裏・一流になるための真のヴォイストレーニング

会報の未掲載記事や他の雑誌などの掲載記事の記録

トレーニング日誌D 29834字

 本当ならトレーニングなどしないでいられるなら、その方がよい。歌に限らず、自分が好きなもの、自分がよいと思うものばかりが世の中で成功したり認められているわけではないはずで、“なんじゃこれは”と思うものが流行ったりもする。であるなら取り合えず人前に出てみるべきだ。

 

 歌とか声とか、何もしないでいきなり人からアドバイスを受ける類のものだと納得できるのだろうか?自分はとんでもないと思っていた。いろいろ売っている教則本のことを、読んでたまるがと思っていたほどだった。高い声だって叫びまくっていたら、人間の適応能力で何とかなると考えたこともあった。それで何回か実際に知らない人達の前で歌ってみて、少しずつ自分に対してもの足りなさを感じるように成り、しまいには“こんなことでよく人前に出られたな”と思うようになった。

 

 だから、トレーニング中に痛いところを指摘されて、“そんな細かいことを気にしていたら個性がなくなってしまう”だとか、振り出しに戻るような反発をしてしまうくらいなら、いろいろなところ、たとえばライブハウス(ライブハウスにはオーディションがあるにはあるし、ゴチャゴチャと演奏に対していうけれども、結局ノルマ分の金さえ払えば出してもらえる。特に昼の部はそれ自体がオーディション気味で、曲の途中で止まってしまうような人もいっぱい出てくるので、出る気さえあればほとんどの人が出られる。)や、レコード会社が行う面談形式の新人発掘企画などにどんどん出向いていって、今のままか、それにちょっとした何かをプラスするぐらいで認めてもらえないかどうかを確かめてみた方がよい。

 

 そういうふうに自分で動いてみて、その結果、どうも人が振り向いてくれない、何がいけないのだろうと思い出して、どうも原因は自分にあるらしい。そして自分の中のルックスなどでなく声そのものが大きな欠点だと思ったら、声関係のトレーニングをしたり、ときには人のアドバイスを受けたらよい。

 本当に今のままの声じゃ自分自身嫌だと思うまで、気の済むまで人前に出てみるのが先決だ。

本気で心の底から悪いと思ってもいないのに、地味なトレーニングが毎日続くわけもないし、人のアドバイスを素直に聞けるわけもない。乾いているスポンジほどに水をよく吸い込むのだ。

 

 

 

 エンゲルベルト・フンパーディンクの“ロミオとジュリエット”という曲の最初の出だしの“A”という単語、この一言だけでも一度同じように歌えるかやってみるとその難しさを痛感する。片仮名にすると、“エ~”だが“ア~”だか判断できない発音をしているけれども、口やそれに近い箇所では“エ~”といっていながら、喉から体の奥での形は“ア~”といっている感じに聞こえてしまう。

 

 これをG.馬場のもの真似のように口の中で音をこもらせてやってしまっては何にもならないけれども、できるだけフンパーディンクみたいにしようとすると、かなり体の下の方まで深く動かせないと無理だとわかる。本人達は普通に“A”といっているだけで、この深さが頭に軽く出てきてしまっている所が何ともすごいし、ここもいえないのにサビの部分なんてお話にもならないと気づけたならば、かなり価値がある。地味な作業の繰り返しがもし間違いではなかったならば、これが難しいというのはきっと理解できる。

 

 

 ボブ・ディランという人の曲は、歌詞が詰め込まれているものが多いので、口先だけで外面的に真似るだけなら器用な人には易しいかもしれない。しかしよく聞いていくと、あの早口の中にもちゃんと体が動いていてメロディーが単調な曲でも関係なくなってしまっていてあきさせないのがわかる。でないとデビュー何十年とかいう記念コンサートにわざわざあれほどのアーティスト達が集まるわけがないからあたりまえだ。

 

 “時代は変る”という曲の5コーラス目に“curse  it is cast”と歌っている箇所が出てくる。この“curse”と“cast”という2つの言葉を、正式な発音はどうなのか知らないけれどもディランは両方“ケース”とか“キャ~ズ”という感じで同じような音で歌っている。しかし口の音の形はほとんど同じでも、片方は深く体を使っていて、もう片方は少し違う使い方をしてはっきりと違う単語だと感じることができる。これを喉に力を入れて変化させていてはきっと何にも伝わらないのだろう。外国人のヴォーカリストはほとんどみんな同じようにできるのだと思うし、この原曲は3拍子で割と早いスピードの中でちゃんとそういう体の入れ方による歌い分けをやってしまっている。同じに歌えるかどうかやってみると本当に勉強になる。

 

 

 ピーター・ポール・アンド・マリーが歌った“500マイルも離れて”という曲は、1コーラスの中で言葉を4回ずつ繰り返す。たとえば1番だと“A hundred miles”を4回も続けていって目立った起伏のないメロディーのクライマックスになっている感じがする。これも体を使っていない歌い方で口先でやるなら簡単かもしれないけれども、ちゃんと1回目から体を使った上での弱目の言い方にして、段々強く大きくしていって4回目で一番深くいってヴォリューム感を出そうとすると大変なのがわかる。この曲は優しくてよいメロディーで覚えやすいと思うし、ゆっくり歌ってもおかしくないので一言ずつ息継ぎしながらでもできるのでよいトレーニングになると思っている。

 

“悲惨な戦争”という曲の中にも口先だけではできない箇所があって、4コーラス目の“I fear you are unkind”という部分の“are unkind”の結合している所が特にそうだ。これをCDでよく聞くと“ア~アンカインド”ではなく“ア~ウンカインド”と、あくまでも大ざっぱに書くと“ア~”からそのまま伸ばして“ウン”へ移っているのがわかる。これも“ウン”というのに口を閉じてしまえばすぐにできるのだろうけれどどうも違うらしい。“ア~”で体をあたりまえに使っていて、“ウン”の所で更に強く体を使って口を開けたままで“ウ”と“ア”の中間くらいの発音をしているのではないか。こういうゆったり流れるような曲の感じを切ってしまわないためにも、水鳥がスイスイ水面を進む下で足をがんばって動かしているような作用が必要なのだというのがよくわかる。

 

 

 カーペンターズの“青春の輝き”という曲の中で、2コーラス目のサビに入る少し手前で~Without a friend in sight Hanging on~”という流れの中の“Hanging”も、喉ではなく体で強くいっているのがわかりやすい。サビはエフェクトがかかっていてちょっと変になっている分、そこに入る直前のこの言葉がよく目立っているのかもしれないが、“sight”を伸ばし気味にしても充分体を整えてから思いっ切り溜めていう部分だけに、本当に深く強くいえるか試しやすい。発音自体も“ヘ”だが“ハ”だか判からないもので口先だけでは作れないと思うし、メロディーの盛り上がりを利用してそれを壊さないように歌えるかやってみれば、自分の表現力の足りなさが身にしみてくる。

 

 

 ブルース・スプリングスティーンは、普段ガラガラ声で歌ったり叫んだりしているようなので声のトレーニングには応用できないのだろうけれど、“ネブラスカ”や“ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード”というアルバムではものすごく静かに小さめの声で語るように歌っている。こういうのを聞けば、唯単に大声でゴマ化しているだけではないというのが改めてわかる。キーもそんなに高くなくて、本当に物語を聞かせているみたいで、それでいて言葉が一つ一つ厚みを持っていて、全部深く強く体から出てきている。

 

タイトル曲の“ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード”という曲はその中ではメロディーが取りやすくドラマチックなので同じようにできるかやってみるとよい。小さく歌っても単語にはそれぞれアクセントになる部分があるし、そこで必ず深く体を使っていかないと伝わるものは何もかも吹っ飛んでしまうのだ。でっかい声をどこかにぶっつけていればよいわけでは全くないので、かえって大変なのではないかと思えるくらいだ。こういうのを苦もなくできる体があたりまえにあって初めてシャウトとか高音があるのが理解しやすい。

 

 

 カルチャー・クラブで一番有名な曲の“カーマは気まぐれ”の中で、サビに入ってすぐに“Karma Karma Karma Karma~”という部分が出てくるけれども、こういうのをちゃんと声を張って一曲の中の中心として歌おうとしてみるのも自分のでき具合を知るのによい。特にどの部分でどう体を使ってなどという考えからではなくて、逆にどれだけそんなことを考えずに気楽に歌えるかという、もしかしたら最上級の難しさかもしれない。

 ひとつの“Karma”の中の同じ部分に全部アクセントを入れようと力を込めてやると、いつの間にか“カ~マカマカマ~”が途中で“~マカマカ~”に変わってしまったりしてめちゃくちゃにたどたどしいことになってしまう。そこで曲の終わり近くでサビを繰り返す中に1回だけ、バックの演奏がリズム隊だけになる所があるのでそこでのアクセントの入れ方を参考にすると割とわかりやすい。

 

 いろいろアップチンポでどんどん調子よく進んでいく中に言葉を入れているのが気持ちよい曲の中で、体の入れ方をいちいち考えていておもしろくできるとは思えないし、かといって誰でも出せる薄っぺらな声だとただの歌謡曲になってしまう。だからこういう曲を歌って痛感するのが、いかに深い声があたりまえに身についていて、自在にリズムに合わせて使いこなせるかどうかということだ。こういうことに気がついた上でならこの曲も少しやろうとしてみると勉強になると思うし、歌唱力を売りにしていないロック歌手の自然とやってしまっている凄さを知ることになるとも思う。

 

 

 いろいろな歌手を聞いて参考にする中で、トム・ウェイツは段々と歌い方が変わってきたのがはっきりしていておもしろい。現時点や最近の作品だけを聞いてしまうと、もう何でもよいのかと思ってしまって危険かもしれない。実際は何でもよいというのが正解だけれども、大切なのはそのメチャクチャにたどりついたのだろうということであって、ただの思いつきでやっているのではないというのに気づくことだ。トム・ウェイツはデビュー前の録音も発売されていて、その頃の声や歌い方を聞いてわかるように、ごく普通に歌っても嘘っぽくならない体をあたりまえに持っているのだ。

 

 引き合いに出してどうかとは思うけれど、画家のピカソにしても、キュビズムとか何とかいうずっと以前の少年の頃に描いた作品のデッサンを観てからでないと、あの後期の作品のことはわからない。そうしてもわからないとは思うけれど...。絵画の世界では“セルフ・トート”とか“フォーク・アート”といって、独学の画家達を一つのジャンルとして囲っているけれど、そういうふうに名前がつけられたらそこに乗っかってしまおうとする人が出てくるから恐い。

 

 “独学”というのは学校に通ったり師匠についたりしなかっただけで、文字通り“独りで学ん”だのだから、あるアーティストがその生涯の後の方にたどりついた所だけを都合よく取り入れて勝手に暴れまわっても何にもならない。

 それよりも、声を使って表現しようとするならば、自分は何にも考えず普通にしゃべっているだけでも自然に何かを放出しているくらいに、体の基本をもう一度考え直した方がよい。

 そういうふうに考えてから、トム・ウェイツを聞き、そうしてそれまでと同じ種類のトレーニングをやってみると、少しずつ何かが変わっていく。

 

 短い言葉の繰り返しの毎日で一曲歌う場が与えられたとき、歌を歌いこなすための練習は必要ない。これも初めの内は“歌ってみる”という感覚で取り組み始めるべきで、人前で恥かしい思いをしたくないからといって、体裁を整えにかかったのではどうしようもない。

 歌詞をしっかりと構えることをしていれば、そうしてメロディーも変な外れ方をしないようにしていれば、後は今まで単調なトレーニングで変わってきているはずの体を使って今歌ったならば、どう違うようになっているのかを自分でも楽しみにするくらいにやればよい。

 

 そうしてワンフレーズでも手応えがあったならば、今までのことは間違いではなかったわけだから、我慢して続ければよいということになる。トレーニングでたくさん我慢していればしているほどに、曲を歌うときには何にも考えずに叫んでも自然に聞くに耐え得る部分が増えていくのだと思って、そうして最終的にはそのレベルで全部歌い切れるようにがんばればよい。

 

それこそ一瞬前とか、当日にどっかで下手に予行演習なんかやるより、ほとんどぶっつけ本番みたいに「いっちょう歌ってみるか」ぐらいのリラックス感と緊張感を合わせ持って、歌うことに対する飢餓感をその一曲で晴らしてみるとよい。そうして後々それを冷静に判断する機会を設けて、それをその日家に帰ってから以降の課題とするべきだ。

 

 

 リハーサルも含めて、練習と人前でやる本番とは絶対に同じではない。もし同じにしようとするならその唯一つの方法は本番で手を抜くことしかないとさえ思う。練習よりも本番の方がよい意味でも悪い意味でも力が入るのがあたりまえで、人前でやるために歌うトレーニングをしているならば、その人前でやった結果をしっかりと受け止めるべきだ。

 

 緊張してしまっていつものようにできなかったならば、それこそがそのときでの実力で、練習ではできるということは、潜在能力なのだと考えて、実力の底上げをはかってたとえ緊張していても力が出てしまっているくらいにならないといけない。緊張しない訓練をするのもよいと思うけれど、応用の効くものでないと、シチュエーションが変わる度に新しく緊張し直さなければならないと思うからである。

 

 実力の底上げ50とは少々のことでは声のポジションが上に上がってしまわない、あたりまえに体についた声を得ることだ。だから本番で上乗せされる力の入り具合が、声には余計と思える方に働いてしまってうまくいかなかったならば、そんなときでも関係なく声が出てしまうくらいに、歌以前のトレーニングを繰り返すべきだ。トレーニングで120できるようにしておけば、本番での緊張が悪影響するタイプの人でも、それを差し引いて人前で100になるという考え方をした方がよい。

 

 

 リハーサルや練習より人前で歌うときの方が、より力が入ることでプラスの作用になる場合ももちろんある。トレーニングをする場所の音響はドライである場合が多いし、どうしても自分の最高のものを今この瞬間に出さなければいけないという義務感も薄れているから、そんな中で一曲の音域を歌い込んでも喉の開きも悪い。そこで自分が歌で使えると思っている音より低いキーだけで練習しておいて、できるだけ高い方の音へ上がっても体からの声の線を切らないイメージをとらえておいて、人前でやるときにいきなり半音上げて歌ってみるのもひとつの方法だ。

 

 前の漫才ブームのときに紳助・竜助が、ロケットが空中へ飛び上がる理由はあれだけ多勢の人に見られていて、その上カウントダウンがゼロになってしまったら飛ばなしゃあないから飛ぶんやというネタをやっていたけれど、歌のときにもトレーニングでの吹っ切れない感覚があてにならずに、人に見られているとよい感じに体が充血してポンと声が抜けることがある。

 

 それで大切なのは、その出てしまった声の瞬間的な体の中の感覚をしっかりと認識して、下半身に近い方との分離の度合を知らなければいけない。こういう音はトレーニングでは横着して出せないのだから使えないのはあたりまえだが、人前でやるときのみたまにやってみて、どれだけ以前と体のつき具合が変わっているかをよくチェックすれば、後々高い音を練習するときがあるなら少し後々立つのではないか。それにぶっつけ本番的な緊張感で、その場をなめてかかることを防ぐことにもなって、最後まで張りつめて歌えるならそういうこともたまにやってもよい。

 

 

 何年か我慢して地味なトレーニングを続けていると、ちっとも意識して力も入れたりしていないのに、ものすごく楽にしゃべることのできる状態が出てくる。どうもうまく表現できないけれども、何か喉とか口とかそのあたりから声と共に空気のベールみたいなものが泉のごとくあふれてきているようで、体の表面まで何かいう度に少し響いているかのような感覚のときに気づく。それは息が漏れているのとは明らかに違うことで、取り敢えずはその感を持てているときが、歌ったり少し高目の音を使ったトレーニングをするタイミングではないか。

 

 こういう状態のときは、普通の話し声の高さはもとより、歌の出だしの低い音の部分は楽にヴォリュームの多目な声を出せると思うので、そのままサビへ持っていってみて、低い所のリラックス感を保ったまま少し高目の声を出せるかどうかをやってみるとよい。ただし下手をすると1回で喉にくる場合もあるし、歌っているときは自覚していなくても、後で必ずダメージが残るはずだから、いずれにしてもやり過ぎない方がよい。

 

これもどれだけが適量かは自分で見つけていくしかないけれども。そうしてこの1回にそれほど長くはできないトレーニングを毎日できるようになりたければ、話し声が楽に出せている感覚をあたりまえのものにしていかなければならないし、そのためにはそれまで続けていた地味なやり方を、もっと深く追求しながら更にやり続けておくことが大切だ。

 

 

 

 特に高音の方を少しずつやっていこうとする場合に、具体的に歌一曲を通して使うのがよい。物事の必然性というか、一般的によい曲といわれるものには、人間が本能的に気持ちよいと感じる音の流れがあり、その部分々々それぞれが、そこをそう歌わないと解決しないし盛り上がらないようにできている。だから最初からちゃんと歌っていって、サビの前のさあこれから思いっ切り解放するぞという所へ段々と持っていって次の箇所を歌わないと気持ちが悪くなる、途中でやめたくない状態で一気にその歌の中の一番高い音も歌い切ってしまうようにすると、体も目覚めやすい。

 

 歌詞については言いにくい言葉もあって、そのとき々そこだけ替えてやるのもよいと思うけれど、本当なら自分が違和感を感じない曲をいろいろと歌ってみて発見していく方がよい。メロディーと言葉が本当にうまく寄りそっているような名曲はたくさんあると思うし、その意味でも課題として与えられた曲を、自分の即興的対応力を試してみるときは別として、ある程度声が安定してきて歌としてのトレーニングができるようになっているのに適当に一夜漬けで覚えてきて歌うだけという態度は好ましくない。

 

課題曲をできるだけじっくりやってみれば、歌いやすい曲がいっぱいあるのに気づく。そうしてその中に当然、出てくる次のステップというかもう一度深くやり直さなければならない箇所に気づくかどうかは自分だけの責任だ。

 

 

 “翼を下さい”という曲は高い声の部分も割と出しやすい。曲全体で、そんなに音域が広いということもないので、出だしから自分が自然に話すように出せる音で初めてみて、サビに移ってもそのときの体の使い方が変わらないかチェックもしやすい。Aメロの中の“かなうならば~”の“う”の所は、ただ大声を出せばよいというのと全く逆なので一番難しいかもしれないが、ここではサビへの導入部の中の一部ということで深く考えないで、“このおおぞらに~“のときに、中間の高さの声を出しているときと同じに腰や背中、それに腹の内側にちゃんとつながっていて、その感覚を辺としてそこから声が角のように伸びている感じがあるかどうかを確認することが大事だ。

 

 この曲の場合だと、高い音の所で言いっ放しではなくて、そのまま続けて言葉をいわなければいけないので、上に抜いてしまうのはやめておいて、高音部という中でもまだ中音部からほんの少し芽が出たくらいで、そこをいかに意志を持った力強い言葉としての音という範囲内で育てていけるかに重点を置くべきだ。それでそれができていると思えるキーを中心に半音下げたり上げたりして、曲の盛り上がりを活用して歌ってみるとよい。そうした後に爽快感だけで片づけてしまわないで、それ以前のトレーニングの大切さをより理解して、そっちはそっちでまだまだ続けていかなければならないことに気づけるかが一番大事だ。

 

 ジョン・デンバーリンダ・ロンシュタットの歌った“故郷に帰りたい”という曲も、気持ちよく高目の音を出しやすい。サビの“I belong”と叫ぶ所はそこの一番だけがちょっと高くて、取り敢えずその一声叫んだら少しずつ下がっていってくれるので割と何も考えずにできる。曲自体のんびりとした明るさで、よく聞くと少しもの悲し気な感じも入っていて、叫ぶところでちゃんと感情移入しやすい。

