課題曲レッスン シャンソン
シャンソンレッスンアドバイス
AIでのレッスンリライトなので、わかりにくいと思いますが、
それぞれの曲の歌い方よりも、
歌へのアプローチのヒントとして、
参考にしてください。
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「私の孤独」
音色が出たところでバランスがとれていたのは10、20、32行目、Avecだけ。全体には結びついていたりいなかったり。音楽的に処理しなければいけない曲だから、声があったりすると逆に歌が難かったりする人が多い。テイストでもう少し音楽的に処理できたのでは。
2番19行目Non、20行目Avecはいいです。最後のBの繰り返しの音色とかバランスがこの曲であればベスト。31、32行目のように頭から歌えたら問題はなかったです。
体と息が見えるのですが、声が乗っかっていない、2曲目は体と息が引っ込んでいる分、張り上げて歌う曲ではないし、ムスタキも淡々と歌っている。
体と声のある人はかえって難しいけど、それが抜けたところが31、32行目。マイクを使って歌うということだと、そのバランスで仕上げていけばよい。全曲それで仕上げるのは難しいですが。
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「長い間一人で」下げて。「けれどいつの間にか」歌い上げないで言葉で言ったところで。「間にか」外れている。均等なのでメリハリつけていい。ポジション押さえられているのでメリハリの問題。そこで掠れないように。
「けれどいつの」動き出してきています。
練習としてはそうやって一行一行フレーズを確認してから、最終的にはそのフレーズは、音高のために使えないことはあっても、何かニュアンスが残るような形にしましょう。
間合いとか表現、自分なりに考えてみて、ここは、その人の体によって呼吸の強さとか感情の込め方によって全然変わってくるところです。
それで伝えたなと思うところを拾って、それで全部歌ってみても一つ二つしか出てこないでしょう。それが三つも四つも出てきたら大したもの、そういう勝負です。
ピアノでもトランペットでも正しく弾いた、正しく吹いた、でも自分の出したい音は何なのか、表現したいのは何か、それを見つけてきてなんとか詰め込んでいくのです。
プロは口先でつくってしまう、つくって働きかけるやり方を知っているから、でもそのやり方が見えてしまうと退屈でワンパターンに聞こえます。
お客さんはそんなことを考えてないから、ちょっと変わった音色とか癖のつけ方などがよかったりするかもしれません。そこはポップスの場合、お客さんとの絡みなのです。
そのことで喉の状態が悪くなったり浅くなったり、楽器の使い方がいい加減になったりすることがないようにしましょう。とはいえ、それが正解ではないです。
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「愛の讃歌」
「生きていたいの」、「え」の位置が浅い。「命の」、「ち」何かまだ引いています。歌いやすいところ、声楽的なものも入れて。「限りに」、「に」のひびきが外れています。潰しています。
気になったのは、抜けるところ、フォーク的な歌い方で喉に圧力がかかっています。それでよくなるならいいのですが、喉の状態が最後に悪くなっている。
ポップスはそこで歌っている人の方も多いです。
「かぎ」は動けるけど「りに」は動けない、浅くなっています。「ぎ」「り」より「に」の方が鼻に抜けるので本当は楽でしょう。「に」が「か」と同じくらい開いている方がいい。それが喉が開いている状態、本当はそれ以上喉は締めない方がよいです。そうすると唱歌っぽくなってしまいます。ポップスでは嫌う人もいるから、ステージ的には何とも言えないのですが、その状態で歌い続けていると流れていって、声も使い難くなったり言葉も言い難くなったりしていきます。ですから、最終的にそこで歌えるようにしていくかもしれないとはいえ、それをやるなら、こういうヴォイストレーニングで喉を開けることをやっておくことです。疲れたりハスキーになったり音を失うこともあるのです。
「帰ってほしいの」の方がつくった声のようでした。
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「ラ・ボエーム」
前半のつながりは、フランス語でないとよくわからないこともあります。
Bサビの入り方はよかった、13行目の入り方はよいです。15行目は入り方がよくなかったがその後収めています。13~16行目はマイクを通せば問題ないです。それから比べると61行目からの終わり方は乱れています。
最後の最後は違うバージョンでなんとかうまく締めた感じです。あいだを飛ばさなければうまくいったのか逆にもっと乱れたかはわからないが、13~16行目の音色、または12行目の最後あたりの音色をとってきて統一できればよいです。あとはリズムの感覚のところはフランス人でないと言えないところがあります。
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日本語の深いポジションなどの勉強、あとは畳み掛け、Aの展開をメロディーにしていくところ。日本語の場合、シャンソンは言葉から入るにはカンツォーネよりも使いやすい場合があります。
カンツォーネはイタリア語の方がよほど楽なのです。シャンソンをフランス語で歌うのは大変です。そこで、日本でも日本語をつけて歌う方がメインになりました。
声を聞かせるよりは詩を聞かせる方がひじょうに多いです。長い詩が多い。日本語で、変な癖をつけない。「開く」が押さえられていません。起承転結、
「モンマルトルのアパルトマンの」までのものを「窓へんに開く」でピーク「リラの花よ」で押さえる、その流れを崩さず「愛の部屋で」、そこまでのフレーズをつくります。
「開く」が発声が開いています。「リラの花よ」までで。「に開く」を押さえられていない、ここにピークをもってくる意識を出だしから。「開く」で強調することで、そのあいだに「リラの花」を入れると次の「愛の部屋で」が1に戻ります。
このあたりを1~12行目がそれぞれわけて歌っていると全部バサバサになっていきます。
大体「アパルトマン」くらいで浮いてきます。押していくというかドスを効かすとか迫力とか、重みを加えていった方がこの手のものは進行させやすいのです。
歌ってしまってはだめ、歌わされてもだめです。皆12行目までで歌ってしまってサビの「ラ・ボエーム」からはとってつけたようになってしまう、ここを歌うために12行目までのストーリーをつながなければいけません。その先、「君をモデルに」がピークです。
普通は4、8、12行目がピーク、あるいは3、7、11行目。それがずれ込んで捉えてもいいし、6、12行目でもいい。4~5行目がピーク、9~10行目でそれを大きくして、11~12行目で「ラ・ボエーム」につなげるところ、それを9、10、11、12、全部歌い上げてしまうと大変です。
そういう歌い方をしている人もいるが。1~10行目、惜しいところある、分散しているから仕上げたいならどこかに集中してそこを細かくしてあとは捨てていくか。
全部歌える人は本当に少ない、大体の人は取捨選択しなければいけない、アマチュアほど取捨選択できず全部歌ってしまってだめになる、それはプロの全部歌えるのとは全然違い、単につなげるだけです。4~5、9~10、両方活かせないならどちらか捨ててよいです。人によって違います。1~12行目までで。呼吸の問題、発声の強さ、声の強さ、そういう問題になってくるので、今すぐにはどうしようもないけど、解決策としてはもっと詰めていくことでしょう。
ゆっくりするほど難しくなるから1~2をもっと早く言い切ってしまってそこで見せていかない、開いていかないことです。6~8もそれを一行くらいで言い切ります。それぞれ展開していくと大変な体力が必要です。テンポ上げて緊張感高めることです。
「僕」がすっぽ抜けています。「僕はいつも絵を描いてた愛しい人君をモデルに」言わされています。自分で押さえ込んで動かせていない、負けています。前半はもっていけているので分けて練習します。「僕はいつも」から。前半の方が大きい、体を使っています。後半の方を使わないと。「君をモデルに愛し合った君と僕の」が同じくらいの力で「二十歳の頃」に余力がきてしまっています。9~12までだけで。「愛し合った」の「あ」と「君と僕の」の「き」が入り切っていません。「頃」になったら若干乱れても全然構いませんが、「愛し合った」は合わせたい、「「愛し合った」だけ。そこでもっと強く。1フレーズでもピタッと収まったときはその前のフレーズも聞こえてくるしその後も道が描かれます。
