方がよい。
たとえば「よくなったね」といわれたならば、それは本当は「初めて聞いたときは本当にひどかったけど、それに比べたらまだよくなったね。」ということだし、「今日の中では一番。」といわれてもそれは「どれも今ひとつだったけれどしいてあげるなら貴方が今日の中では一番。」ということだし、「うまいですね。」といわれても「私よりはうまいですね。」ということであって「マライア・キャリーよりうまいですね。」といわれているのではない。
「ライブをやるときは絶対行きます。」というのも「ブルース・スプリングスティーンが同じときに同じかそれより安い値段でライブを演るとしても絶対行きます。」といっているのでは決してないはずなので、変なことで気合の入っていないトレーニングをしてしまわないように気をつけるのも大切なことだ。
よくもまあこれだけ自分がろくにできてもいないのに、しゃあしゃあと理屈をこねられた物だ。できないのを理屈で胡麻化そうとしているとさえ思えるくらいで、もっと具体的に書けないものかと非常に恥ずかしくも思う。
突然話は変わって、読売巨人軍のV9時代に当時の川上監督がナインを全員集めてミーティングを行い、そして全員にそれについてレポートを提出するよう命令したときに、長嶋選手はレポート用紙一枚に「わかりました。」と一言書いて出したそうだ。
自分も究極的にはこうであれば。一曲か一声でも聞いてもらって全てを表現できているように、そう思う。