 

 ここでは自分の出せる高さの範囲の少し手前まで使ってみて、たとえば声がオモチを手で握ったときに指の間からニュッとはみ出るような感覚で思い切って出せるかどうかやってみるとよい。やってみるだけで、後々高音へ抜けていくというのはこんな感じなのかなと想像するくらいにしておいて、その少し下の腰のあたりからたとえ細長くても二等辺三角形の感覚を保ったまま出せる声で練習しておくべきだ。でもこういうことも本当に正しい方向性かどうかも本当にはわからないので、トレーニング終了後の体の疲れどころがどこなのかをこれ以上ないというくらいの冷静さで感じ取っていくことがより大切だ。

 

 

 “翼を下さい”や“故郷に帰りたい”を、その曲に出てくる一番低い音と自分の声で出せる最低音を含めたキーで歌ってみて、この場合曲本来のイメージは深く考えずにもう一度しっかりと体にピッタリとはまった声でしっかりと歌い切れるかやってみるとよい。そうしてちゃんと体が温まっていて、喉の周辺に響いているのを厚みのある声と間違っていないことが確認できたら半音上のキーで、ワンコーラスだけ歌ってみる。

 こうして少しずつキーを上げていくと、サビの盛り上がりの高い音の所で体の力で引っ張ったままでもいけるといえばいけるけれども、放してしまった方が楽だともいえる高さが出てくる。そこでそのときその両方の歌い方をやってみて、開放した歌い方をしたときに、砂時計みたいな音の流れになってしまっていないかを感じてみるのが重要だ。

 

喉がちょうど砂時計のまんなかの細い箇所のような感じで、そこから上が急に拡がってしまっているような極端な声の飛び出方をしているのは、まだその音はトレーニングには使えない音だといえる。逆にこのときお腹の底に上向きにサーチライトが入っていて、それが体を通って空を光が走っているように声を出せていたら、割とよいのではないか。

 

 

 低い音にしても高い音にしても、その自分の端の方の出るか出ないかの所を行ったりきたりのトレーニングをしたからといって、いずれ出るようになるとは思いにくい。現時点での自分の限界みたいなものがわかったら、もう一度これまでに続けてきたことのチェックを今までより深くやり直すことが大事だ。自分が一番出しやすいと感じる音一つ取ってみても、たとえばこの音なら30分叫び続けられるというのを今度は1時間でも大丈夫なようにしてみるとか。そういう入念な再チェックを気を長く持って続けた後に、それがしっかり行えていたのなら一番端の方の音にも何らかの好変化が感じられるはずだ。

 

 

 特に高い声の方は、もっともっと豊かに出せるように成りたいと正直いって思うはずで、声に関するトレーニングを始める中で、本当は音域よりも一つの音の中身が大切だということを段々わかってはいっても、最後にはそうしていく結果としてもっと高い声も出ていれば素晴らしいと考える。しかし実際には、そういう方向に向いていたとしても本当に使える声を一からやり直していくと、それまで別の方法で出せていた声もぴったりと出なくなってしまったりして、調子が悪いときなどはふてくされて投げ出したくなったり、トレーニングに気持ちがまたしても入らなかったりする。

 

 こういうときは自分以外の人の少しの成長がとてつもなく巨大に感じられて、途方もなく遠くに引き離されたようにも思ってしまう。こんな状態のとき、それでもその日も何かトレーニングをやろうと決めたら、川原の石コロと競争する積もりで取り組んでみたら妙に落ち着く。

 

小学校の理科の時間に、川の上流の方のゴツゴツとして大きな石が、気の遠くなるような長い時間をかけて、水に押し流されたりしている間に、けずられてきて下流のあの丸味のある小さな石コロに変わっていくというのを習ったけれど、それくらい気長に取り組んでいれば1ヵ月やそこらで違いはわからなくとも、もっと長いスパンで見ていけば、コツコツと地味な作業を続けている限りは、少しずつ変わっていっているのだと思えてくる。そんなふうにでも思って、気持ちが下っ腹に戻ってきてから、一から考え直して行くとよい。

 

 

 ものを拾うような動作をしながら声を出すことは、低い音を安定させるきっかけになると同ときに結局はそれは高い方へ移っていったときに体の底からの息の流れみたいなものを切ってしまわないことにも繋がっていくんではないかとも思う。

 何も本当にものを拾うほどに腰を落とさなくても、膝を柔らかくして足の方にも空気が巡っていっているみたいに感じるようになればよいのだろうけど、高い声のときは上に力が片寄り過ぎるのが一番いけないというから、逆に足の裏から息が、それこそ鉄腕アトムの足から火が出ているみたいに出ていっているようなイメージで、そのエネルギーが自然に声を発生させているくらいに上の体や首、肩、喉が無意識になっていればよいのかもしれない。

 しかし、こんなことは、試行錯誤をしている中での勝手な想像に過ぎず、あくまでそういうイメージで声を出してみるというだけで、本当は今自分の体で起こっていることをうまく書き表すのは無理だ。

 

 

 もう一度新たな気持ちで自分の声域のまんなかや少し低目の音をチェックして、そこをもっとヴォリュームアップして出せるようにしようとするとき、あまりにも力で体を押し下げようとすると、体の動きと声がズレていってしまうので危ない。器を捧げようとして、初めの内は意識して下腹の方に向かって思いっ切り息を溜め込んでから声を出してしまって、確かにかなり低い方に下がっていくとそうでもしないと声にならないかもしれないけれども、少しでも同ときに無駄な力が入ってしまうと思うのでやめた方がよい。

 

そのように文で伸ばしていくというか、無理矢理押し下げて声を出すというよりも、本当は声を出した反動で同ときに体が逆方向に押されているという感覚を拡げていくのが正しいのではないか。本当に初めの内は力で体を押し下げでもしないと何も変わっていかないとも思えるのでそうやっても仕方がないと思うけれど、今度はいかに力まないでスムーズに高い声の方へも移って行けるかという問題も出てきたのだから、どれだけ普通に声を出せるかをもう一度やってみるべきだ。そうしてそれまでのトレーニングが身についているならば、何も意識しないで出した声は前みたいに薄っぺらくはないはずだ。

 

 

 決して先に力で体を押し下げて準備しなくても自然と歌い出し始められる範囲内での一番低いキーで、改めて曲を歌ってみて、それでその曲の部分々々の強く歌いたい所でどれだけ自然に通過できるかやってみるとよい。あくまでも好きなように歌うのであって、そうしている中で強調して歌っている部分で先々体が意識して動いてしまっているのではなくて、声を出すことによって勝手に体も動いているかを確認すればよい。

 

 

 歌うキーを再び半音ずつ上げていったときに、わずかずつ体の使える範囲が縦長の形になっていくけれども、ひとつ前のキーで歌ったときといかに背のないなめらかな線で繋がっているかに注意を払って進めるべきだ。半音前とあまりにも段差のある体の負担の感じ方にならないように、油が水の底から水中を浮上していくさまざまなめらかな体に掛かる負担範囲の移り変わりを保てるかどうかよく感じてみて、それができていると思える内側のみでトレーニングを繰り返せばよい。

 

 

 

 好きな曲をそのまま活用して、気持ちの盛り上がりも利用してその勢いでしっかりと声を出すきっかけにしていても、同ときに細かな部分でのより難しい点に気づいていくと思う。言葉の言いやすさだけを考えて曲は作られているわけではないから当然ともいえる。そして更に厳密さを増して考えれば、より基本に立ち戻ってトレーニングをしようとする場合に曲一曲全体というのは音域が広いと思える。

 

 そのように思ったとしたなら、言葉そのものに大きな意味はなくともトレーニングに使いやすい短いフレーズや言葉、音の並びの重要度が以前にも増して理解できるのではないか。短い言葉やフレーズでの音の上げ下げを伴ったトレーニングの合理性とか、その中で気づかなければならないことの再発見とか、いろいろと思い当たってやっともう一度、本当のトレーニングに近づいていけるのではないか。

 そしてこういうふうにあらゆる段階を踏んでいくことしか、教材としての本の活用は難しいと思うし、その教材を前のページからやっていっても最後のページから使っていっても、何往復できるかが最大のポイント。

 

 

 音階を上下行しそのとき点での自分の声の幅の限界を認識して、それでもう一度まんなかあたりの音をチェックし直すと簡単にいっても、声を出した反動でお腹がグッと拡がるような感覚にも限界を感じてしまうときがある。何か自分の生まれ持った体のサイズというか、胴まわりや腰骨周辺の広さを手に取るようだ。感じてしまって、これ以上器を捧げるのは物理的に無理だと感じてしまっても不思議はない。 しかしこういう思いも再びというか三度というか、基本の基本に戻ってみるきっかけになる。前回にそういう積もりでチェックしたときにも、今になってもう一歩厳密に考えてみると甘かった点というか、気長に待ちながら少しずつ進めていこうとしたポイントが、ちゃんと当時の計画通りに好変してくれているかどうかを見直すときなのだ。

 

 特に首の姿勢を冷静に考えてみると、前よりはよくなってはいるかもしれないが、もっと効率よく声を出そうとするならば、まだまだ生活態度の癖が勝ってしまっていて、本当に力の抜けた自然な形には至っていないことがわかるし、普段のしゃべり方からしても、今の自分では具体的に気づくことのできない数々の要素が、以前より強く出てくる呼気の流れをどこかで少しずつ邪魔をしていたりするのだ。もし本当にそういう考えにたどりついたのなら、絶対に自分に正直になって、歌を歌う時間を減らしてでも姿勢やリラックス、もっと効率のよい呼吸をじっくりやり直すなどをやっていった方がよい。上から見ると同じ所をグルグルまわっているようでも、横から見ると螺旋階段を昇るように少しずつ進歩している。

 

 

 何年も続けてトレーニングして、自分にとっての一日の適量をつかんだと思っても、それでも未熟さに少々目をつむってでも続けていることの蓄積がある日突然に顔を出すことがある。それも更に自分にとって本当にふさわしい方法に向かって進化していけるきっかけであるし、そういうことはある意味起こるべくして起こっているとも思える。

 それはこれまでに書いたような要因以外のこと、しゃべったからどうで、トレーニングのやり方がどうでということ以外の自分の置かれている状況を全て考え出さなければならなくなる場合でもある。

 

 理由はそれこそ無数にあるのだろうけれど、本当に息読みすらできないくらいにどこかの調子が悪くなることもあって、その最悪の状況からは何とか脱したとしても、それ以後のトレーニングはたとえ一時的にしても保守的に成らざるを得ない。

 でもそれはあたりまえだけれども歌いたいという気持ちがなくなるわけでは決してないから、何とかしなければならなくなってくる。当然どんな場であるにしても機会があれば歌いたいと思う響であるから、練習はしなければならない。そこでまたしても実際に声を出してトレーニングしている以外の時間の使い方が大事になってくる。

 

 馬鹿らしいと思われるかもしれないが、実際に声を出しているイメージで、ご飯のときと完全に寝ているとき以外は心の中で歌って体の中をリアルに動かすことがよい。薄く口を開けて、それより内側はちゃんと息を流して体をちゃんと動かして、息継ぎもちゃんとやる。これは喉に負担がこないけれども、真剣にやればどんなふうに歌うか少しずつイメージがふくらんでいって、そしてあまり長くできない実声を使った練習のときにその通りに声を出してみると、何もしないよりもかなりうまくいく。

 電車の中でもできるので、あまり無意識にやっていると口が大きく動き過ぎて他の人から変な目で見られるので気をつけた方がよいけれど、それくらい夢中になっていれば効果も上がる。

 しかしこんなことは声や喉に異状がなくとも、トレーニング以外の時間、特に新しく歌を覚えようとしているときなどは誰でも勝手にやってしまっていることだ。

 

 

 他の人からみたら何ということはないかもしれないが、何ヶ月の間もしっかりと声が出せないと、もうこれからずっとこんなふうだったらどうしようと思ってしまう。いろいろと考えてしまって本当に心配になってくるけれども、それをよい機会として普通にしゃべったり歌ったり、それを思ったときにやれるのがどれだけ幸せなことかというのを強く感じることもできる。

 

 世の中には生まれつき満足に話すこともままならない人だってたくさんいる。それを思ったら以前よりもっと声を大事にすることに気を配って当然だと思えるようになった。歌えるだけで幸せなのだからうまく成ろうなんて欲張り過ぎだという考えではなく、トレーニングできる限りは自分が興味を持った以上は続けていくことが大切だ。

 

 普通に声が出せるように戻って最初に歌ったときは本当に一曲歌い終わっただけでものすごくほっとしたし、何か新鮮な気持ちにもなったけれども、こういうのを時間と共に忘れていってしまわないで、ちゃんと自分の財産にしていかなければならない。

 痛みの種のようなものはずっと残っていて、疲れているのに意地になって続けたりすると少し顔を出しそうになるけれども、それは少し方向がズレそうなときの信号であると認識してしまえば、これほど便利なものもないと思うし、見せかけのためではなくいろいろな機会を逃さないために声のことにはずっとこだわるべきだ。

 

 

 老年に至って声が衰えるのではなく、30才代に入ったとたんに急に声が出なくなってしまう人もたくさんいると聞く。それはそれまでに一流と世間から認められていたような人でも例外ではないらしく、本人にしてみれば完璧に喉周辺の力なんか抜いて息の流れだけで高音も出しまくっていた積もりでも、それは若さに任せてどこか力で支えていたのだというのが、出せなくなって初めてわかったりするのだそうだが、そう考えると本当に声の出し方は自分の責任だと改めて思えてくる。

 

 どんなに素晴らしい声に聞こえて勢いのある人でも、極端にいえば明日突然声が出なくなっているかもしれない。だから参考にするならできるだけいろいろな体験をしてきた人の方がよいし、そしてそういう人を参考にしながら最後は自分の責任において自分の方法を体得していくことが大事だと思うし、それに関してプラスになる情報はもっともっと欲張って仕入れていくべきだ。このこと自体も実際に肉体を使ってできるトレーニング時間以外の時間の有効な活用方法だ。広い意味で考えるなら、そういう時間もトレーニングの内だ。

 

 

 自分の体の動きをできる限り自然な生物としてのものに戻していくと改めて考えた場合に、もう一度冷静に身のまわりを観察してみると、よくもまあそんなことがいえたものだと感じてしまう。いくら生活の癖からくる姿勢の乱れをチェックしていっても、現代においてそれなしには考えられないような文明の産物を本当にシャットアウトなどできない身で自然に帰ろうとはおかしな話だ。

 

 排気ガスひとつ取っても、いくら自分が車持っていなくともそのせいで喉がおかしくなるのは自業自得以外の何物でもない。野菜や農産物も、どんなに自然な方法で作っていっても、文明が発達してしまう以前よりもおいしい味にはならないという話もあるくらいだし、高級な有名会社のアコースティック・ギターにしても、同じ品番で同じ産地の同種の材料で伝統的整法で作ってみても、どうしても昔通りには鳴らないそうで、これは時間による乾きの度合いを差し引いてもそうだと耳の肥えた人はいっていた。

 

 こういった話をそのままヴォーカリストにも置きかえられはしないだろうか。声楽やフラメンコの世界でも、年老いた辛口の批評家達は口をそろえて昔の方がよかったといってしまうし、日本の伝統芸能にしても、音で伝える分野に関しては初代に近いほど音源も映像も残っていず、移動をするのに車や飛行機を使い自分の演技をVTRなどで客観的に見、そうしてTVなどから外国の言葉や音楽が嫌でも耳に飛び込んでくる現代の名人と、そういう物が全くなかった時代の人達との芸が全く同じとはどうも思い難い。

 

 最近亡くなられた野球評論家の青田昇さんが、ピッチングマシンでの体感球速と自分の記憶とを照らし合わせてみて、沢村栄二投手の球は160km/hだといっているのを聞くと、昔感じたことは少々オーバーに憧えているのではないかとも思ってしまうし、それに芸ことに関してはどちらがよいかなんて一人ひとりが違う感覚でとらえるから、そんなことはどうでもよいかもしれない。

 

オリンピックを見ていても古い記録はどんどん破られていくから、技術的には進歩し続けるのだろうとも思うが、身につける道具をも含めての進歩でもあるので、結局歌の方の話に戻って何が言いたいのかというと、今どうしてもこの目の前の人に伝えたいと思う気持ちというものが、少しずつ薄れてしまってきているというのは本当ではないか。

 

 そこで数々のトレーニングに加えて、身のまわりにある便利な物、それは自分の出した音を増幅するための物や、光のような速さでそれらを録音したり遠くへ伝達したりできる物も全て含めて、もう一度疑ってみるところから始め直すのが、本当は最も重要なことなのではないか。排気ガスなんていう物は、それら全てから吐き出されて結局自身の体にまわりまわって帰ってきたに過ぎないのだ。

 

 

 最近デパートへ行くと、川のせせらぎや鳥の声のCDを流していることがあって、音楽の方が機械化して行き着く所まで行ってしまったから、その反動でそういう所へ帰ってしまったのだとかいわれている。訪れた人々も落ち着くからよいなどといってしまっているけれども、よく考えると本当にとんでもない話だ。生活の便利さはそのままでも自然から出てくる者は気持ちよいから聞きたくて、結局誰かが必死で録音してきたものを方向性が全く逆の、機械や電気で再生しているというのもそうだけれども、人間の声も自然の産物だというのを忘れられては困る。

 

 こんな流れに押し負けないためにも生の声の大切さというものにもっとこだわらなければならない。音にとことんこだわるミュージシャンはいっぱいいるけれども、マイクなしとマイク有り、そしてそれをCDにしたり電波に乗せて流したりして、その端には全く違う再生装置が待っているというのに、自分の思い通りの音がそんなに一度に多勢の人々に全く同じに届くわけがない。

 

 本当にこだわるならそれのできる範囲内の人を集めて聞いてもらうのが本当だ。鳥がバードウォッチャーの仕掛けたマイクの前に降りてきて、わざわざ一番声が入りやすいように鳴いてくれず、逆にそんな物は警戒して近ずいてはくれもしないように、ヴォーカリストも本当に生で聞かせられる規模にこだわり、マイクを誰かが置くならこっちの御機嫌を損ねないよううまくやってくれといえるくらいの、金儲けとはほど遠い繊細さを取り戻すことが、これからは大事になってくるのではないか。

 

 

 オリジナリティーというのを自分で曲を創ることと同じに考えてはいけないというのも改めて確認しておくべきだ。どんなに古くからある歌を歌っていようが、今考えた歌を歌っていようが、誰が歌っているのかが一番重要なのだ。プロと呼ばれている人の中でもそうでない人達でも、環境問題がクローズアップされたり、自分の国の行政に問題が発覚したりすると、メッセージソングなどと銘うって、それらに関係した新聞の記事を切り抜いてきてそのままメロディーをつけて歌って平気な人もいるけれども、そういうのは論外だ。

 

 そこまでいかなくとも最後は細かい詞の内容が漠然としていても、歌っている本人が人前に出ている以外の時間どんなふうに生きているかが表に出てくるのだ。たとえ本人が気づいていなくとも、聞く人が聞けば全部バレてしまうし、そのレベルで他人を納得させられることが本当のオリジナリティーだ。

 チャリティー・コンサートとかいって飛行機をチャーターしてわざわざ来日してくる歌手も、もうそろそろいらないのではないかと思うし、本当に聞いて欲しかったら筏を漕いででも渡って来いといえるくらいにみんなでしっかりとしないといけないのではないか。その内CO2を過剰に排出するということで、息吐きもさせてもらえなくなるかもしれない。

 

 