全部歌わなければいけないのは何も入れていないからです。イメージが入っていたら、そこしかいくところがないというところが見えてくる、そこに乗せていったらピーク、山場にさえきちんと体と感情を入れていったら後は歌わなくても流れてきます。そこを変に歌ってしまうから歌を歪めてしまうのです。
「リラの花よ」ができているから「窓へんに開く」も「愛の部屋で」も落ち着くところに落ち着いています。特に後ろ。うまい人ほど1フレーズ歌うと後の3フレーズくらい、結局4つの一つのブロックが歌わなくても、そこで黙っちゃっても成り立つくらいのことを表現しています。それを一行、一行、ぬるくしていけばいくほど、ドロドロダラダラ。同じフレーズを繰り返していいのだけれど、言葉も同じにしてもいいのだけれど、その変化の部分を音楽性としてもつでしょう。
言葉としてもつのは役者。役者はこういうのをうまく歌う、でも役者の場合は音楽的ルールを押さえていないのです。映像のように表現するが、1番で表現したものが2番でストーリーが変わると全然違う表現をしてしまいます。それは音楽ではないのです。
同じメロディーやフレーズ、切り込みがあるところにまた重ねた快感が来なくては。いくら長く聞いてもいい。役者の場合は1回歌い切ってよかったけど2回目はもう少し忘れた頃に聞きたい、勝負するところが違います。
「ラ・ボエーム」が繰り返される度に聞く人がどんどん好きに気持ちよくならなければいけないのに、大抵は、ああまたか、と飽きてくるのです。言葉の違いしかなければ2回目に歌うときにはもうわかっているから聞くところがないです。
表現するのに3年5年、1年毎に歌ってみて出てくればいいが、その頃には皆体とか息を使わなくなってしまう、そこが困ります。慣れてくるとそのルールで案外もつし、周りもその方がよくなってしまいます。
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「甘いささやき」
抑えた入り方で語るような始まりは構いませんが、どこかでピークをつくっていかないと、流れてしまいます。あるいは、その予感を出していかないと、どこかで歌になるという伏線、その引き方のよし悪しが問われます。6、7行目くらいでもう少し何か見せていかないと、8に入れない、そこから11くらいまでの流れです。
パローレの3行目の3つ目の最後のレ、強過ぎるというより微妙なピッチの違い、流れができていないときは同じピッチでも心地よく聞こえないです。
2番に入って最初の3行は1番よりはよい、21は1番と同じような感じ、22、23は稼ぎどころなのに普通、24の切り出しは1番よりはよいです。25、26も、27から28にかけてはもったいない、29に入る前はブレスの切り替えが見えなければいけない、
31最後から雑というかコントロールできなくなっています。34、35の頭はよくない、37、38も、パローレがこれだけ繰り返されるので音楽的な処理をしていくことでしょう。
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「ミラボー橋」
抑えた感じで出ているのは、それほど問題ないでしょう。5、6の置き方はよくない、日本語ではもっとだめ、4から5、6の構成がわからない、11、12もそれに近いがまだよいです。16から17、18は見えてくる、23、24はよかった。
声域やキーの問題ならしかたないけど4番でできているから、それを頭からやれば、構成力よりテンションもあるだろうけど処理の問題です。できるのにやっていない。
歌は1番が流れがつくり難い、特にアカペラは自分で流れをつくらなければいけないので一旦乗るまでは難しいです。
構成はフランス語で見る、日本語は日本人が聞くように歌詞で聞いたが、言葉は聞こえるが「セーヌ」の「ヌ」、「悩みに続いて来たの」ぐちゃぐちゃ、「波打ち渦巻き音無く流れる」まあまあ、「歩みの遅さよ激しい希望よ」はよい、「月日は流れる私は… とどまる」はよい、
同じ人が歌ったと思えないほど同じフレーズなのに変わったでしょう。
それはフランス語と同じように言葉のせいではなく流れのつくり方です。後半は流れがよかったので言葉だけ言えば「セーヌ」と同じく「滅びるもの」、「水のように」の「ように」、「物憂い」の「憂い」、「人の世の」の「の」、「歩みの」の「み」、「のぞみよ」の「みよ」、発音が間違っているとかはっきりしてないとこではないのです。
プロのシャンソン歌手はそういうところは、演歌歌手と同じですごくきちんと言うので、比べるとよいでしょう。そういう人たちが審査員のときの判断基準には上がってこないものが本来なら大切です。
「寄りかかると」「蘇るよ」「鳴り響け」もっと稼げそうです。
「月日は」の「日は」はちょっと、でも最後のフレーズは、よいです。
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「ドミノ」
感覚的には3、15はよかった、しかしそれを受けている4はどうか、16はだめ。同じBでも1番の5、6は踏み込んでいて7、8は浮いています。
落ち着いてはいないけどそういう構成かと思うと、2番は全くそういう構成はとれていない、
何かやるならやって変えるなら変えたと見せないといけないところ、判断つかないのはそういう意味ではよくないです。
B'9、10に対して11、12効果がないから結局BとかB'は構成できておらず、2番はそれを確認させるような感じ、27決まればいいが流れています。29、30、こういうところの感情の込め方、フレーズのつくり方はもっと工夫しないと。日本語、1よい、2もよい、すごく厳しく言うと「悩ます」の「す」、「悪魔」の「ま」物足りないが、3「知りながら」は「がら」の処理もう少し何かできそう、
「なぜになぜに」一つ目はいいけどもう少し言葉とメロディーのよいところをついて言い表せる可能性があるのにもったいない、「君の瞳」からかすれる、ど真ん中から逸れてきて、「春の日ほがらに」流れをとって雑さが見える、「されど君が浮気心あすは人に移りゆきて」何かやろうとしてたところのつくりかけのようで物足りない、
25「ドミノドミノ」戻せたが26「ドミノドミノ」の乗り方は甘い、「泣いたとて」の「て」引っ掛かる、「のがれられぬ二人の運命ドミノ」はよい、最後の「ドミノドミノ」空回りしています。全体を引き受けてこれで決めた感じがしないでしょう。
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それで70点くらいの線は引っ張っているし流れもできているのだから、その流れの波みたいなものをより強く強調し引き上げるでも踏み込むでも、その流れをとって次に行けば歌う方も楽になる、まだふかすところでふかしていない、場所もわかっているけど踏み込みが弱くメリハリが効かないです。
歌壊れてもいいので無理に効かせてみて。「ドミノ」が強く「わが思い知りながら」の強さがないです。1234なら、皆1は意識するがその前、1は4から入るので、4からノンブレスで1にいく練習をしていた、「天使」から「ドミノ」とか、「知りながら」から「なぜに」とか。
構成力展開力が問われる、そういうものがあれば小さい声でもそれなりにきれいに聞こえるでしょう。
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「桜んぼの実る頃」
日本語は、別の曲と考えてもいいくらい。「桜んぼの実る頃」は初心者かベテランが歌うことが多いかもしれません。
1オクターブくらいで残っている曲は名曲が多い、1オクターブくらいでちゃんと伝えるには歌い手の技量がいるが、日本では2オクターブとかあると初心者は出せないから、選ぶ、案外、それで初々しくてよかったりする、3年くらい経ってくると、むしろボロがどんどん出てきます。さらっと歌って今まで歌ったいろいろな歌の何かしらが残って無難に、途中でどこか止まらずに終われたらよいです。それを邪魔するところは、どこなのかとみましょう。
処理で言えば助詞で引っ掛かるところがある、「紅い雫が」の「が」、「過ごした」の「た」、「偲んで」、言葉が声の動きで潜ってしまうところ。あとは日本語をどれくらいクリアに表現するかです。
この手のシャンソン歌う人はすごくていねいに歌う人が多い、日本の唱歌のような歌い方、合唱団のように個性を出すよりは歌がよいのだからそのまま詠み人知らずのように。