 いろいろな国の歌をトレーニングに取り入れて、最終的にはそれを日本語の歌に応用できたらよいとは思うけれど、それを意識しないで、その国の人よりうまく歌えることをめざすのもおもしろい。フランスでもイタリアでも、現代流行っている音楽はほとんどアメリカの影響を受けているとか、そのアメリカの人の中でも軽い歌い方をする人がたまに出てきているし、それだったら日本人の方がその先行き着きそうな歌い方をとっくにやっているのだから、日本人はだまっていれば今度は海外から自分を殺した歌い方の見本として一気に世界のトップに立てるかもしれない。

 情報がこれだけ速く伝わってしまうと、地球が一つの村になってしまって本当にそうなるのではないかと悪い頭で考えてしまうけれども、ここでそうではないのだといえるようにしたい。

 

 ブルーズなんか特にそうだけれども、シャンソンでもカンツォーネでもファドでも、海外から新鮮な気持ちで聞くことのできる自分達が、貴方達の国にはこんなにも素晴らしい音楽があるではないかと逆に教えてあげられるくらいになるのも、そういうのをめざすのもおもしろい。

 どこの国でも老人は、たとえばブルーズなら「本当のブルーズを歌える人はいるくなった。」とかいっているし、歴史的に考えてブルーズなんて悲しい物はもうなくなってしまった方が人類にとって幸せという証明であるかもしれないからむし返すのもどうかと思うけれども、魂を込めて歌うという意味においては簡単には失いたくない物だとも思う。

 

ヨーロッパから来日して平家琵琶を真剣に習っている人の話を聞くと何かこう「やられた」という感じを受けるけれども、日本人の自分よりそんな人達の方がよほどうまくできるのかもしれない。そういう思いを我々が海外の若者達にさせてみるのも意義深いことだ。自分にしてみれば途方もない話ではあるけれど。

 

 

 ヘッドホンやイヤホンで耳を塞いで街を歩くということは、音楽で他人に何かを伝えようとする人にとっては絶対にマイナスだ。だいたい音楽がどうこういう前に、耳という身のまわりに随時変化しながら起こってくる数々の情報を受け止めるのに、これほど便利で重要な物はないのに、それをわざわざ塞いでしまう人の気がしれない。緊急の危険を知らせる者がいつなんどき聞こえてくるかもしれないのに、きっとそういう人は、毎日何の変化も起きるわけがないと安心し切っているのだろう。

 

 そしてそんな緊急のこと以前に外を歩くということはいかに自分一人分の体が邪魔にならないように気を配るということでもある。自動車のエンジンの音、自転車が走ってくる音、自分よりも急ぎ足で追い越したがっている人の足音、そして目の不自由な人の材の書など、クラクションなんか鳴らされているようでは終わり。このようにちょっと思い浮かべるだけでも耳を塞いでしまうことの無神経さがわかるし、これでは耳の不自由な人々に対して失礼なのではないかとさえ思う。

 

 歌を歌うという行為において、その人の生きている時代というものをちゃんと受け止めて、それがどこかに反映されているというのも大事なことだ。そう考えると身のまわりから聞こえてくる音には全て耳を傾けて、今自分の生きている環境はこうだと、それが嫌な音ばかりならば自分も遠かれ近かれそういう音を生み出す社会の一部なのだと認識してこそ、本当の歌が歌えるのだ。

 

 現実に耳に飛び込んでくる音を音楽でごまかすのはやめにしたいし、もしそういうためにではなく、本当に歩いているときでさえ聞き続けていたい音楽があるのなら何も自分で創り出すこともないと思うし、曲を覚えるために仕方なくウォークマンを使っているなら、そんなにまでして覚える必要はないとさえ思う。

 そういうのは一見すごくがんばっているようでも本当は反則技で試合に勝つようなもので、自分の寿命を越えるくらい長い目で見た場合結局それは失敗なのだ。というような考えから、音で何かを伝えようとするなら、ウォークマンはやめるべきだ。

 

 

 

 携帯がこんなにも普及しているということは、とても便利なのだろう。本当にそんなに緊急な用事ばかりでまわりで鳴っているのかは本人にしかわからないから別に何もいうことはないけれども、こういう便利な機械も電波やなんかが身体に及ぼす影響とかそんな難しいことではなく、倫理的とか道徳的な意味で、良薬といわれていた葉が何十年も経ってから副作用が発見されるというようなことになるのだろう。

 今の時代、連絡をいつでも取れる人間が一番つき合いやすい相手なのだろうし、そういう人ほどどんどん信頼を得て商売の面においても成功していくのだろうけれど、こういうのも長い目で見れば大事な物をどっかに忘れてきてしまっている目先の勝利と思えてしまう。

 

 人は自分の話している相手を横から入って来られて話ごと取られてしまうとムッとするはずであるけれども、電話という物が間に入ると平気でそれをやってしまっているし、そして取られた方も仕方がないので待ってしまうことが多い。

 本当は今自分の目の前にいる人間を最優先しなければいけない箸で、あくまでも基本的にではあるがそういうことをないがしろにしてまで自分の計画を遂行していっても本当の成功ではない。たとえそれが現れてくるのが孫の代になってからにしても。こういうことも含めて、本当に自分の心の行き届く範囲で少しずつ何かを伝えて行くというのが、それがコンサートであれば尚更に大切だ。

 

 だから今のところの考えでは、携帯などという耳障りな物を何とか衰退させられるくらいのパワーが自分のヴォーカルにあれば。こんなことをいってはみても、車の排気ガスの誰と同じで自分は携帯なんか持ったことも使ったこともないだけで、そういう物なしには回転していかない世の中のサイクルにどっかりとあぐらをかいているのはわかっているから、本当に幼稚な夢の話であって、今突然携帯電話がなくなってしまったら、間接的にせよこんなことをいっている人間に限って困るのだろう。

 

 

 NHKのラジオやテレビでイタリア語の講座を聞くときに、出演している日本人とイタリア人の声を聞き比べるのは本当に勉強になる。自分で深い声が出せるように下っ腹や横っ腹を動かしていると、そういう方向性と逆の人が出てくると本当に聞いているのが嫌になることがある。

 一番そう思ったのは、容子という人の声だけれど、この人が出ている半年間は本当に辛かったのを覚えている。御本人には失礼な話だけれども、もうちょっと声のよい人にしてくれないかと本当に思った。

 

 こんなことを思うのは、声に関してより神経質になったということでよいと思うけれど、それと同ときにちょっと気を許すと自分も、それに近い声にいっぺんに戻ってしまうのだと体が知っているから余計に避けようとしてしまうのだ。

 その他の講師で、高田和文という人や一ノ瀬俊和という人は、おそらくイタリアで生活したこともあるのだろうけど一般的な日本人の中にあってはよい声をしておられるのだろう。

 

 その人達でも真横でしゃべっているイタリア人の声と比べると、本当に豊かな声の文化を持っている国の凄さを改めて思い知るばかりである。何もイタリア人よりうまくイタリア語を話そうなんて思わないけれども、以前に比べて少し増しな声が出せるようになったと思ったら、もう一度こういうあたりまえに深い声を使いこなしている民族と、がんばってもやっとまだここまでという自分の声を上げては、その課題の果てしなさを思い出すべきだ。

 

 ラジオで流れる本物のイタリア人の極普通の会話の後に、自分も同じにいえるか、もちろん発音の上手さより声の底に流れる太さとか強さとか柔らかさについて比べてみるとよい。深くて太い声の人が多いので低い声かと思っていると、意外にも高い音で平然としゃべっているのがはっきりと理解できるし、細かな子音も全部ひとつの土台の上にちゃんと乗っかっていて、カンツォーネやオペラなんかこういう所に生えてくるものなのだと感じて嫌にもなると思う。

 けれども、そう思えるだけにやり続ける価値はある。その他、音節の短い単語からイタリアの言葉を本物に近づけるように繰り返すのもよいトレーニングになる。昔の自分と今の自分を比べているだけでは進歩も止まってしまうから、常に着段の会話に使う基本的な声から少しずつ厳しくチェックするようにしていくべきだ。

 

 

 イタリア語を聞いていると、たまに、関西の人が会話をしているのとそっくりな箇所が断片的に出てくる。英語でもたまにあるし、スペイン語でもそういう感じがする。西洋の人が片言で日本語をしゃべっているときでもどちらかというと関西弁に近いイントネーションになってしまっていることが多いと感じる。

 タモリ明石家さんまなどの関西のお笑い芸人とトークをするときに、大阪の漫才師のしゃべり方といってすごく喉に力を入れてガラガラ声でがなりまくるということをわざとやってみせるけれど、確かにそういうイメージは強くそれはまずいと思うけれども、何かこうドスが利いていて迫力ある声という点で、東京近辺の言葉よりも関西の方が勝っているのではないか。

 

 

 東京へ出てきたばっかりの頃、買い物をするときに店員にいろいろと質問をするときなど、何度もいっていることを聞き返されたのを覚えている。これだけ関西の芸人がテレビに出まくっている時代になっているのに、テレビも見てないのかと思って順応性のない人達だなと腹立たしくなったりもした。

 東京の言葉も大阪の言葉も文字で表せばその違いはほとんど語尾の方だけで、単語の前の方はほとんど同じなことが多い。それでも東京の人の自分の話しかけに対するときの反応をよく見ていて気づいたのは、わからなくて聞き返してくるときはもうその言葉を言い出したと同時くらいに目が泳いでいるのがわかってきた。

 

 ということは、しゃべり出しの音の高さというものやタイミングも地方によってかなり違うのではないかと思うようになった。それでも意地を張って純粋な大阪弁でしゃべり続けていたある日、仕事中に話していた相手から「あんたたまに関西のなまりが出るねぇ。」といわれて本当におどろいた。自分では今まで通りにしゃべっていた積もりが、自然と関東の空気になじむ話し方に変わっていたのだと知らされた。

 

 このとき自分はアグネス・チャン小錦かでいうと小錦の方なのだなあと思ったけれども、新しく言葉を学ぶときには、かえってこういうことは大切なのではないかと思った。この場合に限ってみれば、自由に自信を持ってしゃべっていた関西から、東京でうまくやっていこうとする、言い替えれば長い物に巻かれようとしてしまった上での関東への移行が普段の会話で喉が痛くなるということにつながったとも思っている。個人的にはこれから徐々にでも、もっと自分の生まれつきしゃべっていた関西を大切にしていければ。イタリア語に似たイントネーションもいっぱい利用して、世界に通じる大阪弁を考えていきたい。

 

 

 ピアノやテープの伴奏に合わせて声を出していくとき、どれだけ脱力できているかにこだわって、それこそ軟体動物にでもなった積もりで体中ブランブランしながらやってみるのもよい。膝や足首を柔らかく使って、腰と首は後ろ以外のあらゆる方向に曲げたり倒したり、腕はそれにつられて離れているだけで、体重はたとえば片足ずつ移し変えたり、本当に後ろに戻る動き以外は自由に楽にやってみて、どこにどう重心がきて、腰や首がどういう角度のときに声が下半身の方から生まれてくる感じがあるかを調べる。

 

ため息から声に変換したような、本当に何も化粧をしていない声の原点ともいえる出し方で、体を縦に響いて出る声をもっと確実に促えようと試みる。そういう声だと喉に負担をかけていないので、首を前や横に倒していても関係なく、そこより下で鳴っている感じがするので、それで声の中心で本当に余分な力を使っていないかチェックするのがよい。

 

 

 ハミングのトレーニングをするときは、自分がコントラバスだと思ってやってみる。弓を使って演奏しているように深く体中が響いていながらも、音と音の継ぎ目はなめらかになるように試みる。この場合いろいろなメロディーを使うとおもしろいけれども、あまり広く音程の飛ぶようなものより、ゆるやかに上下するものにしておいて、深い音をいかに段差感なしに表現できるかに集中した方がよい。コントラバスのように体全体から音が鳴り響いていて、そして一本の弦でフレットレスな感覚を持ってスムーズに隣の音に移って行けるかやってみるとよい。

 

 

 胸についた声を意識し過ぎるばかりに間違って暗いこもった声になってしまわなひように、今度はコントラバスからチェロに変わった積もりでメロディーを歌ってみる。本当に楽器を取り替えるようにそんなに広い音域なわけがないから、あくまでも気持ちだけれども、同じハミングをするにしても、「ン」より今度は「ウ」に近い感じで、そして少しだけ幅の広い音程もやったりしてみる。

 

音のなめらかさは擦弦楽器を更に意識して、強弱も自在につけてそして、なるべく長く伸ばせるところは伸ばしてみて、フレーズ一つ一つはもちろん曲全体もなめらかにしようとしてみる。そうして「ウ」から少しずつ口を開けて「オ」や「ア」で同じように声が頭から飛んでいってしまわないようにやると、少し気持ちよく声が出ているのがわかるような気がする。

 

 

 “アメージング・グレイス”という歌を覚えるときに、たまたまスーザン・オズボーンという人が歌ったものを聞いた。2コーラス目に~We have already come~”という箇所があって、その中の“already=オールレイディー”を最後の“~ディ~”の部分を伸ばしながら4度音程を上げていたので同じようにやってみたらよい。同じ単語をいっている中で強調するように伸ばして上げているのだから、不自然にならないで、そして曲のイメージも考えるならなめらかに、割と広い2つの音の間をそれこそ温度計を熱湯につけたときの水銀の動きくらいスムーズにできるかやってみるとおもしろい。

 

ここで失敗したら曲全体が台なしだと勝手に思って、ワンコーラス目から通して歌って、音を上げる所で声の出し方が変わってしまわないように注意してやってみて、半オクターブくらいでのでき具合をじっくり調べるのも大切だ。

 

 

 プロのヴォーカリストが伴奏なしで歌うのを聞く機会はなかなかないけれど、本当はそういう他の楽器の力を借りずに自分の呼吸だけで歌っているときをもっといっぱい聞きたい。それで思い当たるのがスポーツ・イベントでの国歌斉唱で、ボクシングの世界タイトル戦やサッカーの国際試合はできる限りセレモニーから観た方がよい。

 

以前は、君が代を歌う人といえば一般的にあまり有名ではない声楽の人達が引っ張り出されていたように思ったが、最近ではポップスの歌手の方が多くなってきている。’97に行なわれたサッカーワールドカップ・フランス大会アジア最終予選でもそうだったし、3~4年前のプロ野球オールスター戦では郷ひろみさんも歌わされていた。こういう人達にやらせた方が盛り上がるのだというのをやっと気づいたのだろうけれど、本質的に成功しているのかどうかは疑わしい。

 

 ボクシングのときにジョー山中さんが歌っている途中で「かえれ〜」とヤジられていたし、知名度と、こういう場にも対応力があるというのは必ずしも一致していないのだと思える。だからこういうことを踏まえて、国家斉唱には毎度呼び出されるような、その勢いでよその国のまで歌わせてもらえるような、それくらいめざす積もりでやってちょうどよいのではないか。

 

 “なるほど・ザ・ワールド”という番組で、森久美子さんがアメリ力のプロ野球の試合前にアメリカ国家を歌っていた。番組の企画とはいえ、そのときの観客は本当に拍手を送っていたと思えるし、自分もよいと思った。ヴォーカリストというなら、これくらいの力は持っていなければならないと思って、無伴奏でどれだけ聞かせられるかというのをもっと大切に考えたい。

 

 それにしても、海外でも世界が認める超一流の歌い手でさえも、スポーツの大イベントにおいては前座あつかいなのを見て、スポーツの方がランクが上ということなのかと思ってします。コンサートの前に余興でサッカーやボクシングのエキジビションをやられても変だろうし、一つ考えられるのは、歌は一般的労働、金儲けからは遠い物だといえるのだ。そういうことをする人を慰めたり勇気づけたりするもう一つ特別な選ばれた者であるべきだといえる。

 

そうすると本当に自分がどうあるべきかというのがわかってきて、道は険しいというのを更に感じてしまう。本当のヴォーカリストとは、それほどすごいものなのだと思っていかなければならない。

 

 

 食費を少し減らして、その分スタジオ代に使ったり、交通費をケチってどこへ行くにも自転車を使ったり割と最近までやっていた。そうすることで歌のためにがんばっている積もりになっていたのだと思うけれど、結局ちゃんと歌い切るためには体のことも考えなければならないと思うようになってきた。おにぎりばっかりで他の物はあんまり食べないと、目まいもよく起こったし、排気ガスもよくなかったし、歌う以前の最低限の体調保持は本当に大切だ。

 

 歌うということができて初めて自分のバランスが取れなければならないが、その100%から歌うということを引いた残りは残りで、常にバランスをとっておかないと、そのものが満足にいかなくなる。どんな場であれ歌う機会というのは逃したくないし、もっとコンスタントにいくよう心掛けるのも重要だ。もちろんこういうこともいろいろ試してみないと何もわからないから、初めから保守的になるのもどうか。

 

 一時期こういうことをかなり神経質に思いつめて、口に入れる食材を全て無農薬とか無添加の物を買ってきては自分で調理して食べていたことがあった。お金が高くついたし時間もかかったのでとうとう10ヵ月くらいで根を上げてしまったが、そのときに思ったのはそういう物は下手クソな料理でもおいしかったのを覚えている。こういう物を食べるのが普通になれば、芸事やスポーツなど体を使うこと全てもっとレベルが上がるのではないかと本当に思った。

 

歌ならばそういう本当に体が喜ぶ物を食べれば、他の人の体が喜ぶものを歌えるのではないかというふうに。世の中のこと全てを受け止めてそれを体から発して歌うのがヴォーカリストなら、今簡単に手に入る物を季直に食べて、それがまずいと思うならそういう憂いを含んだ歌を歌っていけばよいともいえるかもしれないけれども、それを変えていこうとする意志を歌うことがあってもよい。そういうことも真剣に考えなければならない。

 

 極端な意見だけれど、たとえそれがラジオ体操であろうと、その人が声のためだと思って1日3回本気で続けたならば、声は変わっていくのではないか。毎日何かを続けるということは、必ず毎日声について考えるということになる。

 

そうすれば自ずと情報も集まることになり、もっと有効な手段だって試すようになるだろう。そしてそれだけ規則的に声について考えるということは、常に新陳代謝を繰り返して新しく生まれてくる細胞一つ一つが、声に対して協力的になっているだろうということだ。ここへきて、たとえ5分でもよいから毎日続けることというのが本当に本当に大事だと思えてきた。

 

 

 

 たとえば個人レッスンを受けているならば、それと自分一人でやるトレーニングとを間違った意味で混同してしまわないことも大切だ。個人レッスンでは30分間ビッシリすき間なく声を出し続ける。高い音の方も割合使うし、咳やガスを抜くこともしていられないくらいだし、しまいには意識して体勢を作り直してる暇もなくなってくる、というか筋肉の疲労で作り直そうとしてももう駄目ということもある。

 

 これを自分一人でやるときも同じようにやるのは危険だ。レッスン中の30分間というのは、ある意味ライブと同じともいえなくもない。なにせライブでフレーズの、いや曲の途中に咳やげっぷできるわけがないし、トレーニングで100%やれる人ならライブではそれ以上できるはずだから少々喉も赤くなる。

 

 だから個人レッスンのときに高い方へ上がっていくときに、体の変わり目はどのあたりで、どれくらい行くと戻ってきたとき低い方に影響が出るか、低い方も同じように変わり目はどこかと、それをちゃんと感じ取っておいて一人でやるときはまんなかの音からその上下の変わり目以内でやるべき。極論すると、一番出やすいまんなかの音だけでもトレーニングできるし、その一番の中に色のポイントを見つけていけないと発展しない。変わり目の外側の音は、その日のトレーニングの最後に中間音がうまくいっているかを確認する意味で少しやってみる程度でよい。

 

 冷静に考えれば、個人レッスンでは自分より耳のよい人が完全に客観的に声を聞いてくれていて、その都度次々に課題を出してくれているのだし、しかもそれはこういう状態のときはこうやっていけば声がお安くなっていくというノウハウに基ずいてピアノを叩いてくれているのだから、一人でそれをやろうとしても無理である。

 

 そういうことから考えても、一人のときはまんなかとその前後の少しの音で、そしてトレーニング後にトレーニング前より声が出安くなっているかに注意してやるべきだ。個人レッスンの30分を全部満足に発声するためには、まずその中にある課題をひとつずつ片づけていくのが正解だ。

 どんなタイプのトレーニングをやるにしても、何ヶ月、何年と続けていくならば集中力を毎回保っていくのは大変なこと。単調な作業を繰り返していこうとすると、必ずやり始めた頃の新鮮な気持ちはいつの間にか忘れてしまって、下手をすると何でこんなことをしているのかという所まで頭が行ってしまったりもする。そこで、いつもちゃんと気持ちを入れてトレーニングできるかどうかの鍵は、現在の自分の立場を忘れないことだ。

 

 そもそもこんな面倒なことをやろうと決めたのは、余りにも自分の歌が下手だと感じたからだったはずである。ところが内にこもって一人でやり過ぎると、ほんの少しの体の変化でもうれしいものだからそのことに酔ってしまって満腹感から抜け出せなくもなる。こういう時期が一番成長の妨げになるし、ただ時間を費やすだけのトレーニングをしてしまう原因だ。だからこういうことにならないために、常に刺激を受けることが大切だ。

 

 グループレッスンに顔を出すのも有効だ。だいたいトレーナーの声を一声聞いただけでもその違いで全て思い知らさせるけれども、同じようにレッスンを受けている人達の中にも自分にない物を持っている人はたくさんいて、同じ条件の中で劣っている部分を感じられる。それら感じたことを胸の中に刻み着けて家に帰って、その悔しさとか情けなさとか恥ずかしさを思い出しながら床に着く前にもうひと踏ん張りする。これが大事だ。

 

 確かにスタジオでグループレッスンをやって割と夜遅くに帰宅したのなら、実声を使ったトレーニングをしなくてもよいと思うけれども、今日は一時間レッスンを受けてきたからこれでおしまいではなくて、基本姿勢や落ち着いて深くゆったりした呼吸を確かめ直したりとか、少し息吐きをやってフォームを整えておいたりなど、時間は少しでもよいから必ず何かやっておくべきだ。

 外に出て行ってレッスンを受けるのは、それで満足しに行くのではなく、自分はまだまだ未熟だという事実を思い出しに行くのだ。だからその思いが温い内に少しでも体を動かすのが、一番身になるトレーニングだ。プロ野球でも秋期キャンプは大切だといわれている。

 

 

 

 以前にいっしょにレッスンを受けていた人から、研究所を出た後に何の進歩もないという電話が少々不満のはけ口気味にかかってきたり、すっかりタダの人々戻ってしまったトーンで横のつながりを大切にしようとかいわれたり、ライブをやるのできて下さいといわれたのをハッキリと断わって切った後や、そういう人から届いたコピーを貼りつけた葉書のDMをゴミ箱に捨てた直後も、適度に体が温まって充実感のあるトレーニングができる。

 

 何かやれる、ことを起こせると思ったからこそ出て行ったのだと思っている所へ意外にもめちゃくちゃにめめしい直接的な友達宣言的案内状がきたら本当におどろく。こっちはてっきり風の噂で呼び寄せてくれるものだと思っていただけにそのスケールの小ささに腹が立ってきて、こんなふうになったら本当におしまいだと思った。その直後にトレーニングをやると集中力が増す。だからこういう嫌なこともよい方に切り換えて使えば、気分的マンネリを防ぐきっかけになる。

 

 

 ただ単に美しい音としての声を求めるだけなら、絶対に健康的に生活して、ストレスなんか全く溜まらないようにした方がよいに決まっている。しかしその声に乗せて伝えたいことというのはそんな完全なヘルシー生活が実現すると同ときに消えてしまうような気がする。気分よく目覚めて快調に働き、仲間と飲んで騒いで幸せ感いっぱいで眠る。こんな所から出る歌はどんなに美しい声であっても楽しいのは内輪だけで、他人に聞かせるものでは決してない。

 

 深く考えさえしなければどんなときも楽しいかもしれないけれども、ついついいろいろと思ってしまうからこそ人によってはそれが歌として現れてくるというのが本当だ。それでそうなったならなおのことお酒やその日その日の馬鹿騒ぎでチビチビ発散しないで、というか本当に大事なことに思い当たったらそんなものでは納まらないのがわかってくるとは思うけれど、そのうっぷんというようなものをもトレーニングのエネルギーに変えていった方が、これも時間だけが流れてしまう充足感のないトレーニングを防ぐ方法だ。

 

そうして最終的には他人に歌を聞かせるのが発散する最良の手段となっているべきだ。これは極論で、本当は精神面での健康は考えていかなければいけないことだけれども、自分にとってのよいバランスを知るためにもギリギリまで極端にした方が後々のためにもよい。

 

 

 カラオケに誘われたときに断わってばかりいないで年に1~2回つき合ってみるのもトレーニングをやる気分を充実させることになる。自分がちゃんとチェックする気持ちさえ持っていれば、カラオケといえども満足には歌える曲が一曲もないことを改めて思い出すし、声に関するトレーニングの発展途上の自分と何にもしていない人とを比べると、かえって何もしていない人の方がテレビ・タレントの真似をうまくやってしまってカン高い声も出せたりして、そしてまわりの人は高い声が出た方を歌がうまいといって拍手する。

 

 それから自分にうまいといった人が、自わから見て決してうまいとは思えない人にもうまいといっていたりで、情けないやら悔しいやらで、本当に心底これでは駄目だと思えてくる。このように自分がしっかりチェックすることを忘れずにいれば、たまにカラオケに参加するのも非常に危機感を思い出させてくれるチャンスになる。そうした後でたとえば息吐きでもやれば、今までの甘さを再チェックできて同じトレーニングでも中身が濃くなる。

 

 

 長さが何10メートルもあって、更に幅も自分の身長の15倍くらいはある紙、これはフォト・スタジオでモデルさんの撮影のバックとして使われる物だけれども、このような物を一度ひろげて使った後に、元通りに円柱状に丸めなければならないとする。部屋に貼るポスター程度でもそうであるように、急いでやると側面がはみ出してきて横からたたいたり、そうするとたたいた箇所が折れてくるので結局ひろげてゆっくりと丸め直さなければならなかったりする。早く美しくできればそれに越したことはないけれど、それが難しければものすごく遅く慎重にやって行く方がかえって近道なのかもしれない。そういうことを思ってから息吐きでもやれば、汗ってイライラしてトレーニングが上の空の状態のときには効果がある。

 

 

 高くて遠い目標を持つのは絶対に大事だと思うけれど、それだけだとあまりにも自分とかけ離れ過ぎていて、本当に気がめいってしまって自分は何と無駄な努力をしているのかと思ってしまう。でもそんなことは承知でやり始めたのだからその辺は気が重くなるほどにはこだわらない方が身のためだ。ここで大切にしたいのが、自分より少し前を行っている人の存在だ。確かに自分より進んでいるのはわかるけれど、地道に努力をしていれば何とか追いつき追い越せるのではないかというくらいの関係の人を少し気にかけてみるのもトレーニングに力が入る要因にできる。

 

 陸上競技の競争でも、前のランナーに引っ張られて記録が伸びることがあるようだし、水面に起こる表面張力のようなものが人間にもあって、ギリギリに近い力関係の人に引き上げられて力を着けてしまうことがあるのではないか。

 

 10年ほど前に藤子不二雄Aさんが描かれたトキワ莊に住んでいた若い漫画家達の話を読んだけれど、あんなふうにいろいろな個性の持ち主が互いに刺激し合って自然に伸びていける時期があるのとないのとでは物すごい差がある。だからそういう具合に大目標はそれとして心の中にちゃんと置いておいて、当面の目標をキッチリと片づけていこうとするのも、1回の息吐きに真剣さを増す術になる。

 

 

 地道にコツコツ努力しているときに、他人からの褒め言葉ほど気をつけなければならないものはない。自分以外の人々と切磋琢磨するのは素晴らしいけれど、ちょっと油断すると、ものすごく簡単に人を褒める者が現れてしまうときがある。

 地味な作業の中、適度なタイミングの褒め言葉は確かにうれしいけれども、正直に受け取り過ぎるとその後のトレーニングの内容が薄くなってしまう恐れがある。だからそんなときはもう一度冷静に考えてみた方がよい。

 

 たとえば「よくなったね」といわれたならば、それは本当は「初めて聞いたときは本当にひどかったけど、それに比べたらまだよくなったね。」ということだし、「今日の中では一番。」といわれてもそれは「どれも今ひとつだったけれどしいてあげるなら貴方が今日の中では一番。」ということだし、「うまいですね。」といわれても「私よりはうまいですね。」ということであって「マライア・キャリーよりうまいですね。」といわれているのではない。

 

 「ライブをやるときは絶対行きます。」というのも「ブルース・スプリングスティーンが同じときに同じかそれより安い値段でライブを演るとしても絶対行きます。」といっているのでは決してないはずなので、変なことで気合の入っていないトレーニングをしてしまわないように気をつけるのも大切なことだ。

 

 

 

 よくもまあこれだけ自分がろくにできてもいないのに、しゃあしゃあと理屈をこねられた物だ。できないのを理屈で胡麻化そうとしているとさえ思えるくらいで、もっと具体的に書けないものかと非常に恥ずかしくも思う。

 

 突然話は変わって、読売巨人軍のV9時代に当時の川上監督がナインを全員集めてミーティングを行い、そして全員にそれについてレポートを提出するよう命令したときに、長嶋選手はレポート用紙一枚に「わかりました。」と一言書いて出したそうだ。

 

自分も究極的にはこうであれば。一曲か一声でも聞いてもらって全てを表現できているように、そう思う。

トレーニング日誌C 19621字

 

 息読みは、いくらいろいろと新たな発見や思いを込めてやっていても、正直いって地味でそれだけやり続けるには退屈な作業だ。しかし、そこを我慢して、それだけを毎日毎日決まった時間やり続けて、実声を出すことに対する飢餓感というようなものを利用するというのも一つの方法だ。

 

月に数回課題を出してもらってフレーズを歌う以外の自分が一人でやるトレーニングを、かなり長い期間息読みだけでやって、実際に声を出しているイメージを頭に描いておく。そうして久し振りに思いっ切り声を出してみて、改めてその快感を得てみると、何か今までと違った感覚を味わえることがある。

 

そのとき、それまで力を込めて体に負担をかけてきた分、今度は逆にリラックスだけを心がけて、本当に溜まったうっぷんを全部晴らす積もりで声を出してみる。調子に乗り過ぎると喉を壊すといけないので適当にやめるのも忘れないようにして、こういうことをやってみると、気持よく声を出す感じを思い出しやすいのではないか。“コアトレの原理”と同じ。

 

 

 息読みをかなり執拗にやって、たまに実声を出すことを何クールも繰り返している内に、実声を出したときの体の中の感覚が変わってきたことに気づき出して、しかもそれが飢餓感の解放からくる過剰な覚醒作用による勘違いではないことを、信用の置ける耳の持ち主に確認したり、録音物で聞き直したり、何よりも次の日同じことができるかで念入りに調べた上で、どうも本物だと思えたら今度は単純な短い言葉を実声で繰り返しいってみる。「アオイ」「トオイ」「ララ」「ハッ」「ハイ」「ヒタスラ」など、これらも次は思いっきり歌ってみたくなるのをとことん我慢して執拗にやってみる。

 

 今までの息読みがこれらに変わったわけで、そうしてもっと意味のあるフレーズを何も考えずに叫んでみる。それまで続けてきた単調な言葉の繰り返しのために、一節歌ってみたときに何か変化があるのを感じられるか確認してみる。好きな曲で、自然に換えてしまっているフレーズを、解放して叫んでみることで、喉ではなく体で勝手にアクセントの卵みたいなものがついているかを、喉が痛くならない程度にやってみて、何も無ければ次の日から短い言葉だけをやればよいし、初めの内おぼろげに感じるくらいのときも、わざと、執拗に「ハイ」や「アオイ」をじっくり続ければよい。

 

このようにして、一つ上のトレーニングは手前のトレーニングのできを確認するためにあるのだと割り切って、半分泣きながら今できることだけを繰り返すべきだ。そしてこの途中で短い言葉を言い切る感覚さえも再び危うくなってきたならば、もう一度息読みやそれ以前に戻ってやり直すということを繰り返して行くしかない。

 

 教則本を参考にしたとすると、まず始めに姿勢について述べてあるけれども、本当に理解できないし、実行することも難しい。早くもやる気を失うことになってしまう。

ここで見落としてはいけないのが、細かいことにはこだわらないで、とにかく毎日、たとえ5分でもよいから続けることという言葉だ。頭で考えてばかりいても体は変わらないのだから、考える前に何かやってみようとするクセをつけるのも、ものすごく重要だ。

 

 前傾姿勢をとるにしても、人間の体に元々直線など、ないのだから、あまり鏡に写したりして見た目を直すのもかえって難しいかもしれない。膝の曲げ具合や腰の角度など、一息毎、一声ごとに自分の体内感覚でさっきのと今のとではどちらが気持ちよかったかを比べていって、そのよかった方を多く取り出せるようにしていくしかない。

 

 “細かいことを気にしないでとにかく毎日続けること”は正確には細かいことを気にしていたら続かない人へのアドバイスかもしれない。もっと違う言い方をするなら、できなくてもクヨクヨと気にしないということであって、本当は一回息を吐く度に落ち着いて、そのときの体の感想を聞いてやることも大切だ。

 

 

ヤクルトスワローズの野村監督がチームを任されて一~二年目の頃、当時の池山選手や広沢選手のことを、「同じ空振りを三回平気でやって帰ってくる。」といっていた。一度空振り(失敗)したら、次はそうしないために少し工夫するのが普通で、ちっとも体の内側に負担が感じられなかったなら、ミリ単位で体を曲げていく、あるいは伸ばしていく、背スジを確かめるという具合にしてみるのも大事だ。

 

 

 体の内側への負担。息を吐いたとき、脇腹を中から蹴られでもしているかのように、強引に突き出そうとしてみる。最初の内は当てずっぽうでこんなふうにやっこでもいないとよいも悪いもわからない。

 

 息を吐くときに、「ハア」とか「ハイ」という息の音を消そうとしてみる。ほとんど空えずきに近い感覚で、喉から上に息が出ていないと思えるくらいに体の中だけのできこと化を試みる。背中や下っ腹に、そのまで感じたことのない負担がくるかどうかやってみる。

 

 本人が嫌気がさしてこないのなら、「ハッ」だけでよい。一回前の吐き方より今、今より次、今日よりも明日というふうに一種類の息でも真似目に続けていれば感覚の違いがわかっていく。

 しかし「ハイ」や「アオイ」、ときにはもっと長い言葉を織り混ぜることによって、無意識の内にストレスも溜まりにくいだろうし、いろいろと少し先に進んでみることによって改めてその手前がいかにクリアできていないかがわかることもあるので、単調にならないように工夫した方がよい。

 

 

 息読みをした後同じ言葉をすぐに実声でいってみると、縮小コピーでもしたかのように体への負担は小さくなってしまう。それでスコップですくい取るように無理矢理一致させようとすると「ハアイ」とか「アイ」みたいになって、しまいには、半分息の音の混じったゼエゼエした声になっていったりする。これを間違って続けては危ない。胸の中や背骨のあたりが痛くなったりもする。あくまでも声にするときは鋭くハッキリといった方がよい。

 

 準備運動として走ってみる。できる限り、ゆっくりと、息が乱れないように、しかし息が普段よりも深くなるように少々時間をかけて走ってみる。ここで気をつけるのは、陸上競技の選手になったわけではないのだから、疲れるほど々はやらないということ。走る練習をしているのではなく深い息を取り安くするためにあくまでも準備運動として走っているのを忘れない方がよい。そして体が温まったら、「ハッ」とか「ハイ」の声を出してみて、走らずにやっていたときとの違いを感じてみる。

 

 自分の練習場所をなるべく一定にして、その場所における調子のよしあしを計るバロメータ的要素を発見する。たとえば真夜中のグラウンド。いつも同じ場所で同じ方を向いてやっていた。ある日その場所(バックネットのすぐそば)から、ライト・センター間方向に道路をはさんで建っている学校の校舎に自分の声が反響しているのに気づいた。そしてそのときは自分の腰骨の方にまで声の響きが伝わっているのにも気づいた。

 

 こんなふうに同時進行で客観的判断をできる条件があるのとないのとでは、大きな差があると思うので、全神経を集中して見つけられるくらいコツコツとやるべきだ。最初は、スタジオを予約する手間や料金だけを考えてグラウンドを使うようになっていたので、一人に成り切るのが難しかったが、それもすぐに憧れて、フッ切って声を出せるようになっていた。そうなればもうこっちのもので、後は野犬や変質者にさえ気をつけていれば、ランニングだってできるし、そのホカホカの体で声を出せる。それくらい一時期グラウンドは素晴らしい場所だった。自分のそれこそホームグラウンドを持つのは、いろんな意味で大事だ。

 

 

 

 毎日規則正しくトレーニングをしていると、始めてから何分くらいで一番よく声が出るかがだいたいわかってくるはずだ。(間違って時計を気にしながらやるのはよくない。何となく温まってきたなと思って時計を見てみたら、だいたいいつも同じくらいだなと思うくらいがよい。)そこからが本当のトレーニングと考えて調子が下り坂に成りかけてきたら、たとえそこから5分程度しかたっていなかったとしても、よい体内感覚を保ったままスパッとやめてみるのも必要。

 

 本に書いてあるトレーニングの時間は、あくまでも自分以外の誰かの意であるので、逆にワザと少し長目にやってみることも大切だ。記録をとってでも、何分くらいやってしまうと次の日まで影響が残ってしまうかとか、できれば朝、昼、夜のいつの時間帯にやると調子はどうで疲労の残り具合はどうかとか、それが目覚めてから何時間後の時がどういうふうで、睡眠時間はどれくらいだったか、食後何時間後だったかなど々、統計の取り方を知っているわけではないので、結局はっきりした答えは出ないかもしれないが、それくらいやらないと気が済まない時期があってもよいと思う。

 

なので、最初は少しオーバー気味にやってそして自分の適量に減らしていってこそ、本当に自分の人レーニング時間がわかる。そうしておいて何年かして少しずつ今度は声を出していられる時間が増えてくれば延ばしていけばよい。

 

 

 声を出し始めて何分後かに少し喉が痛くなってきたら、そこでもう一回気力を取り戻して、そういう状態のときに体をどういうふうに工夫すれば、次の一声から喉への負担を減らせるか考えながら、より体の中に息のショックがくるように、より喉を開くようにもがくみたいに後少しがんばってから休む日も設けてみてもよい。

 

 ステージでは120パーセントのパワーを出すのだとしたら、どんな名人でも少しは喉にきてしまうで、では一体どのようにすればそれ以上悪化せず、聴き手に悟らせずに歌い続けられるかのシミュレーションになると思うから、ときにはそういうこともやってみるとよい。

 

 

 ひと仕切りトレーニングを終えたら、疲れたからといってすぐに何か飲んだりせず、できればしばらく静かにしていた方がよい。そうすると、疲れは疲れでも具体的に体のどこに疲れがきているか感じられる。

 喉が痛いばっかりならば全然駄目だったということだし、助骨の間が熱くなっているのも危険信号だ。腰や横っ腹にじゅ〜っと疲れがきているくらいが調度よい。腰に重りを巻いてでもいるかのようであれば、そのあたりの筋肉を使ったということがわかるので、絶対に確認した方がよい。

 それを続けていたら、他人の歌を聞くときにも役に立ってくるようになる。そのあたりの筋肉に耳の神経の奥を下ろして人の声を聞いていると、深い声のときはそこに反応するのがわかる。そこを突いてくる声は、非常に心を動かす声だと思えてくる。