コラ・ヴォケールもおもしろいわけではないが、かと言ってあんなふうにさらっと歌うのは、難しい、そのさらっと歌えないところをチェックしていけばいいのです。
「さくらんぼ実る頃は」というテーマは、ある程度構成していかないと、特に日本語は着色しないと成り立ち難いです。「乙女たちの」よい、「心乱れて」はどうか。「焦がすよ」若々しく切って出してもいいがそれはやはり徹底して全体をそうするとか4番はそうするとか位置づけを決めないとそこだけ目立ってしまいます。
「愛の歓びを」の「を」、読みの場合助詞が目立ったらおかしいが歌の場合は目立たせていけないわけではない、きちんと歌う人にはビブラートかけて目立たせる人もいるが、消し込むのが今どきの方向か。どちらでもいいがそれに対して「皆歌うよ」がちゃんと降りてきているか。
この曲は全体でよかったとか悪かったとか味があったとか懐かしく思ったとか、あまり細かく一つ一つどうこう言うような歌ではないです。
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「アデュー」
1~2はいいけど3~4はフランス語も日本語も構成がよくわからないです。5~6、抑えたところで聞かせるということではいいが6最後少し重い。7も抑えているところで構いませんがその場合やはり8最後が落ち着かないです。10、6ほどよくない、11~12、7~8よりはいいが相当リズム的にうまく処理しないとなりません。
日本語で見てしまうとリズムに合わせるのは難しい、出だしの4フレーズと似てきます。これら伏線の上に13が結びついてガラッと変わる13に入るわけでここも展開、15、16、の後半よく。わからない、日本語は言葉で聞けばまだわかりやすい。
そこからさらに17Adieuにもっていって展開、後半上げるのはよいです。でも18で重ねたときにあまり効果を上げておらず元に戻した方がいいくらい、その反動か19~20は落ち着いてフレーズが成り立ちました。最後日本語、23リズム処理、24フレーズ処理、多分練り込みの問題、この曲のリズム、フレーズ、構成、展開、まだ複雑になっています。
さらっと歌わなければいけない歌だけど、日本人が歌うとそこが実力差、大きな歌になってしまう、音域が広い、サラッといっているところを歌わされてしまう。歌わされてしまうとよくない歌です。そういうのは多い、民謡以外、Adieuをメリハリつけて歌うという手もありますが。
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「幸福を売る男」
音域の違いとは思うがあまりAとBを分け過ぎないことです。
日本でシャンソンを歌うなら、「歩く」「売り」「頰」「恋」「風」、アナウンサーのように練習しておいた方がいいです。でないとセリフや言葉を大切にしている人たちに届かない、
そういう世界の審査のやり方は、逆でクラシック的ではなく歌謡曲的。
プロはフレーズもできてなく声もないが、言葉がすごくていねいで逆にそこにこだわるから声量やフレーズやメリハリが出てこない、お客さんが言葉で聞くのです。
朗読の世界、表現が豊かというか具体的、朗読も決して自然ではないが「つらい」とあればこういう感じの言い方をしなければいけない、というのがあり、それはシャンソンの歌手にでもつくしかないです。それにしても言葉が浮き出てこないので日本語で歌う場合は気をつけた方がいいです。「恋」「口づけ」気を使って言ってますよというような演出です。
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フランス語Aの声のくすみ方が気になる、日本語、日本人が歌うとそうなるけど切り過ぎ、8つに完全に切って言葉で歌う世界もあるが、もったいない。Aのつくり声、AとBの二役、Aの言葉とBの歌、の繰り返しとなればBで勝負しかない、それでもBの完成度50%くらい、5から8よりは13から16の方がよかった、日本語は21から24がよい、フランス語は13、14、15の前半、16の前半はよかった、15、16の各後半がよければ13から16通っていた、28最後もどうかと言う人もいるだろうけどまあよいでしょう。フランス語は少なくともBをそのレベルで通せたら。日本語はまた別の問題が出てきます。
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「サ・セ・パリ」
日本語だと歌詞を重視しないと伝わり難いが、フランス語のときネイティブが聞くのと日本人が聞くのとでは相当違うので判断には迷うが、これも音の流れを楽器的に置いていってつないでいます。
1曲目に比べ、ギリギリOKだが聞く人によっては間延び、3や5、7で何かできそう、Bに入ると言葉と10、12、14最後はみ出たりリズムが段々乱れ、そのまま回復できず15へ、15から16のつなぎはすごく大切だがこの流れがよくない、15の勢いを借りてメリハリがあるとスムーズなのだが。16以降は1からに比べたら明らかに崩れています。24はまあまあのまとめ方。
これも楽器的に声を捉えるのであればアリだが日本人向けには難しいです。以前声が上でかすれたり欠点が顕に出ていたのがないような歌い方ではあります。その欠点は今日は4曲目の最後の方だけ。
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密度が違う、表面を撫でています。1から4まで流されています。原曲の人は体も強いし息もあるし深いから、そのレベルは無理でもその半分くらいのことはできます。声量として強いのではなく声の芯としてのつかみ方をもっと強くしないと3~4が全然動かない、これも起承転結です。
もう一度、強めでよいです。ここしかないと思って大きくつくって。もっと強いところ強調して切れないか。ロングトーンのよう、スタッカートまでではなくても強いとこもっと強く。1行に2つずつ強くしないといけないところがあって8つ、しかもその8つが目立たないように構成しないと歌が展開しない、本当は8つ同じ強さではだめです。
3~4で方向が変わっていないと5~8はもたないです。1~2だけ、目一杯強めに。まだ体半分、7割は要る。「Paris」で息や体で切る音が入るくらい、大きな声で喋っていくのです。
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「谷間に三つの鐘が鳴る」
物語になっているので、読んでみればすごく単純で、言葉で処理するのが一つです。もう一つは歌である以上、鐘が鳴る、三つの切り返し、同じ歌い方でよいです。最後ちょっと変えるくらいです。原曲は淡々と歌っています。「甚六兵衛さん」とか日本語の処理が若干難しい。
「門出」の「で」、「祝って」の「て」、言葉に囚われると6、7、8の流れが悪くなるのをきれいに処理する、シャンソンによくある言葉でストーリーを語った後にメロディックに展開する典型的な形です。
「鐘が鳴る鳴るよ」が3回出るところが切れ目、全部語尾を伸ばして音楽的に処理するのはいいけど、少なくとも15、16、17の3番まで共通する部分、流れを何かしら切り出していかないと、流れただけです。2番「鳴るよ」の「よ」ブレてきます。
どう見せるかはっきり決めて切るなら切る、見せるなら見せる、出ないとダラダラ。3番「星のきれいな夜」など歌詞は工夫して若干変えながら繰り返されているので、歌い手がそのへんを強調して出すべきです。あとは構成に合わせて変えていく、生まれて、結婚して、死んでいった。
あまり派手に歌う曲ではないが、音楽的に処理してその繰り返しの効果を最大限に活かしつつ、言葉で音楽を壊さないようにていねいに説明していって、これだけ長い三つの場面を切りとらなければいけないです。アカペラかピアノ伴奏程度でもいいです。こういうのを日本人は歌ってしまうが、向こうの人たちは抑えて自然に言葉を置いていきます。歌わない歌は難しい、そういう意味で勉強になります。
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日本語なら「星のきれいな」はかなり目立たせた方がよいです。ニュアンス入れた方がよいです。そこに「赤ちゃん」、「甚六兵衛さん」、そのつながりをかなり意識してもっていく、意図的に切り出した方がよいです。フランス語ではそこまでやる必要ないでしょう。9から「鐘が鳴る鳴るよ」はいいけどここも「甚六兵衛さん」「誕生」、聞いている方はこの物語聞いても案外「甚六兵衛さん」くらいしか覚えてないのでキーワードはかなり強めに見せないと曲がわからなくなります。
ポイントは15~17「小さな命の」からの三つ、どれくらいもっていけるか、畳み込むのです。相当派手にやっても目立たないです。