 

 

 一回の練習時間における適量の見極めも大切だが、次にそれを本当に毎日続けているかどうかも本当に大事だ。たとえば2~3ヶ月やり続けているのに全く変化が見られないとする。それでそれまでの方法が見当違いであるかどうかを考えるときに、ちょくちょくサボッていたとしたら、方法は合っているのに連続性がなかったためだけに進歩がないのか、それとも本当に間違っていたのか正確にはいつまでたってもわからない。

 

 それにどんなジャンルのどんな教則本を読んでみても、必ず述べてあるのは、たとえ少しずつでも毎日続けるということで、その最低限の約束事を守らなければ、教え方がよいも悪いもないし、それを守ることによってのみ、本質的な共通言語を得ることは可能だ。

 

 であるから、風邪をひいたときにやるべきかどうかとかも最後は自分の判断というか積性ともいえるし、このくらいの状態なら大丈夫か駄目かも、最初の内は調べておいた方が後で役立つ。仕事や何やで体がクタクタのとき、知らない間に寝てしまっていて気がついたら夜中の3時だったり朝だったりしても、そこから体を目覚めさせて一回分やるくらいのことをしておかないと、自分にとっての無理とはどれくらいかがわかってこないし、レッスンを受けているなら、その相手に対しても嘘をついているようで失礼だ。

 

 

 

 あごの固定は本当に体のきつさを実感するのによい方法だ。息を吐いたときの力が、体の背筋から下に強い力で下がってそれが内側から下腹部を押し下げるような感じがあって、その下腹部は揺りカゴのように前へ少ししゃくり上げるように動くとでもいえばよいのか、とにかくそんな感じをとらえる。

 

 そこで気をつけた方がよいと思うのは、手を使って直接あごを固定するということは、少なからず肩が上がってしまうことになる。本来なら肩はダラッと下げていたいところなのだから、不自然といえば不自然である。それで、あごを固定して何回か息を吐いたり声を出したりしたら、今度は手を下ろしてやってみて、双方の体内感覚が同じになっていくようにガイドライン役として登場させた方がよい。

 

 口を大きく開けることも非常に慎重さを要する事柄だ。こめかみの少し下を触って、そこの関節が外れるように思い切って開けろとかいうことがあるが、実際には生まれつきスムーズに開かない人もいるし、結局力まかせに開けるのは間違い。あごの関節に段差感があるのに無理矢理に、しかも開けっ放しにしていると戻らなくなることもある。

 

ここで今度はあごの先だけはなく、えらに近い方を両手で固定すればその心配はなくなり、しかもそのまま息を吐くと、ものすごい深い感じが得られやすいから、ついつい多くやってしまいたくなる。しかしこれも両肩が上がりっ放しの不自然さがつきまとうので、大変危険である。

 

 それで口を大きく開けるためのアプローチとしては、特にスムーズにいかない人は、寝ボケているみたいにあごの力を抜く努力をして、たとえば、あしたのジョーの両手ブラリのノーガード戦法のときみたいにポカンと開ける練習をして、非常にゆっくりとやっていくのがよい。あごの関節をリラックスさせて、引力にまかせてダラッと開ける心掛けが大事と思うし、発声につながるまで待つ姿勢が必要だ。

 

 

 

 細かいことはあまり気にせずにやることは大切なことだが、それが何ヶ月、何年と続いていくといろいろと問題点が出てきて当然である。息を吐くことは普通誰でもできる。しかしそれが本当の深い息かというと初心者ならば0点に近い。深い息を得るために将来的に活発にさせたい筋肉や神経と、今までの生活で使っていた歌に使える息のときにはかえって邪魔なそれらとの比率は、下手をすると0:10かもしれない。

 

しかしそれを脳からの命令によるイメージの力などで、必死に1:9や2:8にやっとこさ持っていける世界と思うから、10:0になるまではトレーニングをする度に鍛えたくない箇所まで動いてしまっているということになる。

 だからやり過ぎはいけないということになるのだろうけれど、ときにはそのやり過ぎとか間違いが悪い意味での体の痛みとなって現れることがある。下手をすると私生活が不自由なくらい痛むことも有り、そうなってしまうと、本当にトレーニングができないようになる。こういう状態の真っ最中は本当に最悪だが、こんなときをよいきっかけと考えて、もう少し細かいことを気にするようにすればよい。

 

 それはもう思いつく限りのことに今度はこだわってみるとよい。姿勢はどうだったか、教則本のチェックポイントの内一体いくつクリアできていたかとか、胸のあたりを使い過ぎていなかったか、本当はもっと肩を動かさずに上半身をリラックスさせなければならないのではないか、下っ腹のまんなかに息の源はあったか、そして未熟者のくせに調子づいて長時間やり過ぎていなかったかなど々、猛反省をこれほどできるときはない。そしてそこから前より一歩深く注意して、本当のトレーニングに入る準備をじっくりやることができる。

 

 

 仰向けに寝転んでみることは、全ての基本になる重要な方法だと、改めて感じる。落ち着いてできる限り慎重に下腹に両手を当ててみたりもしながら呼吸をしてみる。安静にしていれば極わずかな息の量で済むので、そのままでかなり長目に続けて体の内部の動きを感じてみる。

 

どこか痛めているならそれだけでやめてもよいと思うが、それだけだと痛みは感じられないならば、感じ取った体の内部の動きの方向性を極力脱線させないように少しずつ拡張してみる。そして痛みのある部分に力が伝わってしまい出したら、初めに戻るというのを繰り返してみる。

 

 これだけでも集中力の持続時間を考えるとそう長くは続けていられないはずで、本当に一からやるならこういうことからじっくりやるべきだ。これなら楽でよいと思ってこればっかりずっとやっているのなら少し問題のような気もするが、失敗などを経て自然と導き出された方法としてであるなら、絶対にトレーニングになる。思いつきの発想も大切だが、自分で仙り着いたことこそ本当に大切だ。

 

 

 寝転んだ状態は最初のきっかけには大変便利であるが、背中が押さえつけられているので、呼吸の幅を広げていくと限界がきて、今度は逆にその背中などに不必要に力を入れて体を持ち上げようとしてしまったりする。そうなったら今度は立った姿勢か座った姿勢に今までの方向性を再現しなければならない。同じようにまず下腹に手を当てて、そこにゆっくりと吸気がきているか確認する。この下腹の前側は誰でも理解できる。

 

 しかし重要なのは腰の方で、鋭く「ハイ」とか「ハッ」といえたときに何となく響きを感じていたことを、今度は確かな実感に成長させなければならない。そこで前の下腹には片方の手の平を当てて、腰骨の方にはもう片方の手の甲を当て息を吸うんではなく吐いてみる。

 最初はゆっくりやっていって吸気のときに手の甲を当てている腰のあたりがふくらんでくるかじっくり確認する。これとて決して体のどの部分も力んではいけない。もし力んでしまうといずれ悪い方向に行ってしまいかねないので、こんな労力の少なそうなことでもやり過ぎに注意して、そして何度でも寝転んだ状態に立ち戻ったりを繰り返して、本当にじっくり、ゆっくりとやるべきだ。汗っても何にもならない。一見遠まわりに感じることこそ本当は一番の近道と思って毎日続けるべき。

 

 

 

 

 立った姿勢で体を曲げ伸ばししながらゆっくりと呼吸してみるのもよい方法。このとき下半身は安定していないといけないけれども、それは決して力を入れて踏ん張るのではなく、膝や足首をリラックスさせて、その柔軟さからくる定着感を足の裏に伝えることが大事だ。

 

そしてこのとき上半身は柳の枝のようにしなやかにして、体の動きに自然に呼吸が一致する感じを得られるくらいに集中して続けるとよい。腰のあたりに吸気の到達点がくるように力を入れるのではなく意識を集中して、そしてこれも自分の適量をさぐりながら気長にやるべき。

 

 再び前傾姿勢で息吐きや声を出すことをしてみる。始めは前腹を使わないことに窮屈さを感じたのが、もし脇腹や背中側の可動範囲が広がっているならば、なぜこういう姿勢がよいのか納得がいって、直ではトレーニングしたくなくなるくらい。ここでもう一度、腰や膝の曲げ具合をいろいろと調節してみて、腰が使い安くなった分だけ以前よりも肩や首の力の抜け方に厳しいチェックをしてみるとよい。

 

口の奥やエラの部わから首筋は、深い息にともなって喉を開けようとするとかえって力が入って、特に口がパクパクしたりよく動くのはそうなっている証拠なので、思いっ切り吐くのと静かに吐くをいろいろ強さをかえてやってみて、押したり引いたりしながらじっくりとやることが大事だ。

 

 

 姿勢の調節をしながら息を吐いたりしている内に、中でも一番ましな所が見つかったらば、どうしてもそこで固定して一気にそのままで最後までやり続けたくなって当然。一番しっくりとくる姿勢は日によって微妙に違ったりする。これはたとえば便の残り具合によっても左右されるようにも思うし、最初の内はよくわからないでやっているのだから仕方ない。それだけにそのとき一番気に入った角度は保ちたくなるのも無理はないけれども、このことが知らない内に本当の充実したリラックス感を奪う原因になっていて、腰痛を起こしたりそこまではいかなくとも足の関節が異常に固くなったりもする。

 

 こういうやり方はいかにも必死でやっていて自分は大変な努力をしていると思って、何かそれ自体がよいことのように錯覚してしまいがちだが、こういう時期も必要とは思うけれどもこういうやり方を続けていると、腰などの痛みが取れなくなってしまって、そうするとそれ以降のトレーニングに大変な不都合を生じることになる。

 

だからそうならないために、思い切って適度な休息を入れて、常に全身をほぐしながら続けた方が、結局はよい。リラックス・タイムを入れることによって、トレーニングの時間がそれまでの倍になるくらいにじっくり進めていれば、特に下半身の痛みは防げる可能性は高い。

 

 

 

 深くとれてきた声を少し延ばして保持するとき、延ばす時間の記録を気にし過ぎるのは恐い。息がなくなりかけてきたときに喉で調節するのがいけないのは当然だし、できるかどうかは別として誰でも気にはする。しかしその分の負担を今度は胸に持っていってしまうと、喉ほどにはならないまでも、おかしな癖の原因に成りかねないので、充分気をつけた方がよい。

 

 下腹から直接上がってくる息の保持のみを意味のあることと自覚して、骨の間までをしぼるほどに息がなくなったらすぐそこで呼気を止め、体を緩めて空気が入ってくるかを確認するのがよい。吸気の範囲を拡げることは重要だが、無理矢理にたくさん吸い込んでも体が硬くなるだけだし、その分呼気が長くなるわけでもなく、逆にかえって保持しずらい。

 

であるから呼気の保持というのも力を入れて引き延ばすのではなく、自然な呼吸の中で少しずつ長くできる方向へ持っていくのが安全だ。それにはもう一度というか、こういう壁を逆にチャンスと考えて、思い切って姿勢を再チェックしてみたらよい。

 

 

 背筋を伸ばすといっても漠然とし過ぎていて、実際どれくらいにすれば声を出すのにふさわしいのかなかなかわかりずらい。軍隊のキヨツケみたいなのが正しいという人もいるみたいだし、それは違うという意見もあるようで結局最終的に頼りになるのは自分の体の感覚しかない。

 

 だからといってこんな感じかなというふうに当てずっぽうで済ましていたら今までと同じなので、歌とか発声以前の問題として、自然な生きものとしてのヒトの姿勢とは本来どうなのかという所まで戻ってみるのがよい。身のまわりの生活閻慣からくるズレを、理解しやすい所から厳密にチェックして治していくくらいにやっていった方が安全だ。

 

 鏡をのぞいてみても、人間の体は絶対左右対称ではないし、自分以外の誰かの正しい姿勢の見本といわれる写真を見て比べても、違う体なのだから少ししか参考にならない。だから自分の体の中を心で見つめて、これだと実感できるまで試行錯誤を繰り返していかないと駄目だ。

 

 

 立っているだけでは楽な姿勢がわかりにくいので、歩いてみるのも割ときっかけになる。胸に糸がついていて、それを引っ張られているような積もりで一歩・一歩確かめながら歩いてみる。しかしそうしていると知らず知らずに肩がキュッと持ち上がっていたりして、決して楽にはなっていないことがわかるし、足自体が左右の長さが微妙に違うんではないかというのまで気になってくる。

 

 こうして歩いて今までの自分の生活の癖からきている完全に体に染みついてしまった歪みを自覚することで、厳しくいえば自然な声なんてまだまだ先の先だと絶望してしまうかもしれないが、逆に考えれば二年くらいやってもしっくりとこなかった原因を解決していけるのだし、時間はかかってもここをちゃんとすれば発展する可能性があるのだからよいことだと思ってやっていけるはずである。

 

 

 普通に歩くことすらも本当の意味では自然でないとわかって、ではどうすればよいかと考えて、突然変な道具が出てきたと思われるかもしれないがカカトのないムシューズを使ってみるとよい。

 

ビールレス・シューズとかヒーレス・シューズといって3社から似たようなのが出ていて、1万2~3千円もするけれども役に立っているので仕方がない。これはツマ先立ちにしていることによって背筋にも好影響を与えで段々と伸びてくるらしいけれども、これを使って一日2~30分の歩行をしてから、普通のシューズに履き替えたときにより効果があらわれる。

 

 歩くときにカカトから着地して、ツマ先へ順番に体重動してから離陸するのをローリングというらしいけれども、それがすごく簡単にできるようになる。これを続けていれば足首や膝の柔軟な使い方も何となくわかってくるし、自分の体重の落とし所みたいなものが前に比べて信じられないくらいに呑み込めてくる。より自然な立ち方を思い出すのに、大いなる手助けになってくれるのでやってみる価値はある。

 

 

 首のリラックスも非常に重要なのに理解し難い。悪い姿勢とはだいたい猫背のことと思うけれども、背骨が前の方に曲がり過ぎているということは、そのまま真正面や少し上を向こうとすると、首のつけ根は逆に後ろに反った状態ということになる。長い間そうして生活してきたのだから視線の角度までがそれに順応したものになってしまっているから、うなじを延ばすように首を立つとすると、本人の感覚だとややうつ向いている積もりくらいでそうなっていると思える。

 

 それで、上体を前に倒したり戻したりをしてみたらよいと思うけれども、今は呼吸にあまり気を取られないで、首の力を抜いて完全に前側にガクッと落としてみて、そうして最小限の力で元に戻していくというのを繰り返してみる。この場合首だけの動きでもよいと思うし、その方がわかりやすいかもしれない。そうしている内に、真上向きと反り気味の境目が感じられてくると思うけれども、それで得た感覚を自然と自分のものにできるまで一日に少しずつ習慣づけてやるのがよい。

 

 

 ローリングがちゃんとできている上での歩きで足首や膝の柔らかな使い方を少しずつでも理解していって、そして首の方も真上に立っている感じを手探りしておいて、今度はそのことがちゃんと関連しているかわからなければいけない。クラシック系の発声教本にも興味を持っていろいろ目を通してみたけれど、どれも何か書いてあるのかよくわからなかった。

 

 しかしたまに役に立つかもしれないようなものが書いてあって、それでちょっとやってみたりもしたが、それを自分なりに解釈してみると、自分の体がマリオネットになったとでも思うとやりやすい。それで、首の骨と背骨の中間くらいから糸で吊るされていて、中腰になるくらいまで糸を緩められて、そこから直立になるまで引き上げられるように体を上下してみる。そしてそれが立ち切ったら最後に頭のてっぺんについた糸を引っ張られて首が立つという感じだろうか。なるだけ全身の力を抜いて、必要最低限の力だけでできれば理想的なのだろう。

 

で直したときのゴール点の見極めとして、歩いたり、首を動かしたりして調べた足の裏への体重の伝わり感やなんかが立つ。何しろ手探りなもので結論など出せるはずもないけれども、ちょっとでも不自然に力が入っているようならば、胸の張りや肩の引きは意識しないでもよいのではないかとも思う。

 

 

 ヒールレスのシューズを使ってみてローリングして歩けるようになったら、歩くスピードを少し上げてみると首や肩の力の入り過ぎがわかりやすい。

競歩みたいに歩くんではなくて、もっと軽やかにやってみる。足の動きがちゃんとローリング状態で柔らかいと、それと関連してかどうか胸を自然に張った方が走りやすいことに気づく瞬間がある。

 

元々悪い姿勢を続けてきた以上、すぐに見失ってしまったりの繰り返しだけれど、調子がよいときはたとえば30分走るなら29分まではこれ以上遅くすると歩きだというくらいゆっくり走って要らない力の抜け具合を確認しておいて、最後の最後にそれを保てる所までスピードを上げてみる。

 

そうしても上半身が前のめりに成らず、ちゃんと上に立っている、下半身の上に体が乗っかっている、首も背骨の上に乗っているだけという感じならばよい。マラソンのランナーみたいに足を高く上げないで、背筋がスーッと伸びている感じがわかれば、息の流れも邪魔されないのではないか。

 

 

 息をより強く吐くようになるのは、時間をかけてサボらずにやればある程度できてくる。本当はそこに負担を全部持っていく分、段々と喉への負担が減っていくと理想だけれど、長々と身についてしまった癖というのはなかなか消えてはくれない。特に普段の会話においてはそうだ。

 

 トレーニングをするときや歌のときは、未熟ながらも意識して腰にガバッとスペースを作って喉を開こうとするからかえって大声を出している割には増しで、反対にそうではない唯の会話では、吐く息の強さだけが知らない内に強くなっているから大変である。もし普段から発声練習のときみたいに話そうとしても、ピアニッシモほど難しいことはないから、それができていないと場違いなでかい声で話すことになる。

 

 それに自分よりいろいろな面で立場が上の人間に対して可愛がられようとする声は最も喉に悪い。であるから無意識の中で自然と体に響く声をちゃんと身につけなければいけない。ということは自分の声のまんなかから低い方の声を安全に使えるまで安定させた方がよいといえる。

 

単純に考えれば少し低目の声がいつでも安定していれば、話すときにも使えると思うし、そうならないと高い音なんか練習もできない。結局こういうことは全て息を深くした上で、首や肩の不要な力を抜くことだし、背筋の伸びが招く結果と思うから、それらを連動できる動きを試す必要がある。

 

 

 低音の幅を拡げようとして、まんなかあたりの声と同じように出せる範囲内での最低音と、その半音下が同じくらいになるまで繰り返そうとするとき、あごを固定して得た体の使い方の感覚で力で押し下げようとするのは、胸や首の脱力が同ときに得られにくいと思うので、あまりやらない方がよい。それよりも、ここでもまんなかあたりの一番出しやすい音を使ってその質を高めるのがよいのではないだろうか。

 

 もちろん低い方の音に向かうほどに腰の筋肉で引っ張っていくのかもしれないが、それにつられて入ってしまう他の力をとらなければならない。軽く腰を落としてものを拾うようにしながら声を出すと低音の感覚が得られやすいとどこかで読んだことがあるが、確かにわかりやすいかもしれない。

 

スクワット運動みたいにしゃがんでしまうと立ち上がること自体の運動になってしまうと思うので、そうならない程度腰を落とすくらいでよいのではないか。姿勢の確認のときのマリオネットみたいな動きで、腰を落としたときに息を吸って、立ちながら息を出したり、ため息みたいな声を出してみると一石二鳥ではないか。

 

吸い込むときに下っ腹に手を当てたいけれども、そうすると肩が上がっていて恐い。それにこういうときに出す声は楽器でとったりせず、勝手に体が設定して出す音にした方が、変に構えずに済むのではないか。

 

 