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「ブン」
シャルル・トレネは、鋭いリズム感、鋭い声ももっています。シャンソンによくあるフランス語独自の語感でつくられていて、訳しようもないものを無理に訳しながら音のおもしろさを追求する歌。Cが成り立たないと、擬音部分などよりもしつこく執拗に歌い込まないと、その後流れていってしまいます。言い切っていく曲でしょう。
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「サン・ジャンの私の恋人」
一つの流れのなかでどこまで切り込めるか。歌い方で切り込んではいたが、後半でバタバタしてきました。切り込んで歌うとメリハリがついていいのだが、気をつけないとワンパターンになってしまいます。最初、問題ないです。「甘いささやきなら」の「なら」、「それっきりよ」、「あの人のものなのよ」言葉で勝負するのか曲調でやっていくのか二通りあります。「騙されても」の「ても」、「愛してしまった」の「しまった」よくない。「甘いささやきなら」の「きなら」、このへんから歌のスタンスが閉じていく、歌の幅が保てなくなってきています。スタンスが壊れると歌は成り立たなくなる、内側に入ってきます。
「嘘と」はだめだが「私はいつも信じたのよ」で立ち直った感じはありましたが。「初めての恋だから」の「恋」「ら」、「私は」「夢中」「だったのね」閉じていったせいでそうなるのか、切り込みが、前半効果的だったものがパターンに飽きてきて読めるようになるので、特に「信じてしまうもの」、「甘いささやきなら」はよいのに。「あの腕に抱かれれば誰だってそれっきりよ」同じフレーズが最初に出てきて同じように歌ったときは切り込みでよいと思ったのに、ここでは切れ過ぎ、さっさと行ってしまう感じ、スタンスが崩れたのでしょう。
「いいじゃないの」はよい、「過ぎた」はよくないです。完全に崩れているわけではなくて、ところどころ立ち直ったりフレーズが言えていたりはするが、落差、そこが繰り返されているからガタガタになってしまっています。前半を直した方が早そう。こういう歌は畳み掛け方がうまくいかないと、歌わされてしまいます。
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「モンマルトルの丘」
頭からそういうものがきちんと入っていて、フランス語というよりこの歌自体の語感とか曲調のリズム音感と合っているのか慣れていて入っているのか見えていて、フランス語でも日本語でもそういう意味の安定感はあります。6最後、7真ん中あたり、少し引っ掛かるがそれほど問題ない、9、10の流れ、11の最後もそうだが、12~14できれいに戻った、15、16、17最後も同様18~20で、でも少しずつ呼吸とか集中度は落ちてきているが、問題は21~22、35~36のB、根本的な問題は呼吸、呼吸の強さもあるが、もう一つは集中力維持力とともに、このフレーズ内のバランス、21に対する22、35~36も全く同じでいいのだが、線が弱くなっています。
2番に入っても言えること、26~28も前半より弱くなっています。31もそうです。あと他の曲でも気になったことだが、39最後弱くて伸ばすと、マイクがあればごまかせるしそれで歌らしくなるけど、基本的には呼吸とかバランスで言うと、歌の構成、全体の流れを妨げます。42もちょっと弱い。ただ比較的うまくまとまっています。マイクをつけたら気づかない程度には流せます。リズム音感で言うと、この曲の方がカンツォーネより難しそうなものだが、逆な感じになっています。
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日本語。「うずいたよ」の「ず」「たよ」問題。6、7、8、「肌」「女」とか雑、音楽とはまた別に言葉の処理をしないと。「めぐりあい」は「あ」で弱くするのはいいけどその後どうするか、同じです。15、16、17、このへんも全部言葉、日本語ていねいに歌い心情描写や情景描写をしなければいけないところでサッと行ってしまうと何も伝わらないでしょう。
何か一つ限定して徹底して伝えないと、18からは抽象的なので、具体的なところの日本語処理は、プロ歌手はすごくていねいです。そのために音感やリズムや呼吸が悪くなったりしていることも多いが、一般のお客さんは言葉で聞くのです。テンポは崩れてはいけないがゆっくり聞こえるように歌わなければいけないのがこの手の歌で難しいところです。
これだけの大きなものを言わなければいけないところでもっていない、発音よりはむしろこの言葉の世界を出さなければいけないところです。2番に入ると同じように26、流れが弱くなる、「胸ふるえ」まあよい、「しのび泣く」言い換えているけど、「花ひとつ」、素人の歌は語尾を棒伸ばし、プロのビブラートを真似ているのですが、「花ひと」まできちんと置かれた上で「つ」が伸びているならいいのだが、「花ひと」がざっと行ってそこに「つ」が少し強めに長めにつけると単に棒伸ばし、このような短い曲ならいいけど飽きられる元です。
日本語の場合は歌詞で組み替えているが、同じフレーズだしバランス位置づけから言うと歌詞によって歌い方変えてはいけないが、現場から言うと歌詞によって音色とか歌い方を変えた方が歌詞から見れば伝わる、そこは葛藤、迷うところです。35、36「かなしさ」から37「あの時」に入るところの呼吸はすごくよい、伴奏つくと消えるのでもったいないのだがこういう呼吸でとっていければよいです。その後「来ず」はよくないでしょう。
「遠い日」音楽的なことをどの程度犠牲にして言葉にするのか、本当は伴ればいいが、そうなると日本語の歌詞できちんと歌えている人を研究していきましょう。
高英男さんはクラシックの発声の上に日本語を置き換えているからメロディーを日本語の音に置き換えていくやり方なので聞き難いところもあったりするが声がいいのでもってしまう、ポップスから言うと、ちょっと邪道になる、よくも悪くも今の時代では難しいです。
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「サン・トワ・マミー」
呼吸の問題、発声の問題、発音の問題、フレーズの問題、表現など、耳で聞いて自分なりにつくってきたイメージと歌が一致しないところで何が起きているのか、それがどの問題なのかということです。
あまりにイメージから入ってしまうと、体がついていかないで全部が小さく途切れ途切れ、それぞれ何かやろうとしているのはわかるけれど、ど素人が思い切りよく歌っているくらいに表現力もなくなってしまっています。それではどっちつかずです。
「二人の恋は終わったのね」三割くらい呼吸が足らない、いや1.5倍くらいは必要。長くというより大きく、大きな声と考えたらわかりやすい、息とか体が使われているかわかります。
表現を考えて、それを逆に抑えつけています。「二人の恋は」に対して「終わったのね」が大きくなっています。逆。「二人の恋は」の「り」は問題、「い」も解決してない。「た」は踏み込まないと。言えてない。
フランス語だと日本語とは全然違います。「た」でバーンとぶつけています。歌だからそのくらいでいい。まだ引いている。引いているから「は」のところで余って下手な演歌歌手みたいにビブラートがかかってしまう。一番違うのは「二人」のところで入り込まないし、そこでリズムもフレーズもつくっていないから「恋は」がもたついてしまう、どんどんもたつく歌い方になってしまう。
「恋は」を小さくするのではなく、「二人」を大きく、5:5、7:3くらいにする。
「楽しい夢のような」かすれないところで、キーは歌のときのキーにとらわれず。「しい」「な」のところで引っ掛からないように。少しまだ広がっているのは、鼻腔の共鳴でまとめていった方がいいです。
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「水に流して」
「始まるのよ」かすれないところで。
「今から」の入り方。「今から始まるのよ」、「の」から「よ」の処理。より深く入れるのもあるし、上に浮かすのもある、とにかく喉にかけてしまうと、ビブラートとは言わないがひびき、共鳴がもたないでぶつ切りになったりガタガタになったりします。
マイクがあるなら一番簡単な直し方は、3割くらい声量を落とすことです。今のところで雑になってしまうとすべての歌がサビになったり強く出すところが同じようなかかり方をしてしまってそこで溺れてしまう、乗り切れない、上に出て来ない。
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「神の思いのままに」
1番の後半、特に1番の最後のところから2番にかけて、2番のA1、A2も崩れています。A1で崩れたのをA2で立て直そうとして頭は立て直したけど、そういう立て直し方をしてしまうと崩れてしまうのです。1番で立てたものを2番で崩して感情移入の形にもっていっています。普通は崩れてしまいます。
崩れ方もまだ作品の範囲ならいいけど、それでだめになるなら崩さない方がいいです。Bあたりから音色の置き方と感情の込め方の練習みたいなもので真似では通用しません。課題曲なので、真似てみて違うことに気づいたり、違うおき方ができたら、それはそれで一つの勉強です。
支えが気になる。入り方、必要性があってハスキーなりかすれるならともかく、そうでないとほわんとして、もっていけていないわけではなくてフレーズの後半になると戻ります。だから、それなら全部後半と同じノリのところで入った方がいいです。
曲が捉えられていないなりに、もう歌えています。安定度でいうと2番の方。ただカントリーっぽい歌い方になるので歌詞をメロディーに乗せて伝えていくということだけ、もちにくいです。
なぜこれが歌いたいのか、歌唱とかステージとして見たときに何かプラスアルファがないと厳しいです。1番でも、もっと思い切り外して構いませんと思います。ベコーは外しています。普通の感覚のところから。新鮮味とそこから納得させられるような納め方をするからよい作品になります。ある意味、詩人、パフォーマンス的な歌い方、一つの参考になるでしょう。
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日本人の声楽とジルベール・ベコーのオリジナル。声楽の勉強では歌えるように感覚や体や技術を身につける。日本と世界の差なので、最初から世界を見た方が複雑なことをやらなくてもストレートにできることもあるでしょう。
違いは構成と展開。本当に優れた一流のクラシック歌手はやっているが、日本人は考えもしていないことが多いからポップスなどに負けたりする。好き嫌いは好みの問題だが、世界に通用するしないというところでは、明らかに差がついている。
同じことをやっているので、レベルという話ではない。こういう曲に求めるのは同じこと。声楽家がシャンソンを歌っていると普通の場合はそう歌えない、それを目指すよりは、そこまでの技術がなくとも歌えてしまう人は、ポップスにたくさんいる。その方が、難しい、余計なものを使っちゃいけない、ということになってくる。体とか声とか。
ジルベール・ベコーは、シャンソン歌手、メケ・メケ(美輪明宏の最初のヒット曲)をつくった人で、世界的なヒット曲がいくつもある。この曲はたっぷり歌っている。打楽器的な、リズムで叩いていくような攻撃的な感じの歌い手。
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「パリの空の下」
ハミングのところがプラスマイナスゼロよりはむしろマイナス、この歌はそこも大きな要素になってしまいます。「行く」の二ヵ所、「い」から「く」、その「く」の伸ばし方のところ、音程は合っていても少し聞こえ難い、離れている感じ。「パリ」の「パ」も「ハ」や「バ」に聞こえたりしやすいところ。全体の流れでいくとCのところ、構成、もたれて歌いがちになりそうなところです。
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「ドミノ」
「泣いたとて浮世なら」、「と」と「な」が完全に殺しています。「ドミノドミノ変わらずと誓いてよ」、言葉としてもっとはっきり入れ込んでみることです。カーブを運転するときの最短距離で一番スムーズにハンドル切るように、感情移入よりは動きを一つにするような感じです。
「ず」と「誓」のあたりがどうしてももたつきます。「ドミノドミノ」だけ。キーを下げて。それでひびきを胸と上にもまとめて。発声から言うとそのあたりです。そのまんまで「変わらずと誓いてよ」。
もう少しフレーズを大きめにとって。その先「ドミノドミノ君ゆえに耐えゆかん」、もたついている。「泣いたとて」、「と」があたってない。「泣いたとて浮世なら」、「な」きちんと当てます。
大きな呼吸で、二つに考えないで一つで考えることです。「と」で発声が変わってしまう。響いているけどひびきがまだまとまってないです。呼吸を使うのはいいけど使った分だけが全部共鳴として効率よく線を描いていくことです。
その線が迷ってしまったりかすれたり、わざと言葉でおいたり息にしたりしないようにします。習字でいえば、そのかすれているのがいいとかで墨をあまりつけないでやるようにならないことです。今やるのは、とりあえずは、たっぷりと墨をつけて一番効率的にその流れの線を出すということです。余計なことをすごく複雑にし過ぎています。
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「枯葉」
一番欠けているのは、力強さ、パワーです。確かにイヴ・モンタンのを聞くと、他の歌では力を出していたり太い声を出していたりするが、枯葉に関しては柔らかくというか、むしろ構成で見せています。そこに引きずられてしまうとモグモグして終わりになってしまう、しかもフランス語だからきれいに回るが日本語だったらバタバタしてしまうだけ、ああいう処理の仕方を日本語でできるかというと多分失敗するでしょう。
トータル的にどう組み立ているかはいろいろあっていいが、何かしら出していかないと曲がもたないです。名曲、それだけのメロディーの力とか構成の力はあるわけだから、そこを歌い手が何かしら組み入れて、よい曲だということを知らせなければいけません。
名曲で誰でも歌える曲ではあるけど、本当に歌おうとすると相当難しいので、あまり選ぶ人もいない、有名だからカバーしておこうと、いろんな人たちが歌っているが、オーディションなどでこの曲は選ばないでしょう。それだけ華を出しがたい。
昔、越路吹雪さんで流行った頃は、多かったかもしれないが、大体サビで失敗します。深い歌。
枯葉に、全部合わせるということ自体に無理があります。それぞれ味もリズムも言葉も違うので、そのペースでやってしまうと、枯葉が完璧ならともかく、そこの問題を全部引きずってしまいます。
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「イザベル」
「Isabelle」の繰り返し。違うな、と課題はわかりやすい。「イザベーエール」になってしまう。まだ「エ」が広がっている。「イザベル」を「イザアベエルウ」と言うのはもう日本語。音としては音節一つくらいで捉えましょう、踏み込んで放すというだけ、それがフワンとなっちゃったらもう歌ではない、一つでなければいけない。「ザ」が踏み込んでいない。子音が弱い、「ベ」とか「バ」は日本人は強くしないから。
「イザベル」と考えると難しくなる。「.ザ..」「..べ.」とかそのくらい。「イ」の前の踏み込み、ここから入るのですがここから入ろうとするとこうなってしまう。これだけのアフタービートをとってなければいけない、1234とあって1。それで4つ目のその高さのところでシャウトできるかがこの曲を選べるかどうか。
日本人の場合は4つ目で歌い上げるしかなくなる、そうするとぐちゃぐちゃだけどその方が歌らしくは思われる、原曲はそんなこと全然やってない。あとは強く感情込めて、この曲は後になればなるほどセリフになってくるけどあれで音を処理している。
あまりメロディックになるよりは言葉のシャウトに対してメロディーを処理しているという意味だと、イザベルなどは音域は広くて大変だけど、これでイザベルが言えるところまでがその人の歌にできる、言葉が処理できる音域。もっと低いところからでないと出ないけど、そうすると女性は最初が出にくいでしょう。
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「想い出の瞳」
日本語の見せ方とフランス語の見せ方はかなり違うところがある。日本語は、フランス語のように投げ出したり引っ張ったり軽いリズム感でもっていけるようなものではないので、どうしても重くなったり情緒的になったりしがちだが、日本のお客さんに受けるのであればそれはそれで、ニーズも歌い手のスタンスも違うのです。