 加藤登紀子さんの本の中で、黒人ヴォーカリストは足の親指から声が出ていると、トランペッターの日野晧正氏がいっていたと書いてあった。姿勢をちゃんと取れているらしいときの、上半身の重みがストレートに足の裏まで伝わっている感覚と無関係とは思えない言葉。正しい姿勢で軽く声を出せたならば本当はそれだけでものすごくよい声になるのではないかと心底思う。

 

 それはともかく、腰を落としてそれを元に戻しながら声を出すときでも、足の裏の体重の落とし所に向って息を流してみると、何かスムーズでありながら力強い感じがある。もちろん肺より下に息なんか流れないけれども、なるべく体の下の方を巡ってきた息が外へ出ていくような体内感覚をつかんでいるときの方が、低い声も出しやすい。ここでも下半身がどっしりしているのと、膝や足首に力が入っているのとは全然違うことだというのがわかるし、不要な力と必要最低限の力の感じ分けが重要だというのがわかる。

 

 

 余分な力の入れ過ぎによって体の中が痛くなって、初めて間違いに気づくのとは逆に、全く別の痛みによって体のある部分がいつも通りに動かなくなって、初めて体のいろいろな部分が多かれ少なかれ声を出すのに協力していることに気づくということもある。

無理な運動をしてしまって筋肉痛になったときに、特に足がそうなったときは声を出すのに不自由だし、こういうことでも下半身が自由に柔らかく支えてくれている方がよいというのがわかる。

 

 ただし力の入れ過ぎによっても筋肉痛のときは痛みを増すと思うので、正しい使い方かどうかを単純に判断はできないのも事実である。、足よりも下腹に近い部分の臀部に起こる痛み、これははっきりいって痔のことだけれどもこれが起きたときに無意識にこういう所も動いているのだと自覚することができる。

 

音域のまんなかあたりだと何とかなっても、下や上へ動かしていくと体の下の方で支えようと勝手に体ががんばるから、痛みがあるとある音から急に気の抜けた声になったり、もう出せなくなったりもする。こういうのは早く完治させなければいけないけれども、思わぬことで声と体の部位の関係を実感できて勉強になるとも思える。

 

 

 余分な力を使わずに深い呼吸をするのは本当に難しい。丹田の所に手を当ててゆっくりとやってみても、そこに力を入れるのとは違うから間違わないようにしないといけない。力を入れる代わりにそこを意識するのが本当なのだ。中腰にしたり立ったりを繰り返してため息みたいな声を出してみるときでも、前傾姿勢のまま息読みなどをするときでも、吐いた後に勝手に吸っているときに、腰のあたりに力を入れて無理に開くより、そこを意識するだけにした方がよいのではないか。

 

心が頭や胸ではなく、下腹や腰にあるような気持ちで同じことをやると、喉や肩に入りがちな不要な力が抜けやすいような気がする。力むのと意識を持っていくことの違いがわかるまで、単純な動作の繰り返しをかなり続けるのが有効だ。

 

 

 最近スポーツのトレーニングにおいて、PNFという言葉を耳にする。来シーズンから千葉ロッテに復帰する立花龍司レーニング・コーチが、近鉄バファローズ時代に野茂投手達にやっているのをニュースでよく見たけど、あれは元来体の動きに障害が起きた人々のリハビリテーションから発展したものらしい。発声のトレーニングももしかしたら本来の声の出し方を忘れてしまった人のリハビリなのかもしれない。いろいろな努力によって何か特殊な能力を後から身につけるのではなく、その全く逆と考えた方が正解だ。

 

 PNFでは極めて軽い負荷をかけて、何度も繰り返し繰り返し実践するというけれど、声に関することもこれと同じで、ボディービルのように筋肉を太らせるのとは違って、働くことを忘れている細かな筋肉や神経達を目覚めさせてやることと思うので、ときには汗だくにならないようなやり方も必要。スポーツ選手もPNFだけをやっているのではないので、発声でも個人レッスンのときのように体がきついこともやり、それとは別にそういうことが更に理解しやすいように、PNFのようなトレーニングをした実感の起きないくらいの軽い目のこともやるべきだ。

 

 

 オーバー・ワークという言葉があるが、声に関すること、特に初心者には大切なことだと思うのは前にも書いたけれども、問題は実際に声を出している以外の時間の使い方だ。たとえば一日に30分声を使うとして、それだけやったら後は関係なしというのも精神面での健康のためにはときにはよいけれども、基本的にはそうならないようにした方がよい。

 

 何日も感覚が変わっていかないとか、できないことについていつまでも悩むというのではなくて、何をするにも心のどこかに自分が声に対して取り組んでいるというのを引っ掛けておけば、そうしないよりも有利。自分の生活している部屋に置いてあるいろいろなもの一つ一つについて見ていって、声やその使用目的、たとえば歌や音楽に結びつくものの割合がどんなものか、もしそれに集中できているならば、関係のないものはかなり少ないはずである。そのくらいが普通であるくらいでないと、不自然極まりない声を返上するのは難しいように思う。

 

 

 声と、プッシュアップやシットアップで鍛える筋とは関係ないと思うし、そういう外側の筋肉のつけ過ぎはかえって邪魔だという説もあるから筋力トレはしなくてよい。しかし、基礎体力が余りにも低いと、足腰にはダメージがきやすいだろうし、前傾姿勢や直立とそれとの繰り返しによって息の流れを獲得していくのなら、ちょっとした運動も大事だ。ゴムのチューブを使って、しかもほとんど負荷を感じないくらいの細いもので、腰のまわりの筋肉をほんの少しだけ動かしたり、肩のこりが声にどれほど影響があるのか知らないが僧帽筋も少し運動させてやるとそれも消えてくる。

 

 負担の少ないゴムチューブで運動をするときに大切なのは、自分は今どこの部分に対して負荷をかけようとしているのかをしっかりと意識しなければならないことで、これは声を出すときの体内感覚をつかむことにもつながっていく。直接声のことでトレーニングができなくなるのも嫌だが、それらの周辺の動きからの疲労でトレーニングが不自由になるのは、声が出せるだけに歯がゆいと思うので、一般的な人としての基礎体力の維持は重要だ。初期の初期の段階で少し無理をしてでも自分のオーバー・ペースがどれくらいなのかを知って、それ以内に押さえるようにした方がよいとは思うけれど、一般的レベルより健康面体力が劣っているならば何の参考にもならないので、基本的な体のケアをも同時に行っておくべきだ。

 

 

 食事のときについてもモノをよく噛むことが大切だ。アゴの関節の開閉ときに段差感があるのも、きっと子供の頃からよく噛む癖をつけていなかったり、片方の歯しか使っていなかったりも原因だ。アゴや、それ以外の体の歪みを、手術とか整体術で治す方法もあるのだろうけれど、結局は長い間に染みついた動きの癖を矯正していかないと、勝手に元に戻ってしまうだけだ。だからきちっとローリングして歩いたり走ったり、PNFのように軽い負荷の筋運動で筋力の衰えを防いでおいたり、そして食事のときさえも両方のアゴでよく噛む習慣をつけておけば、長い目で見たときに絶対に差が出てくる。

 

 本当に声を出してトレーニングしている以外の時間の使い方こそ大事だと改めて思えるし、こういう所に壁にぶつかったときの破るヒントが隠されている。

 声のトレーニングできたことにして、どんどん先へ進みたいのが本音だし。そういうふうにある程度先走ってみないとこういうことの大切さは実感できないともいえる。だから発声なんてとんでもなかったと思うくらいに自分の欠点に気づいてもがっかりしないで、かえってできなかったのは当然で、時間はかかってもこういうことから治して行けば大丈夫だと思い直して新しい気持ちで取り組めるチャンスでもあると思うから、そうすればきっと少し本当の進歩に近づく。

 

 

 

 体のケアは発声のトレーニングと同時進行にやっておいて、その比重を自分の体と相談して決めていけばよいけれども、どんな動きをするにしても精神的に落ち着いていなければ中々やったという実感がわいてこない。ランニングで体を温めるのと落ち着いた気分になるのは一見矛盾しているようでもあるが、実はそうではない。

 

 スポーツ選手でも一流のプレーのできる人達は、激しい動きはしていても頭の中はクールさを保っているのだ。声を出すときも落ち着いていないと、文字通り芯が上にあがってしまう。舞台で演じるときは特にそうだろうけれども、普段のトレーニングのときにも時間に余裕を持ちずらいときには早くせかせかした気持ちを沈められれば効率も上がる。

 

 

 ドイツの医師が考えた自律訓練法というのを取り入れてみればどうか。これもPNFと同じでほとんどリハビリみたいなものだけれども、心臓や気管に病気のない人なら誰でも簡単にできるらしい。これはいちいちトレーニングの前に一回一回やるのではなく、寝る前や寝起きに5分~10分毎日続けていれば知らない内にリラックスを得やすいようになるというタイプのものである。

 

 スポーツの世界でメンタル面のトレーニングをかなり取り入れているけれども、それらの最初の段階が結局こういうことであるらしい。ゆったりと引力に身を任せることで自分の内面的感覚をとらえ安く成りそうだし、軽度の腰痛や肩のコリにも効くという。余計な力も大事なときにも抜けやすくなるかもしれないので、特に副作用もないということで、続けてみてもよいと思っている。

 

 

 「巨人の星」という漫画に大リーグボール養成ギブスというのが出てきて一般的にも有名だけれども、これの原理を頭に描いてトレーニングをするとよい。「ハイ」も「アオイ」でも「トオイ」でも、とことんまんなかよりあまり高い音には行かないようにしておいて、低い音へ向かう方向だけをやる。高い方に先走ってしまうと本当に体が楽をしようとして、何にも変わっていかない。だから養成ギブスをつけてでもいるつもりで、なるべく長い間、高目の音をやらない。

 

 自分一人のトレーニングのときは、最後の確認もやらない。これをできれば何ヶ月単くらいで我慢しておいて、たとえばちょっと高目の音も使わないといけない歌をやるようなときに、何も考えずにやってみる。これがギブスを外す行為である。

 押さえつける癖はよくないけれども、低い音とちょっとまんなかより上目のトレーニングの比を9:1くらいで長い期間をかけてやっておけば、楽に声を出す感じをつかむきっかけになる。もちろん息が変に混じってゼエゼエいう声や、助骨の間に負担がこない範囲をゆっくりとやるべきだ。

 

 

 低音をとことんやって楽に声を出せるようになるにしても、押さえつける癖がついてしまうとかえって体が固くなることもあるから、体をほぐす方向のトレーニングも必要だと書いたけれど、ときには広い場所で自分の低目の声の通り具合を確かめたくなるので、そんなときに今まで一番よかったのは草野球で外野を守ることである。人数合わせで野球に誘われたら、タマには参加してみて、上手かろうが下手だろうが外野を守らせてもらう。そこからバッターに向かって頭の方に声を抜かないようにして、普段のしゃべり声の高さを守ってしっかりといろいろなことを叫んでみる。

 

いろいろな催しの客席からでも叫べるけれど、まわりがうるさ過ぎてやりにくい。しかしあの草野球の何ともいえない静けさは、ちょうどよい。何しろ適度に体を動かせるし、大声出しても恥ずかしくもないから、胸のポジションをキープした声で、なるべく内容のある言葉を叫び倒してみたい。これで声の通りや、喉の外し具合をチェックできるし、もし他人に伝わってなかったり、すぐに喉が痛くなるようなら高音なんかまだまだだし、これまでのトレーニングをもっともっと続けなければならないということになる。

 

 

 満員電車から降りるときでも胸についた声を試すことができる。別にワザとそういう状況にすることもないとは思うけれど、満員の電車でかなり中の方に押し込まれてしまったときに、降りる駅に着いたら「スイマセン」のひと言でどれだけ前の人が開けてくれるか真剣にやってみるととてもおもしろい。頭の方に抜いた高目の声でいうと、急いでるくせにそんな奥の方に乗りやがってという感じに取られるのか、うっとうしがられてあんまり親身になってくれないように感じる。しかし、きちっと胸についた声で落ち着いて低目にいうと、もしその声がちゃんと通る声だったときには周囲の人達の反応が早いように思う。

 

 これは特に意識的にやっていたのではなくて、あるとき、割と楽に声が出るようになってきたときに気づいたことである。ひと言何かいった後に、今のはいちいち体に力を入れて押し下げたわけでもないのに下の方から縦によく響いて、喉もス~ッと通り抜けてきたなと思えた声は、他の人々もすごく聞こえやすいというのが本当によくわかる。電車から降りなければならないから自然に出た言葉が、トレーニングの積み重ねに裏づけられたときに真実の言葉に勝手になっていたのだ。歌はこういう声で歌わないといけないのだとよく実感できる瞬間だ。

 

 

 息吐きや「ハイッ」「ララ」などの地味な作業でとことん突き詰めていくのはよい方法と思うけれど、それがその言葉の中だけで要領がよくなっていっているだけだとしたら、変な癖がついてしまっているのだし、何のためのトレーニングかわからないので、たまにいろいろな曲を歌ってみるのもよい。好きな曲をトレーニングに使うと、トレーニングをしていなかった頃に比べていろいろとチェックすることができるという点ではよい。

 

 以前より歌いやすいところとそうでない所が逆になっていたりとか、歌いやすいところが増えているとか、以前とちっとも変わってないなど勉強になる。それと自分の好きな曲には愛着のようなものがあるから大切に歌おうとする点もよい。

 

ただし、あまりにも愛着があり過ぎて、参考作品のもの真似をしてしまうようならそれに気づいた時点でトレーニングからは外した方がよい。体の底の方の動きや感覚のレベルでよい影響を受けているだけならよいのだろうけれど、音や口のまわりの細胞に憧れが残ったままになっているもの真似ならば、きっと豊になるのでやめて他の曲にするべきだ。

 

 

 今まで知らなかった曲、知ってはいたけど気に止めていなかったような曲を歌ってみると、トレーニングで反復していることが確認しやすい。細かい音程はコードからはみ出す以外はアバウトにして、気持ちよく好きに歌ってみると、変な憧れが邪魔をしない分だけ体の使い具合を感じやすい。

 

自分の出しやすい高さでやってみると、サビでは声を張れるけど最初が声にならないとか、短いフレーズだったら体で支えたままいい切れるとか、伸ばしやすいかどうかなどいろいろ発見するし、同じ音でもメロディーのドラマチックさを利用して出せていたりとか、歌でないとわからないことがいっぱいあるので、それをやった上で再び地味なトレーニングに戻るのがよい。

そうして繰り返す中で、よい方向に向かっているならば、もしかしたらその曲を好きになるかもしれないので、そういうのが本当のレパートリーの一歩だともいえる。

 

 

 好きな曲でもそうでない曲でも、今度はアバウトにばかりしていないで、テープが傷んだり、CDの機械が変になるくらい細かく聞くのも大切だ。ただ単に歌詞を見ながら繰り返し聞くよりも、聞きながら言葉を書き取れるまでやってみる。

 

英語の歌詞を片仮名に直して書いていくと、音の複雑さに改めて驚かされる。これは教科書を読まされているように“I”を“アイ”、“have"を"ハブ”などとするのではなく、日本の言語感覚にはない中途半端な母音とか、歯や舌を激しく使った子音や言葉と直接関係のない雑音までできる限り細かく片仮名に直していってみる。これはハッキリいって絶対に無理なのだけれども、それでもやっていくと英語では一行で済むのが二行にも三行にも音が重なっているのがわかってくる。そこでひとまず子音の複雑さは置いておいて、その下に流れる通奏低音のような深い音の重なり、いうなれば片仮名に直しにくい部分ほどに真似ようとしてみる。

 

こうして本当の深い声と今の自分の声を比べてみて、そのギャップを知るのは本当によい。たとえ片仮名に直して一曲覚えられたとしても、自分の歌が薄っぺらいのがよくわかってくる。

 

 

 好きな曲であっても、異性の有名曲を取り上げてみると悪いもの真似になるのを防ぎやすい。こうすると、大たいの場合男性と女性はキーが全然違うので、自分のやりやすい高さに合わせるのがあたりまえで、1~2音下げてミニ誰それになってしまったような変な劣等感を持たずに完全に割り切って別の曲の積もりで歌いやすい。同性の有名曲でも自分だけのスタイルでできればよいけれど、始めの内は異性の曲を自分なりにやってみたらどうなるかと想像しながら歌ってみるとおもしろい。

先輩OBからのアドバイス 音信 12750字

 

先輩OBからのメッセージ

 

対象は、5年以上在籍して、プロレベルの実力を習得し、ここのトレーナー,多くの受講生仲間を知った先輩へのアンケート,音信です。

学び方の参考にしていただければと存じます。

 

 

<お願い 

最近、研究所で学ぶ意義やヴォイストレーニングについて、混乱している人、続かない人も出てました。そこで先輩諸氏が、ここで得たもの、学び方のヒントや活用法を教えていただきたいのです。

ここの体制、方法や指導の問題点、限界、マイナス点についても,思うままに述べていただいて構いません。研究所のPRのためでなく、あくまで、ここを利用した体験として、新しい人の学び方のヒントにしたい主旨です。

私自身、自分よりも、歌、音楽の才能のある皆さんと共に過ごせた至福の日々を至らぬ点を多々、反省しつつも、なつかしく思っています。 忌憚なくアドバイスください。

                           福島  (トレーナー,スタッフ一同)>

 

 

先輩OBからのメッセージ

 

 

1.研究所での日々、学べたこと

基本的な声を持つということがいかに大切なことであるかがわかった。とにかく、日本人が魅力的な、話し声を持っていないので、歌えるわけがない。

とにかく、息呼吸が、基本であり、それを得ることができたと思っている。外国に来てみると、やっと同じスタート地点に立てただけなのですが。アメリカにも下手な人はたくさんいます。でもうまくなりたければ、最低マスターしておかなければならないこと。

 

2.私にとってのここのトレーニン

今の自分のベースになっていること、正確なブレスをマスターしたうえで、今のトレーニングが理解できている。今の学校では、日本人もたくさんいるが、きちんとした声で話す人、歌う人は一人もいないと断言できる。自分は、言葉の問題を除けば外国人と同じ土俵で、レッスンしていると実感している。これは、何年もかけてブレスを練習し、獲得してきたからだと思い、自分のしてきたことに間違いはなかったかなと思う。

 

3.思い出、心に残ること

ただがむしゃらにやってたような気がする。好きでやってたことなのであまり苦ではなかったが、毎回、考えることが多かった。ノートとか今みてみると真面目でけっこう笑える。

あそこまで声にこだわったのは、自分の歌いたい歌を唄っているシンガーと自分の声。差をわかっていたからだと思う。客観的に自分を見ている冷静な自分と、自分ならできるという、うぬぼれともいえる。自信があった。今も、自信はないようなあるような。

 

今、ここで苦労しているのは、理論やイヤートレーニング。できれば、初見がきいたり、音を楽譜におこせると、仕事がとりやすくなるでしょう。音楽で、生きていこうとするなら早いうちに獲得しておいたほうがいいかもしれません。音楽は、インプットされた以上のアウトプットはありません。とにかく、たくさん聞くことをおすすめします。(しかもうまい人)

福島先生とは、そんなに言葉をかわすことも多くありませんでしたが、今でも学んだことは体の中で生きています。

 

どこの学校であろうと、それを活かすのは、生徒自身です。講師はあくまで素材です。人のいうことに素直に耳を傾け、自分で考えて消化し、自分のものにしていって下さい。あまりに自分の考えにこだわりすぎると、人の意見を聞かなくなります。あまりに受身だと自分で考えなくなります。自分自身をしっかりもちながら、心をオープンにして下さい。

 

 

 

 

1.研究所での日々、学べたこと

とにかく熱中していました。レッスンは片っぱしから出てみて内容をつかんでゆきたいと思っていました。その間、作品も150本は観ました。

この場所を最大限利用しよう(したい)と思って過ごしていました。レッスンに出た分、ステージ実習に出た分、一流・他の人から学べ、自分をチェックできました。感覚耳と声が大変身についたと思う。