「だけどだけど好きなのよ」が単にパターンで終わっていいのか。原語は韻を踏んでそれだけで音楽的に聞こえる、わざとそれを繰り返すために並べたものとは違う。日本語の場合は2行くらいで終わってもいいのではと思うけど、日本人はオリジナルの真似が好きなので、もってなくても同じ回数やる。ピッタリ同じ回数やるのは、そもそもおかしな話。
原語は6行で効果を上げていても、日本語では2行で効果が上がり6行になったら台無しになるなら2行でやめるべきでは。ただファンはオリジナルを聞いてファンになるわけで6行欲しいのだろうし、そもそも歌い手自体がファンなので。そうなら今ふうなら「だけどだけど」でいいのか歌詞から考えないといけないです。昔の人はこういうところは、フランス語でそのままやって感覚を残したのでしょう。そのあたりも英語ならともかく、フランス語、イタリア語は、日本人にはわからない。日本の発展の度合い。昭和歌謡として歌っていくのかにもよるでしょう。
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「空と太陽と海」
日本語は譜面通りだと間延びしてしまう、原曲は間を抜いていると思う。音符についた通りにやらなければ大丈夫。「空と海と太陽とそれだけが恋の形見」音程をとるみたいに歌わないでつなげてみてください。
「それだけ」の「け」もきちんと収めて、最初の「空と海と太陽と」三つに分けないで。「何も言えずただあの口づけ」キーを下げて。フレーズの練習、リズムと言葉と、日本語のなかでは、なかなか練習し難しいです。フランス語の感覚で日本語で処理できると、すごく格好よく決まる歌です。
そうではない場合はほとんど駄目になる歌、はっきりとわかりやすいです。ベタで歌うと成り立たないけど、それを離れてシンプルに歌うと、すごくいい歌になります。
歌としては、きれいな歌だけど、普通の人が歌うとバタバタしてとても聞けない歌になる、叫んだり高くなっちゃったり喉を絞めたり。
1番の歌詞だけで4番まで歌ってみれば、差がわかる、それを踏まえた上で変えないと、歌詞に合わせて変えてしまうと何の勉強にもなりません。
あるいはハミングとかスキャットでもいいでしょう。
するとどういうふうに声を動かすかというのを、編曲ではないけど音を変えているのですが、ヴォーカルがフェイクしたり動かしたり、日本ではほとんどやらないけど、こういう自由度がヴォーカルはあるということがわかってきます。
フェイクとか、いわゆる変化のさせ方。歌唱曲にはなり難い、地味と言えば地味なのです。
シャンソン好きな知っている人に対して歌うならいいだろうけど、そうでない場合、レパートリーには、なり難いです。
名曲です。空と太陽と海、単に三つ並べていけばいいというだけ、
2番までで終わって、あまり変化がやれてないので、日本語で同じ歌詞でやるとよいです。違うパターンで4つ、そうなればなるほど、1番でスタンダード、その通りに歌うのがすごく大切になってきます。
Aのところで構成を出さなければいけないのです。Cはテーマなのでのほほんと歌ってもいいししっかり歌ってもよいです。こういう歌だよと指し示すものなので、AからBにどういうふうに展開してCで落としこむか、単純にこの流れの繰り返し。
おもしろいのが、Aメロで変化してゆくこと、いろいろな形にします。そのニュアンスがおもしろいなと思わせるためには、1番で徹底してこんな進行だよと、こんなメロディーだよというのが入っていないと。日本語をつけて歌詞も変えてしまうと違う歌みたいに歌ってしまうでしょう。
それは難しいので1番の歌詞で全部やる、そうすると初めて音楽的な動かし方がわかるのです。
日本人は大体言葉に引っ張られてしまう、言葉が悲しいなら悲しく歌ったり。ただ音楽的には同じメロディーであれば、そこは関係ないのです。でもお客さんもそこに反応してしまうから、プロであるほど言葉の方を大切にしてしまいます。
これも時代的にはアラン・ドロンの頃のような映画っぽいシーンだとは思う、厚さはなければいけないし、歌である以上、何に感動して何を出したいと思って歌ったのかというのが、出てなければ、ただつなぐだけの歌になってしまいます。
有名な曲だけど曲集にはなかなか入らない。
譜面の歌詞、あまりうまくついていないので、歌詞だけ見て、譜面は見ないで歌ってみた方がいいでしょう。
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「夜のメロディー」
9行目「La nuit je deviens fou」、これが構成できたらこの歌は簡単にできるくらい、これは課題。「夜の私のおろかさよ」、キーを下げて。感情が定まってないところに出そうとするからおかしい。単純に音を置いていった方がまだ伝わるでしょう。
芝居しているのと同じになってしまう、芝居してはだめ、芝居できるところというのは自分の体と心が一致して相手が引き込まれているときに、若干拡張したり落としたりはできるけど、キャッチしないままにそれを先にやってしまうと相手は入ってこれなくなってバリアになります。
ピーターも癖があるので、アダモはかすれてはいるけどきちんと音楽的に処理しているのでそれでやってもいいでしょう。
「真昼もあなたを」半分くらいは乗っている。マイクなしだと「た」「を」の処理がもう少し。少し流れています。「も」「を」。じっくりそれを投げ掛けた後に、「忘れはしないわ」。「を」で投げ切れていない、それを引きつけてから「忘れはしないわ」で落ちてきていない、別の線になっています。
音量、入り方、質感、全部入れていって、ただそれはどちらかと言うと演歌とか日本語をすごく大切にする人の聞き方、でもここでは他のもので勝負できないから。
「頃が」流れている。「真昼もあなたを忘れはしないわ 月沈む頃が一番つらいわ」二つ、本当なら一つで捉えたいところです。この4行に次の4行、最初の4行がもてば聞いてもらえるから、これを「夜の私のおろかさよ」にもっていかなければいけないわけだから、あまりきれいによい声で歌い過ぎてもよくない、
それをあまり入れたくないからフランス語の方がいいのだが、日本語の方がまだまとまりやすい、と言うかお客さんは歌詞で聞いてくれるからです。フランス語の方は難しい、ここだけでよくこんな歌い方している。
アダモは力があり、あんな声で声量もなさそうなのに、すごく力強い、日本人の好きな歌い手です。「雪は降る」で一世を風靡した人、アラン・ドロンと同じで、日本の人気の方がずっと上回ります。
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「ろくでなし」
崩れていくというよりはメンタルの問題でなかなか歌える人はいない、よほど修羅場をくぐった人とか実体験がそうかはわからないけど少なくとも歌い手としてはそれくらいのメンタリティをもっている人が歌ってきています。
完全に自分が主人公ですべて動かすくらいにならないと歌に負けてしまいます。1番もだけど2番、3番、もっと難しいです。
自分の方にすべて引き寄せて自分が動かせているのか、単に歌わされているのか、この歌の場合は自滅します。大体ワンコーラスでもたない、そういう難しさ。キャラが立っている人とか役者出身の人、一人芝居に慣れている人、お笑いの人とかは案外楽にできたりします。きれいな曲をうまく歌っているような人たちは、やりがたいかもしれない、でも歌の半分はそういうようなものです。
気持ちがよいだけのものを気持ちよく聞いて歌うのは基本。
だけど、いろいろなものがすごく入っています。しかも動かし方で変わります。
原語では、わかり難いかもしれないけど、日本語では、すごくわかりやすいです。
踏み込みがないと、声の太さがないと、粘りとか動きが出てこない、表向きテンポとともに進んでいくが、キャラ立ち、これで作品として言いたいことをきちんと伝えて終わらせるというのはなかなかできないです。
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「わかっているよ」
「Je le vois」の処理、日本語で意味がないからこそ、フランス語で、これが日本語に聞こえてしまったらまずいでしょう。わざわざ訳さないで音の感覚で、何かを音楽的に処理することによって何かしらイマジネーションをつけようということです。
その当時のよくある処理の仕方。それが音で喚起されるようなことをやらなければいけないので、日本語の方が難しいのは確か、サビのところも日本語の方が大きくなってしまいます。
日本語の場合「わかっているよ」のところで歌い切るというか歌を大きくしないと、しょぼしょぼ歌ってしまうと、こんな曲はもたないです。本来は静かに、処理したいです。
布施明さんがやるとどうしても見せ場をつくってしまうけれど。