 

2.私にとってのここのトレーニン

母校、スタートした所。原点に戻れる場所。学べる場所。他にはない貴重な場所。変わった所。自分恥ずかしい部分をさらけ出した場所。気の引きしまる場所。自分が選んだ場所。一生忘れられない場所。

 

3.思い出、心に残ること

BV座に出させて頂き、十曲歌ったこと(自分の中では熱唱!)と、その後の打ち上げが楽しかったこと。Xmasライブオーディションでの屈辱と挽回。

軽井沢合宿での練習と発表。毎月のステージ実習で、緊張しながら歌ったこと。レッスンで、一流のフレーズを聞いて感動したこと。フリーズまわしで、集中したこと。他多数。

私の心の中では、ここは永遠に不滅です。在籍中はいろいろお世話になりありがとうございました。

又、いろいろ利用(活用)させて頂き感謝しております。

 

最近、混乱したり続かない人が出てきたとのことですが、一つには、レッスンの内容が高度でついていけない、わからない、おもしろくない…と思う人が増えてきたためではないでしょうか。

わからない、やれないと思ってもついていけばよいのですが、すぐあきらめる人が増えているのだと思います。レッスンの内容を易しくするクラスなどはいかがでしょうか。

 

安定した運営、安心して学べる場所+魅力ある先生がいるというのは、大事なポイントだと思います。以上、いろいろと書きましたが、これからもここを応援したいがためですので、どうぞお許し下さいませ。

 

 

 

 

1.研究所での日々、学べたこと

行き始めたキッカケが「何か歌っても歌っても、決定的に足りないものが、私にはあるのではないか」という抽象的なものだったので、最初の2年はただやみくもにガムシャラに通ってた。ステージ実習とかライブ実習とか合宿とか、次から次へと追いつかなかったし、こなせなかったから余裕がなかった。

ここは何かを教えてくれる、というより、自分自身に何か問題がある、と気付いた時に、全てをゼロにもどして、見つめ直す場だった。何も教えてくれないからこそ、求め続ける歩き方そのものを身につける場だった。

 

2.私にとってのここのトレーニン

私にとっては、息吐くことそのものより、精神的に、こんな地味なことをやり続けることができるかと問われている感じが大きかった。モノトークや合宿で「なぜ私は歌うのか」ということを見つめて、実は私の中には歌にこだわる必然的動機などないのでは、という逆のことに気付いてしまった。2年、3年かけて、私は「いわゆる歌うために生まれてきた」人種ではないことを認めなければならなかった。

 

3.思い出、心に残ること

前の古いスタジオ、合宿で走った時、稲穂が黄金だったこと

 

私はずっと歌うことイコール生きることが完全一つになっているような人に憧れていた。プロになって、そのすごさを知れば知る程、私の歌がゴミみたいに思えた。「なんとなく歌っちゃう」私の歌のウソっぽさに吐き気がした。だから今、時間をかけて今までのゴミみたいな歌を、私の体から追い出そうとしている。ちゃんと忘れるのを待っている。私の歌の致命傷は、結局、体の芯から歌わずにはいられない「何か」が、私の中には、貯まっていないこと、歌わなくたって生きていける自分の「人生のゆるさ」だった。だから今、色んなことを真っ直ぐに見つめて、全身の細胞で受けとめて、毎日やるべきことを、勢一杯やっていくしかないと思っている。明日か来年か、10年後か、歌えるようになる日が、すごく待ち遠しくワクワクする。それまでは役者でもして、自分とは違う他人の人生を生きる苦労をして、感性の自由さを鍛えていこうと思っている。

 

 

 

1.研究所での日々、学べたこと

世界の基準。それを知り、それに追いつくことしか考えていなかった。心と体と呼吸と、声と、音楽。それらが一体になった時、“自由”が手に入る。空を飛べる。そのよろこびに勝るものは、この世にはないと確信している。

 

2.私にとってのここのトレーニン

ここに出会って、ゼロからスタートした。そのため、自分にとって“自分の音楽”と呼べるのは、研究所にいる5年間で、自分が感じられた確かなものだけ。だがこのことは、正直悔しい。世界の基準と比べた時の、あまりに貧弱な自分のバックグラウンド(基盤)

 

3.思い出、心に残ること

いくつかの、自分のステージ。悔しくもあり、うれしくもあった仲間達の鮮烈なステージ。音楽が渦巻いていた孤独な日常。

 

 

 

 

1.研究所での日々、学べたこと

とにかく、本物のアーティストに出会うことができました。それまで、オリジナルをただ歌っていたのに、今では、ゴスペルを中心に歌うようになっています。研究所に入っていなければ、今の声もありませんでした。まだまだ途上の身ですが、これからもマイペースで頑張っていきます。

 

2.私にとってのここのトレーニン

今の私の声は、90%がここであるといっても過言ではありません。個人レッスン30分のテープを毎日聴きながら練習しています。これに出会っていなければ、結婚式でゴスペルを歌う依頼もなかったと思います。

 

3.思い出、心に残ること

「歌っている人は誰ですか?」マヘリア・ジャクソンのサイレントナイトを聞いていた時、福島先生に尋ねたことは、今でも忘れられません。フォークを歌っていた私が、なぜマヘリアを聞かなくてはいけないのか、わからなかった入門当時のエピソードです。今では、5本の指に入るフェイバリット・シンガーなのに…。

 

いずれにしろ、私自身の今の声は、福島先生とここから学んだものであることに間違いありません。私の歌や声に興味を持った人に、私の歌のテープを聞いてもらうことがあります。ここを始める前、始めて2年程、そしてそれから2年程...昨年、今年といったように...です。理屈ではなく、こういう声が、こうなった...という証拠を聴き比べてもらうためです。他に何をやった...というわけではないので、他のものを無責任にすすめられません。自分が体験してきたものしか、わからないので...。しかし、「いい声をしている」といわれると、福島先生の顔を思い浮かべます。この人のおかげですから!

 

 

 

 

1.研究所での日々、学べたこと

「歌で表現するために足りないと感じたことを自分で埋めていけばいい」と福島先生はよくおっしゃっていたと思う。私自身、研究所のなかで学ばせてもらったというよりは、研究所におけるレッスン、福島先生の発言や文章等で剌激を受けたことを日常生活の中に持ち帰り、自分自身で探究したり深めていって、自分自身のやり方で何かを学んでいったのだと思う。

実際、学ぶことや、学ぶための具体的な方法や道筋は、ひとりひとり違ったものだと思うし、ひとりひとり試行錯誤して自分にあったものを見つけていくものだと思う。

私は人間が成長するために絶対的に必要なものは、自ら問いをつくることだと思う。不思議なことに、問いをつくると、宇宙は満足できるような答えを与えてくれるような気がする。

私が当時持った疑問として今でも印象に残っているのは、「なぜゴスペルを歌う黒人はあれほどまでに神を信じているのか?」「神とは何か?」「宗教とは何か?」「人が感動したり、特定のグループに引き付けられるのはなぜか?」「人間の意識・身体の構造はどうなっているのか?」「そもそもこの世の仕組みはどうなっているのか?」「創造のプロセスとは?」…。これらの問いについては、自分自身、ある程度納得がいく結論に達することはできた。今後は、日々、自分自身が創造のプロセスを続けていくだけだと思っています。

 

2.私にとってのここのトレーニン

私にとってのここのトレーニングについてあらためて考えてみると、私が取り組んでいたポイン卜は主に次の二つでした。一つは、深い意識から声を発するためのトレーニング、もう一つは、イタリア語やスペイン語などの母音を主とする言語の歌のように「日本語の歌でもアクセントがそのままフレーズとなるような深い声の歌い方を探究することでした。後者については、私自身納得できるまでできたとはいえませんが、前者については、いろいろ探究した結果、意識が深くなって声が深くなっていくと不思議なことにそれまでの感覚を超えた部分が認識できるようになるし、もっと重要なテーマを追求したくなってくるのです。そうして、一つのことを繰り返すことによって深い意識の自分を探っていくに従って、人間の仕組みであるとか、この世の仕組みなど、もっと本質的な事柄を探究する方向に進んでいきました。

「本当の私」を探究するにつれて、入る頃の「歌い手になりたい」という動機そのものが、ただ単に「みんなの注目を浴びたい」という、今から考えれば子供じみた動機があったと思いますが、実は世の中そんなに甘くなくて、何かを与えることによって、人との関係、社会との関係が続いていくんだということに遅ればせながら気が付くことができました。だから、本当に歌い手になりたいのなら、お客さんに何か価値のあるものを提供して、お金という価値のあるものを受け取れるようにならない限りプロにはなれないのですが、今考えればそんな当たり前のことも、若い頃には理解できていなかったと思います。

 

3.思い出、心に残ること

「思い出」という言葉に触発されて出てくる印象深い記憶は2つ。一つは、数年前は福島先生が塾生を褒めることはほとんどなかったと思うのですが、特別ライブ実習での私のステージに対して、一度だけ認めていただけたことが印象に残っています。

もう一つは、合宿で行った、喜怒哀楽を表現したり、天と地の声を出すエチュード。現在は、「天と地をつなぐのが人である」という考え方に落ち着いているのですが、「天」と「地」というのをはじめて意識することになったのがこのエクササイズでした。また、合宿で演習を行ないましたが、このとき初めて「聖なる予言」という著書を知り、ちょうどその頃ゴスペルがきっかけで宗教について調べていた私は、その後、たくさんの精神世界関連の本を読みあさりました。そして、現在、こういった方面を教える仕事をすることに繫がっています。

私は、ある時期から正攻法のトレーニングではなくて、いろいろと別のやり方を試したりしていました。まず試みたことは、ヴォイストレーニングに精神世界のノウハウを取り入れるというものでした。これは、あるとき気が付いたのですが、深い声でシャウトするためには、自分に嘘をついていては絶対に無理で、自分に正直になって心の底から本心をさらけ出す必要があるということでした。もし、歌訶に自分の思いとは整合しない部分があると、その歌詞の言葉を深い声にすることができないと感じたのです。そこで、自分に正直になる、ということは精神世界においては特に重要とされることですが、日常生活の中で、本当に自分に正直に何でも発言し、行動していると、何もトレーニングをしなくても声が深くなっていくという体験をしました。どうやら人間というのは、本音で生きていると、本物の音(声)が生まれてくるような気がしました。

もう一つは、発声に関する世間の常識としては、声は身体の器官が共鳴していると説明されているのですが、どうしても納得ができない感覚がありました。声が身体の外で響いているような感覚があるのです。精神世界系の本を読むと、チャクラという目に見えない構造が人間の身体に7つあるということなのですが、私はこの7つのチャクラが、発声に重要だといわれている器官と位置が重なっていることが、どうしても気になりました。そこで、チャクラを意識し、その部分を響かせる練習などもしてみました。

最近、流行っているヒーリングというのは、基本的にはエネルギーの流れを滞らせているブロックを取り外し、本来の人間が持っているパワーを出させ、現実創造がスムーズに行われることが目的だと思っているのですが、こういった方法が発声トレーニングに活用できるのではないかとも思っています。

 

私ほどレッスンの数はそれほど出席していないにも関わらず、福島先生からたくさんの影響を受けている塾生はいないのではないかと、自分自身思っています。というのは、福島先生の歌に対する思い入れだけでなく、観察力の鋭い福島先生が何を考えているのか、とにかく何でも吸収したいと思い、ほとんど読みあさりました。研究所においては、「書くこと」も重要な位置を占めていましたが、「書くこと」の重要さだけではなく、「メモ術」「情報とは活かすもの」「表現」「アウトプット」「仕事とは?」「感性について」「クリエイティブとは?」「ライフワーク(一芸)」等に対する福島先生の考え方が、ビジネス書にも関わらず本質的な言葉としてちりばめられていて、この核の考え方が私の現在の活動のベースになっています。

 

 

 

 

1.研究所での日々、学べたこと

当時、何がなんだかわからないけれど、とにかく「体を使って歌を歌うのだ」と、ひたすら息を吐いていた自分を思い出します。あの頃は、ここのトレーニングの生き証人であるトレーナーもいて学ぶことはとても多かったと思います。

 

NYに来て改めて、自分がここのトレーニングを学んで、本当によかったと実感しています。別に福島先生にごまをすろう、というのではありません、念のため。とにかく、「基本」なのです。リズム、フレージングが、いかに大切か、こちらでのJAZZワークショップなどでもいつもいわれていることで、これがないと音楽にならないのです。どんなに美しい声で、メロディーどおりに歌えても、評価されません(クラシックは別だと思いますが)。そして、リズム感を養い、自分のフレージングで歌えるためには、体から歌が生まれてくる感覚を知っていなければならず、それを知らない人の歌は、一見うまそうに聞こえても伝わっては来ません。

私は、はっきりいって、ここのトレーニングにおいては落ちこぼれだと思っています。そんな私ですが、聞いた本物達の歌声、思いっきり表現することを学んだレッスンでの経験、が、今の私の歌の基本となっており、NYに来てから、パフォーマンスの後、「いい声をしているねえ」、といわれることがよくあります。

 

 

1.研究所での日々、学べたこと

ここのトレーニングをやっている人たちが必ず苦しむ問題が、「トレーニングの時の状態で人前で歌う」ということだと思います。たとえば、パフォーマンスしている最中に、「声を胸でキープしなくちゃ」、とか、常に考えてしまうこと。私も、これでかなり苦労しました。もしできるのであれば、最初、ここのトレーニングについて自分なりにわかるまで、人前で歌わない方がやりやすいかもしれません。

基本の1オクターブができたら、高い音につなげていくやり方も自分の体でわかってくると思いますが、これはかなり私にとっては難しい作業で、今もできてはいないです。

NYに来て、ヴォイストレーニングを受けて、感じたことですが、上級者になったら「舌を前に出す」「パレット(喉ちんこの両脇の部分)をACTIVEにする」など、声がもっともっと前に飛ぶような方法をとりいれるとよいと思います。

最後に…福島先生がレッスン室で私たちに要求していることは、ここNYで、世界で共通に必要とされる「基本」だということを感じています。

 

 

 

 

1.研究所での日々、学べたこと:

最初の1年は、納得できるまでやりきれなかった。会社を辞め、自分で時間をコントロール可能になってからのほぼ1年〜2年、集中して濃い関り方をしたように思う。とにかく、ある期間、ある密度をもって事に当たれば、方法が正しかろうが間違っていようが、基準となる何かは得られるものだ。私にとっては、その時間にここで得た、心と体と声の結びつきが、その後の核となっている。

 誤解を恐れずいえば、研究所は何も教えてくれない。ここにはただ材料と場所と時間、そして同じように何かを得ようとしている何人かの人がいるだけだ。だからいつも渾沌としている。学生の時のように、何かを与えてもらうのを待っていても、何ももらえない。自分で渦中に飛び込み、手掛かりを探して、自分の欲しいものを見つけ、自分の物にする。もしそこに、仮に答えが転がっていたとしても、自分に見つけだすだけの準備がなければ、それは答えとして認識することができない。まったく不親切きわまりない。他人には「研究所っていいよー」とは薦められない。しかし、だからこそ、信頼できると私は思っている。学ぶということの本質がそういうものであるから。その学び方が私がここで獲得した最大のものだと思う。

だから、ここには終わりがない(目下のところ。私が知るかぎりでは。)。学びたいことが自分の中に沸いてくるかぎり、ここには学ぶべきことが転がっている。

 もちろん、ここのほかにも、勉強できる場所はたくさんある。世の中そのものが大きな勉強の材料である。だがしかし、いざ何かを探し始めると、引っ掛かってくる情報はえてして、加工され、整理されすぎている。

 研究所は、根底に音楽への強い欲求があるうえで、渾沌としているから、かえっていろいろなものが丸裸で存在しているように思える。ここで、様々な講師を見ること、日々変化する研究生を見ること、こんなおもしろい材料は他にない。何かを教えてもらうためではなく、この貴重な場所を確保するために授業料を払っているという感じ。

 

2.私にとってのここのヴォイストレーニング:

 始めは体で声を出すという概念に出会っただけでぶっ飛んだ。が、その後、何もそんなことここのトレーニングに限ったことじゃなく、あたりまえのことだと知った。とにかくここにいるとわからない事だらけだから、半端じゃなく本を読んだり、他の情報を集めたりする羽目になる。で、散々あちこちに首を突っ込んだ結果、思いっきり、はしょってしまえば、あらゆることが同じだとわかる。声を出すことも、体をうごかすことも、字を書くことも、皿を洗うことも…。研究所は特別じゃないということに気づかせてもらったという点で、研究所は私にとって特別なものになった。

 

3.思い出、心に残ること:

うーん。私にとってはまだ過去のことにはなっていないので。

この場所を拓き、維持しているということが何よりも素晴らしい。やめる理由はいくらでもある、むしろその方が多いのかもしれない。でも、続けているということ。このことは本当に尊敬に値する。

福島先生ご本人はそんなこと望んでいらっしゃらないでしょうが、結果としてこれがいかに社会にとって大きな仕事になっているか。少なくとも私は、ここにこなければ今歌ってなかったし、一生音楽を続けていこうなどと決心もしていなかったに違いない。私の勝手な言葉遣いだが、何かを「あきらめてない」感じがする。人が生きていくときにとても大事なこと。うんと抽象的になるけれど、「希望」のようなもの。個人が切実に生きていくことが、結局いつか社会と交わり、何か(誰か)を変えていくということかもしれない。

 今後も、この場所と、福島英という類いまれな耳を最大限に利用して、わがままに自分本位に私の音楽を探していこうと思っています。できれば、なるべく多くの人に、途中退場せず、密度は濃淡様々でも、いろんな形で関りながら、自分勝手に利用し続けて欲しいと思います。そういう古漬のような連中が何人もいた方が、この場所は豊かになると思います。時にはマンネリのふぬけた姿をさらし、若者たちに「ああはなりたくない」見本となりながら、何年かに1回ぐらいは、薄い皮を一皮脱いでみたりして、一生変われるということを見せつけてやりたいものです。10年20年などというサイトで物を考えられるようになったのも本当に最近のこと。

入門するときに「遅くないでしょうか」とオリエンテーションで質問したのを憶えています。今思えば何をおそれていたのでしょうか。今となっては年をとってほんとによかった。

 

 

 

ここにはあらゆるものがあります。声のレッスンだけではありません。楽典の基礎を学べるレッスンもあります。ピアノだって教わることができます。最もすばらしいのは、過去のさまざまな音楽を観賞するチャンスがあります。

ならば、ここにないもので、かつ私がここに通いはじめた以降に出会ったもので、私が多大な影響を受けたもので、もしかしたら他の人にも役にたつかもしれないものとは何か。それを考えてみました。そういうものがあれば、それが伝えるべき一番のものではないかと。

で、ありました。でも、それは、私が今も欲しがっているものであって、私から人へ手渡せるようなものではありませんでした。

歌おうと思ったこと。歌ってみたこと。声が欲しくなったこと。ここへ来たこと。それらは全部つながっています。それと並行して、なぜ、歌いたいのか、なぜ声が欲しいのか、もっと遡ればなんで音楽がやりたいのか、という問は、誰でもそうだと思いますが、常にとなりにありました。それは人間が生きていきながら、生きることは何なのか、自分とは何なのか問い続けることと同じでしょう。これを考え続ける助けとなったものにいくつか本があります。

 

 

音楽哲学というと大仰ですが、音楽を通した思想の本は、声を得ようとする過程で、決定的に私を支え、また反対に、声や身体に現れる変化が、考えをより魂深くまで浸透させてくれるような気がしました。

結局、この手の話になると、魂とか心とかを避けて通れないので、とても繊細な問題になってきて、それこそ個人のレベルでしか扱えないものになってしまうのが難しいところです。

しかし、音楽を追いかけていくということは、私にはそういうこと、つまり「音楽って何?」「生きるって何?Iと問い続けることと同じ意味になってしまいました。

そして、そこが私がここにいた間に最も大きく変わったところだと思うのです。それが結果として歌に結び付いているのかどうか、客観的な判断はまだしかねます。しかし、最も興味があるのは、このことですし、今後も中心になると思っています。

 

 

多分今20代の人達は、私よりもずっとたくさんの音楽が身近にあったようでいて、実は、ぜんぜん音楽的な体験は少ないのじゃないかと思うことがあります。倍音や共鳴を生で身体に浴びる、それに浸るというのは最も貴重な音楽的体験です。メディアが発達した分、楽器がお手軽になった分、そうしたものに触れるチャンスはかえって減っているようです。

 

 

頭が頑張ると心が鈍くなります。心がよく動く状態にもどさなくてはいけません。私は自分の魂の形を知りたいです。たくさん重ね着した、あらゆる抑圧から自由になりたいです。

レーニングをすると、回り道はしながらですが、少しずつ薄い皮をはぐように声というものが変化していきます。これは別のものに変わっていってるのではなく、もともとあるものにたどりつこうとしているのだと感じます。同時にそれは社会で上手に生きるために厚着した魂が、一枚一枚身軽になって、表に近づいていくことでもあります。魂のない歌はありません。それは隠れているだけです。

社会的にあるいは個人的にでも、とても強烈な状況に置かれると、魂はやむをえず露出してきますが、私が生きている世界は、魂を隠すことで大勢の幸福が守られると共同で幻想しているような世界です。だから、いつも隠れている魂が出やすいように、出口を作ってやることがトレーニングです。魂から出たものしか魂に届かないし、魂は本来出たがっているのだと思います。私の魂はどんな形をしているのか、私は本当はどんな人なのか。とてもとても知りたいです。

 

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音信

 

ただセリフを怒鳴っているのと、何かが込もっているの違いを思い出した。歌はなおさらだ。ところが芝居以上に、歌でそこに、日本では先生以上にこだわってる人っていないと思った。

皆、長く歌ってるうちに忘れてしまったり、マヒしてしまうのでは...