比較的うまくいっているのは5行目、Aの繰り返しのところ。Cのサビのところは本当は強く意識しないといけないでしょう。
日本語ではなくてフランス語の場合も。そのための7、8行の伏線、それがもう7行目で膨らんでいるので、そういうところをきちんと押さえておいて、場合によってはそのメリハリに応じて8行目少し抑え気味にしておいて、そうするとその後すごく強く出さなくても9行目がすごく引き立ちます。
7、8、9行が同じ感覚で行ってしまうと当然この歌がダラダラします。日本語でも「君の心の」の「心の」とか「すべて」が広がって膨らんでしまっています。
「悲しいことがあった時は」もそうです。発音にはあまりこだわらずに見ているが、「わかっているよ」あたりからも、もう少し日本語の処理は、きちんとした方がシャンソンの場合はよいでしょう。
「君を誰より愛しているから」のあたりも流れに逃げてしまっている感じがします。発音はっきりし過ぎると今度はもうちょっと声とか共鳴とか流れをとるように言われてしまうから、程度問題ではありますが。
「何も言わずに去っておくれ 幸せだった頃のように」言葉のまとまりをどこにとるのか、メロディーとかフレーズのまとまりをどうするのか、日本語がぶつかってきてその上でどちらを選んだのかが見えてくると、よい悪いではなく好き嫌いではっきりするけど、まだそこまで行ってない感じがします。
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「ラ・メール」
「ラ・メール」が気持ちよくいけばいいので、他のは全部邪魔してしまうから、邪魔しないためにどう歌えばいいかというようなこと、簡単そうなんだけれど、小学生の教科書に出てきそうですが、実際歌うとなると多分一番難しい、コンサートとかでこういう曲は多分引き立たないから、聞いたことがないけど、一曲しか歌えないときにラ・メールを選ぶ人はいないとは思う、20曲のなかでとか、アルバムに入れるなら、なかなか、よい歌です。
そういう面では他の曲の方がもっていきやすいです。この当時の歌、これだけ短いものをちゃんと繰り返してきちんと歌って伝えられるというのは、リズムも音感も鋭いものがないと難しいのです。
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「ラ・メール」という言葉の問題。これが日本語の場合もフランス語の場合も引き立つかどうか。日本語の場合は「歩いて」「海の歌」「握って泣いたよ」の「よ」「去り行き」、語尾処理が、外国語の曲につけると、この頃の曲は終助詞を歌い切るのか、あるいはおくのかということで難しくなります。気持ちよく揺れるリズムと書いてあってもそこが乗り切れていない、重くなっています。語尾処理が流れに乗るというよりは流されています。キレがひじょうに悪いです。
ラ・メールも共通してキレをきちんと出していかなければなりません。これらの曲に限らないが、だらけてしまうと歌がバラバラになってしまいます。シンプルな歌なのに複雑になってしまうのです。
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「リリーマルレーン Lili Marleen」
日本語だと難しいのが、原語だとなんとなくリズムに乗ってしまうというのと、日本人が聞いたときに日本語がついてないとなかなか伝わり難い部分もある、歌詞では無理なので先に物語を言ってから歌うとか、1番か2番か日本語にするとかです。
全体のバランスのところで歌のある種の色気やニュアンスを置いていく、それはすごくよくなったと思うけど、その分浅くなり、歌だからステージ的には明るくなっていくのはいいけど、それを流れないで止めさせるということが、多分曲を選ぶのだと思います。
今のバランスで歌いやすい曲や歌い難い曲が出てくる、それは歌い手が変えればよいです。歌を変えてもいいしスタンスが変えれるなら変えてもよいです。それが喉の問題になってこなければよいのです。マレーネ・ディートリッヒもハスキーな声ですね。
一回全部、手本を追ってみて、同じキーでなくてもいいです。新井英一バージョンです。
「ガラス窓に灯がともり」体をつけて。音域広くないので大きく。4つに聞こえる1つに。そこに声とか体をつける。
「酒場の片隅」もっと肉声をつける。体は入っているけどきちんと回るように。鼻に回っている。
「陽気に歌っている」呼吸がない。
「酒場の片隅で陽気に歌っている」。
「夜がくる」ボリュームをつけて。もっと。
「今日も町に夜がくる」言えるところで。
「酒場の片隅」もっと太く。「酒場の」が6「片隅」が4くらいになっています。
「片隅」が6くらいはないと。今、表現よりは呼吸と体と息がくっつく。
形だと上半身が優先してしまうから、歌ってそうなってもいいのですが、この人もすごく強い人だから、下半身がきちんと通っています。そのきちんと通っているところを勉強することです。
「陽気に歌っている」、「に」「て」のフレーズのつくり方が足りません。
重心のとり方、呼吸のとり方、歌い方は、それでもっておいて、カラオケや簡単な曲や唱歌にはバランスいいし歌いやすいでしょう。
前に出るからいいやり方でもあるし、感情もでるけど、それは人ができる。
ちょっとうまいプロの人たちなら、さらに。
こういう個性的に自分の味を出していこうとすると、もっと安定度が必要です。少なくともこの人の場合、音が跳ねていません。歌はバランスがいいけど、逆に言うと、もう今の体でいいというのでは、全部同じになります。
加藤登紀子さんの歌い方では、全部語尾を抜く、パッと。
こういうのをまねると、聞いている人たちには物足りなくなってくる、
こういうのは若い人は聞かないと思う。人生の深淵を見るようでキツいから、向き合わなければいけなくなる、BGMになりません、昔はそうだった、芝居みたいなものです。
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「キサスキサスキサス」
「Quizás, quizás, quizás」
日本人の特徴的な、日本語の歌詞の特徴的なもので、すごく小さく歌ってからすごく大きく歌っています。すごく大きく歌うのが今の歌い手は全然できなくなっているし、こういう張り方はできなくなっているけど、そういうふうに魅せていきます。
それを本場の人たちは、ラフに、このくらいの感覚でこなします。
「Quizás, quizás, quizás」
サビのところ。かすれないところで、歌から離れてみます。
「Pensando, pensando」だけ。キーを下げていく。段々広がって危ないところになります。Pen、上の方で鳴っている分にはいいけど、どこか余計なところでやっていると力で押してしまいます。
下の方もひびきが入らなくなります。「ペンサンドー、マで。マンマンドー」それを大きくしていって、それを上のひびきで少し回して、そこで喉を締めない、ハスキーならいくらでも出せるけど、練習のなかではあまり出したくないのです。
濁り過ぎないように。ナーナーナー。ナンナーナー。マーメーモー。余計なのがついていて、喉の方がなっています。力でもっていかない。そのくらいのところ、それでもっと響かせてみてください。
メで潰している。裏声にいくところだけど裏声にはならないところで地声で回す。あとは息を回していけばいいです。思っているよりは後ろが開くような感じでしょう。
歌になると仕方がないところはあるけれど、発声のために歌を使っていることでは、できるだけ声が回るところ、100出してしまったら、あと、どうやってももっていけなくなるのだから7割くらいで歌わなければいけないのです。7割で歌うということは、まだ3割も5割も、2倍強くしても歌えるところで歌うことです。
そこの音域自体固定されて死んでしまいます。マとかナに変えるといいけれど、そうでないと引っ掛かっています。
頭から小さく歌うのではなくて、大きく歌えるけど小さく歌うところ、大きくできるところのひびきは失わないようにしていかないと、サビに入れなくなってしまいます。
「Tú siempre me respondes」強く歌って、sieから声がバラけてくる。線がほどけてきてしまってはだめ。大きくすればするほど、針金の線のように強く、大きくというよりは凝縮した線、密度の詰まっている線になります。何回か繰り返して大きくしてみる。ちょっと広がっています。
「Quizás」これは体があった上でつくる分にはいいけれど、そこで体がなくなったときに上でつくれなくなるから、そういうときには無理にでも、歌い手もよくやるけど、無理にでも入れるのです。何かしら入れる、キのところで入れてもサ、ス、のところでもよいです。それが一つのルールみたいなものです。本質的なルール。そこから外れたところで自由は利かなくなってしまいます。
それをもっと強く。もっと大きく。サが広がっている。キカクにして、その方が入っています。ニナヌ。メマム。もっと大きく。ギガグ。確認するならそのときの胸のところ、ギ、ギ、ギ、ここのひびきのところ。ガが広がっている。
一つにして。キーを上げて。ガがもうとれない。ガからグのあいだに雑音が入った。「ハイハイ」で。もっと強く。そうやってくることでひびきが戻ってきます。高いところは上が中心の感覚になるし、低いところは胸が中心、それ以外のところは必要ないわけではありません。
歌い手によっては使っている人もいるけど、リスクが大きくなります。マイクに入りにくくなったり、効率が悪くなるからコントロールしにくくなるのです。
声が出るようになってくれば収まるところに収まるという意味では法を超えずというか。自分の力で働く部分と、自然と働く部分と両方あって、意識とか向きは自分でコントロールしなければいけません。
本当に入っている人だったら、神様のようにしゃべっていたら歌になるのだろうけど、多くはそうではないのです。方向性とかイメージとしてはもっていないといけません。それ以上に無理して出した部分というのは必ず無理が出てしまう、1オクターブ以上のものを自然にやろうなんて、そう簡単にできることではないから半オクターブくらいでやってはいます。
「Quizás, quizás, quizás」完成度が問われて、一つの課題として挑戦していったらいいでしょう。それでやっていこうと、ゆっくりしっかり歌おうとすると、本当に20年かかる世界になってきます。ある程度は、勢いとか大きさとかメリハリで魅せていかないと、歌としてはもたなくなります。
大きくできるところで小さくコントロールする、それが大きくできないところの小ささでは何にもなっていない、それだったら大きく歌い、大小で魅せていく、サビのところは否応なしに強くなる、その強いところで、かすれたりうまく声が回らなくなってくると聞き苦しくなります。
サビ以外もたせるのはAのできたところを徹底して繰り返せばそれほど難しくない、BさえなんとかすればあとはAの繰り返しなだけでもつ曲です。編曲していけば難しくなるけど。
3行目まではよかったです。Quizás, quizás, quizás の収め方くらいからずれ始めて、以降は最初の3行のレベルで見えるところは全然ないです。いつも通りサビ、高いところのかすれ、その後Aに戻ったときに立ち直って戻れればよかったのですが、とても戻った感じになりません。いろいろ展開してそうなのですが何か詰まり気味。よかったところがなぜ繰り返せないのでしょうか。
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「ベサメ・ムーチョ」
日本人には難しい歌、日本人の殻を破って向こうの感覚の雰囲気、ダンスして、あたりまえにキスをするようなところまで浸り切ったら、ある程度こういうのが出せるのです。ステージも衣装を変えたり照明を変えたりしながらお客さんをその世界にもっていく、なかなか難しいけどお客さんだって現実を見たいわけではないので、映画と同じことです。
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「イパネマの娘」
比較的抑えて音色で聞かせるようなボサノヴァの曲という感覚のままいけば、Aはそれほど問題なかったです。Bの9、10行目「Ah~」もひじょうによい。ただ9、10行目に対して12、13行目があるのであって、これがあまり成り立っていません。9~11に対し落差をつけて12~13と落ちてくる、そのギャップ、転じるところがあまり見られない、あるいは12~13は、そこまでよりは何かしら溜めなければいけないのに、ボサノヴァとしてもそんなにサラッと行ってしまったらそこを聞かせるんだろうということになります。14からはもう少しリズム的なことが見えないと退屈、17になると息切れして最後までまとめ切れていない。そのまま18に入ってAに戻ったところはよかった、以降同じ。A’の承でちょっと落ちて、起承転結の承というのは難しい、そこで頑張ろうとしても起よりは抑えなければいけなかったりするし、それでも起に比べて承はいつも何か落ちる気がする、ただつなげばよいです。起と同じことをやるか若干欠けてもいいくらいなのですが、そこの緊張感なりつくり上げたものが。
問題はBのところ、ここも単純に、出した、落とした、そのくらいのことが見られればよいのですが、その転じ方があまり聞こえないので、この曲の一番の見所が。暗転、前に出たものとメリハリ、そこのニュアンスを音楽的にどうもっていくかです。
A’、英語の方がリズムは出ていた。B、「sadly」とか、語尾のところが緊張感を欠く、完成度が下がっています。最後、あまりフェイドアウトしていない、日本人が歌うと皆そうだけど、この回数あるから繰り返しているだけ、
その点、向こうの人たちは本当にうまくて、マイクなくてもこうやって終わっていって次で終わるんだなという感じでちゃんと終わったり、サービスでもう一回やってくれたとか、レスポンスがちゃんととれます。
日本人はただその回数繰り返しているだけに見えてしまう場合が多い、ひどいと途中で強くなったり一番最後で頑張っちゃったり、つながっていないのです。
ここを歌うなら40~48が一本の流れになっていなければいけないのに、8個とか16個で歌っています。なかなか大きくカパっと捉えられない。体がない、呼吸がない、ということとつながっていきます。
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「インシャラー」
勢いと切れがないと、こういう内容は難しいし音楽的にももっていけないから原語ではすごく難しいと思います。6行目よくない。
よかったのは11行目「Inch’Allah」の続く真ん中あたり、ここだけは日本語より原語の方がよかった。こういう歌であまり溜まったり引きずったりしたら、よくないのは、「この世を」の「を」、「歌声」の「声」、「悲しい」の「しい」、「鳩よ」、「嵐を」、
この後一番肝心な「清らか」とか「戦い」、「水を汲みに行くのも」、
「命がけのこと」特にここは一番決めなければいけない、そうでないと「インシャラー」に入れない、そのへんの迫ってくる描写がまだまだ足らない。メロディーとリズムがとりやすい原語があって、歌詞で表現する日本語があるのです。
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「アドロ」
原曲の方がスムーズに歌いやすい曲。歌詞がわからなくたってこの曲が成り立つかどうか。それと「アドロ」のところからもう日本人と感覚が違うので、向こうの人たちの感覚に入るためのいい教材。だから日本語からやるのは難しくて原語で練習しておいた後に、最後に日本語にしてどこまで日本語に近づけるか。フレージングの練習にはひじょうによいでしょう。
最初のAはいいけど次のAから乱れる、「優しい言葉」の「言葉」一つでも、「突然私に」が難しくてここで大体、失敗する、「死んでもいいわ」からは誰でも成り立たない、何かしらやり方を考えていくしかない。大抵はボリューム落として違う形でまとめるように日本人はすると思う、
欧陽菲菲みたいな人でないと難しい。日本人の感覚とは違ってくる部分があるのです。大きな展開になっているので、歌を大きくできるのであればしてください。
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「ジェルソミーナ」
音楽的で情感もあるが、ただ日本語をつけると大曲になりがちです。布施明的にドラマチックなやり方もある、カルメン・マキは、あれだけの声がありながら抑え切ったところで処理しています。抑えている面ではいいが、フランス語の方が構成があまり聞こえなかった、日本語は構成が出てしまうとむしろ難しくなるところまで抑えられていました。
「遠い日の」から成り立っていて「あの道をこの道を」もよい、「愛の幸せに」そのままつながっています。「果てしなく」は落ち着かなかった、
「遠い日の」のペースでそのまま終わるなら一つの方法だった、
それが入ってから同じ「愛の幸せに」もドタバタしてしまう、
最後の「果てしなく」は元に戻ったが、「果てしなく」「続く道」「彷徨う旅路」三つそれぞれ違うように聞こえる、もう少しやり方があるのではないでしょうか。