自分の課題に関しては、構成するのが楽しかったし、初心に戻れたと思う。自信も取り戻した。

無名塾じゃないけど本物が排出されていく、いいですよね。

今はまだ過程、しかし結果は出さねば。私も本物であり続けなければと思いました。

授業で油断したりすると、やっぱりがんばってる人、がむしゃらな人にはかなわない、じゃないけど人間それがなきゃ落ちるだけだし、人前で何かやるなら、気力、体力、モティベートは基本ですね。

今の日本の業界でこれだけ本物にこだわっている人(こだわり続けてそうな人)って福島先生だと思います。最近、どこも不景気ですが、本物の時代、次の時代が来る予感がします。

 

(私も含め)皆いつまでも先生の”バラの花”ですよね。

皆先生の一種のファンなので、もっと認めてほしいのだと思います。(先生も基準を下げられないと思いますが)Privateな会話はまだ一度もしたことなくても、(気持ちの上では賛同、支持していても)、もっと皆、私だけ先生を独占しているように感じているだろうし、申し分けないと思ってる、私も気くばりできるようでありたいです。

きっと皆先生が大好きなのだと思います。だから認めてほしいし、(ほめると止まるから何かいってほしいのだと思う。難しい所ですが)

最近先生のブラックユーモア的コメントがきけなくて、ちょっぴり物足りない。いつもお元気でいらしてください。記念のキャンペーンどうもありがとうございます。

 

 

今日はプロシンガーの方の公演の日ですね。参加できる人たちがうらやましい限りです。

私は今、家業に追われ、働きに出ている毎日です。しかし、先生の個人レッスンのテープに合わせ、発声はずっと続けています。ここのことなども記載しましたが、ここには書ききれない事もたくさんあります。でも少なくとも、今の私の声は、福島先生と出会っていなければありえない...ということだけは声を大にして言いたいと思います。

24時間、歌や声のトレーニングだけに打込める環境があっても、集中できなければ何にもなりません。家のこと...などという言い訳はせず、マイペースですが、地道に勉強と思っています。

まだまだ途上の身、これからも勉強して、聞く人に鳥肌を立たせるような歌を歌っていきたいと思います。

「続けることが才能」先生のお言葉、私の座右の銘です。

「オレがお金を払っても、なんとか、歌を続けてもらいたい。」

東京を離れる際、そういってくれた仲間の言葉も、忘れません。

どうぞ、お体お大事に。

 

 

例え最初は小さくとも、何か新しい動きを始める時に、その中に自分も参加できていれば素晴らしいという、唯それだけだと思います。もちろんこの場に今までいた上で、方向性に共感していると思っているからこそ、そう思うのであって、ゼロからやっていくならどんな事でもよいという訳ではありません。

今いえるのは、とにかく小さな事でもよいから自分の力が役に立てられればと思っています。

例えば自分がライヴをやらせていただくのに、自分は何にも偉くないのに、すごく他の人達にお世話になっています。前々日からギターを預かっていただいたりと、本当に分不相応のわがままをさせてもらって非常に申し訳ない気持ちで一杯でした。

その分、実演で返す事が本当の姿なのですが。自分は何のために独りで東京に出て来たのかと考えるにアルバイトしにやって来たのではなく、創作したいから、こういう活動に参加したいからやって来たのです。そのために練習しているのであって、活かし切るのは、当たり前だと思っています。

ヴォイストレーニング日誌B 24539字   

  柔軟体操からブレストレーニング、言葉のトレーニングは、いつもよりも余計に5千字以上。

それからヴォイストレーニング、課題曲を練習。

言葉のトレーニングは、いつもよりも余計に練習したが毎日、5千字分くらいは読んだ方がよいな。いつも練習している課題は、それなりに読めるが、そうでない文章などは、声が浅くなる。

ただ、今日は文章を読むにしても、それなりに踏み込むところを意識して読んだら、少しはよくなった。まだ"生きた言葉”とはいえないが、とにかく踏み込みと“間”はとても大事である。360900

 

ヴォイストレーニングは、その前の“言葉のトレーニング”でしっかりと声を出したので、比較的にスムースに声だしもできた。今までは体を使おうとして、前腹にも結構力が入ってしまっていたが、その前腹の力を抜いたら、むしろ体が深くつかえるようになった。体を深く使おうと、力を入れていた部分が、逆に自然な体の動きを妨げてしまっていたような気がする。前腹や下腹は力を入れて支えるのではなく、“張る”というイメージでよいのではないだろうか。

 

課題曲は2曲とも言葉が死んでいる。一人よがりで声を出しているだけで、押しも引きもあったものではない。余裕ゼロというか、全然フレーズを動かせないでいる。何となく覚えたメロディーに歌詞を乗せただけで、それで固まってしまい、そこから抜け出せなくなってしまっているような状況。また、できるだけナチュラル声を意識して歌うと、何か間延びした感じになってしまうし、感情的になろうとすると確かに何か歌っているような気にさせられるが、喉は閉まってしまうし、そこで限界という感じだ。演歌のように多彩な音色を使う歌い方よりも、欧米歌手のように音色は単調(演歌のようにコロコロと音色をいじらないという事)だが深みとパワーのある声を目指したい。

 

となれば、答えはできるだけナチュラルな声で、そこからフレーズを動かせるようになれば、結果的には“大きさ”が出てくるのではないだろうか。喉を絞めた方が、すぐに“表現”らしさは出るが、演歌歌手になるわけではない。器を大きくしたいわけだから、とにかく今はナチュラルな声を獲得しよう。今から小手先に走ってもしょうがない。

 

 

 

 今日はレコーディングをする日であり、リズムとギターを一発録り、約30分ほど時間が空き、柔軟体操から息吐き、ヴォイストレーニングをやり、家に帰ってから時間があったので約20分ほど声だしをした。

息吐きをしてから、体を使わないでファルセットで高音を出すというウォーミングアップ法(時々、トレーナーがやっているもの)をやってから声だし。そしたら、比較的に声は出しやすくなり、ひょっとしたら喉を絞めないで済む範囲なら、毎日やった方がよいのではないかと思った。

しかしこれを取り入れたら、毎日のトレーニングが3時間になってしまう。でも、トレーナーの先生とかは、やっているんだろう。時間が取れる日は、声だしの前にやるべきだろう。

 

バンドの方は、4TR録音とそれこそ60年代のような録音機材での録音だが、その荒っぽさに魅力を感じるのも確かだ。とにかく歌次第では、できのいい作品になると思うのだが、声だけは弦のように交換するわけにはいかないからな。そこが難しく、おもしろいところでもある。

 

ヴォーカルの私としては、家に帰ってからも今ひとつ消化不良できで、時間も少しあったので家でも約20分ほど練習。どうもGbからAbにかけて声が割れ気味でノイジーだった。もちろん、その前後を徹底的に練習したわけだが、今後もその歪まないFからGにかけてを徹底的に練習しなければなんぞ。その日によって調子は異なるかもしれないが大きくは変わらないはずなので、そこでしっかりと胸にも頭部にも響くようにしよう。ただ、頭部を意識すると、本当に頭部だけになってしまうので、きちんとポジションをキープすることを忘れてはならない。

 

 

 

 柔軟体操、息吐き、言葉のトレーニング、裏声ウォーミングアップ、そしてヴォイストレーニングを一通りやり、時間になってしまった。

息吐き練習はさっと済ませてしまったが、もう少し息吐きメニューを充実させた方がいい。息吐きは夜中でもできるから、テレビを見ながらでも、時間があるときはなるべく練習したほうがいい。

 

ヴォイストレーニングの前に、新メニュー“裏声ウォーミングアップ”を取り入れた。そのせいか、その次のヴォイストレーニングは、最初からよく声が出た。10分から20分程度、なるべく毎日やった方がよいかもしれない。

気をつけなければならないのは、まだ本格的な高音域のトレーニングをする時期ではないので、あまり欲張って高音域には手を出さず、喉を締めないで楽にだせる範囲でやろう。このトレーニングはあくまでもウォーミングアップなので、無理は禁物だ。

 

息吐きの段階できちんと体を深く入れて体をつかえていなかったせいか、ヴォイストレーニングはちょっと体の使い方が甘かったかな。最近、支えのポイントを少し変えたが、ちょっとそこを意識して練習できたのは、後半になってからであり、できれば最初からガンガンできなければだめではないか。

課題曲は殆ど練習できなかったが、久しぶりにヴォイストレーニングをやったという感じ。もう少しやりたかったが、とにかく裏声ウォーミングアップのせいか、喉の調子はよかった。またまた練習メニューが増えてしまったが、2年目は2倍、3年目は3倍になるという練習の公式がわかって来た。

 

 

 柔軟体操、ブレストレーニング、言葉のトレーニング、裏声ウォーミングアップ、ヴォイストレーニング、それから課題曲といった3時間コースメニューを消化。

裏声ウォーミングアップは正解。もちろん、裏声だけでなく、その前の柔軟体操や息吐きが重要なのだが、それにプラスして裏声で準備をしてあげることによってヴォイストレーニングがやり易くなる。ただ、裏声そのものはまだまだ酷い声というか、カッパのような声しかだせないので、とにかく無理をしないように。できれば、喉を絞めずに上がっていければよいのだが、焦らずにやろう。

 

ヴォイストレーニングは、一通りの基本メニューをこなしてから『アオイアーオーイ』を中心に練習。これだと結構、勢いだけでもって行けるので、自分としては好きなメニューのひとつだ。調子が悪い時は、得意なメニューで調子を取り戻す(声をつかむ)という事もひとつの方法になるだろう。

ただ、『ハイ・ララ』だと、まだまだ粗が目立つというか、全然汚い。特に上の“ラ”前後では、ノイズが多く、何ともまだ汚いかもしれない。引き続き、この周辺の音域は課題となるポイントだ。自分は下があまりでないので、ミ・ファ・ソが一番出し易いポイン卜なるが、そこから上に行くと声が割れ気味になったりするので、今後も精進が必要。

 

やっと自分の体に入って来た感じがした。最初はすごくメロディーが覚えづらく、嫌な曲だったが、少しづつ自分の呼吸と合って来たような気がする。自分の歌い方というのが、全然見えていない為、自分の型にはめるということができないが、あまりそれはこだわらなくてもいいのかな。ただ、物すごく力んだ歌い方であるのは確かであり、少しづつ余計な力が抜ければよい。

 

 

レッスンは『ガゲギゴグ』を中心としたレガートメニューが中心、前半は声が身体にしっかりと入らず、ヨレヨレしてしまい、ちょっとだけ焦ってしまった。でも、段々身体も解れて来て、少しづつ息も深くなって来て、後半はいつもの調子を取り戻して来た。しかし、上のラの辺りだと思うが、声が割れ気味となってしまい、できる所とできない所の半音の差をすごく感じた。そこがひとつのトレーニングのポイントと先生も指摘してくれたので、そこにはこだわってやろう。

 

福島先生のコメントとしては全体的にトレーニング方向、進み具合としてはよいとのこと。しかし、今日のような胸に詰めた声は、身体作りを目的としたトレーニングとしてはこの方向で練習をしていって構わないが、歌に使うにはもっと上の方にも浮いてこないとだめだという。

もちろん、課題曲も、身体作りと割り切って胸に詰めた声で歌のは構わないが、そこから離していかないという。そうでないと常に力を入れていないと歌った気にならないという錯覚に陥るという。

それは確かにそうだ、今自分は目一杯力を入れないと歌った気がしないような感覚に陥ってしまっている。、そこは今の50%位の力加減で今の声量をキープしていければとのこと。

本当に身体の使い方というのがわかっていれば、余計な力は抜いて必要なところを必要なだけ力を加えればよいのだが、結局はまだ漠然としかわかっていないのだろう。

で、日頃の練習としては、身体を使った発声練習を30分位やった後、徐々にクールダウンしていくのもひとつの方法だという。

今日のまとめとしては、とにかく身体の作りヴォイストレーニングは今まで通りの“方向”でよい。しかし、歌の為のヴォイストレーニングとしては、もっと身体の“力み”を抜き、今までの50%位の力加減で同じ声量を出せるようにバランスを考えよとのこと。日頃のトレーニングにもクールダウンして行く方法を取り入れよう。

 

 

 

 柔軟体操、息吐き、読みのトレーニング、裏声ウォーミングアップだけで1時間半、ヴォイストレーニングを30分、課題曲を30分。その後、バンドのデモテープに歌入れをした。

トータルでは4時間半も、あ〜だ〜こ〜だとやっていたわけだが、每日、これくらい時間を費やせるといろいろなことができる。ただ、ちょっとさすがに喉も疲れてしまっているようだ。

 

今日のトレーニングは、大体基本メニューはいつもと変わらないが、落ち着いてできたと思う。ヴォイストレーニングは、心地よい汗も搔けたし、最近はあまり背中の方を意識していなかったが、ちょっと意識的に使ってみた。このメニューは体作りと割り切っているものなので、体は惜しみなく使い、鍛えていこう。

逆にソフトに体を使い、効率よく声を出せるポイントを探す練習が、中途半端だったな。ちゃんとテープに入れてやった方が、毎日の習慣になるので、テープは作ろう。

 

課題曲はまだまだ力みが目立つ。でも、力を抜くとヨレヨレになってしまうので、これが難しいところだな。しばらくはバランスを考えながら移行していった方がいい。

バンドの曲だが、この間の練習があまりに下手だったので、ちょっと自信をなくしていたが、今日のはもう少しまともだった。先日のは要するに、パワフルに歌おうとして逆に自然な響きを妨げてしまい、フレーズも止まらないので、悪い部分が強調されていた思う。そこを反省し、今日はフレーズはなるべく止め、むきになって声を張り上げず、声量がないならないなりに無理せず歌ったら、多少、よくなった。

少なくても悪い部分をわざわざ強調して歌わなかった分、無難に聞こえた。しかし、テープを聞くと音楽として浮かんで来てこないし、心地よさみたいなものは伝わってこない。まだまだ退屈な域から抜け出せていない。声も歌になると、頭部ばかりでしっかりとした1本の線にはなっていないような気がする。そう悪い声ではないと自分では思うのだが、サビで盛り上がれない(バンドの曲に関して)のが最大の欠点だな。焦らずに、しっかりと練習しよう。

 

 

リズム課題とかはそんなにすごい難しいものではなかったのにできなかった。音程課題も、メロディーを覚えられず、全然だめ。アカペラ課題は、CMで使われていた曲だと思うが、あんまりよく知らない曲。そんなの1回聞いて歌えるわけもなく、結局、5回位弾いてもらって歌った。途中、メロディーを忘れてしまった部分もあったが、他の課題よりは何とか形らしいものにはなったが、ソルフェージュとかは殆ど練習していなかったし、しょうがないな。毎日、15分でもやっておけば、少しは上達すると思う。

 

まずは息吐きから始めたが、短く吐くにしても、長く深く吐くにしても“深い息を吐いてる”というイメージをもった方がよいと。久しく“深い息”という言葉を忘れていたような気がする。そういえば、息吐き練習している時も、漠然とやってしまう事の方が多く、どちらかといえば何秒続けて吐けるという事の方に気を取られているが、盲点というか最近、“深い息”を意識していなかったの、これはちょっと反省だ。

 

全体的にヴォイストレーニングとしては、前半は声は出ていたが後半は声が前に出なくなってしまった。いや、別に喉を壊したとかではない。まず、前半は割合に自分の歌い易いキーだったが、中盤からちょっと低くなり、あまり声量が出せなくなった。また、声が埋もれて来ると、自分でもどこで声を出しているのかよくわからなくなり、余計に声が完全に詰まってしまった感じがする。埋もれてしまうのはしょうがないとしても、開放するどころか段々詰まってしまうというのは、問題だ。

 

で、今日のテーマはスターカットから中間音のレガートを練習。まず今までは胸でとっていたポジションを頭でも取れるようにと。音が高くなって来るとポジションも上がってくるが、無理に胸に押し込めず、そのまま頭に移行させてもよいという。頭でしっかり声を取り、胸のポジションも意識するわけだが、そこを無理に力で胸に押し付けて声を取りにいってはだめ。この辺は、正に今課題となっている部分なので、意識してじっくりと練習したい。きっとそうすれば、今日のように声が詰まってしまうという事もなくなるのではないだろうか。

スターカットからレガートにつなげる練習として、ハイ、ハ〜イ、ハ〜〜イ、ハ〜〜〜イというメニューは、自主トレーニングにも取り入れたい。

 

 基本メニューである柔軟体操、息吐き、言葉のトレーニング、裏声、ヴォイストレーニングをやり、明日に備え、課題曲を練習。

かなり粗削りな仕上がりとなったが、フレーズは止まって来たので、これからどうやって離して(浮かして)行くかが今後の課題だろう。

 

オリジナルよりも半オクターブも下げ、元々音域そのものは広い曲ではないので、自分の出せる音域の中でまとめる事ができたが、問題はカンツォーネ。音域が広い為に、低くすると下が歌えなくなるし、下を歌いやすくすると上が出なくなってしまう。それに今さらなんだが、練習の段階でピアノに頼り過ぎてしまい、アカペラだと時々、メロディーが飛んでしまうことがある。ただ、メロディーが飛んでしまうのは、“語り”を意識し過ぎて言葉もメロディーもぶつ切れになってしまうような時だ。ぶつ切れでも、言葉を語ろうとすると、“表現”らしい形になるし、確かにそこには何かが生まれて来るが、音楽からは少し遠ざかってしまう。多分、これがフランス語だったり、イタリア語だったら、そのまま音楽にもなってしまうのかも知れないが、日本語の場合、というか自分の場合は、かなり強引で押し付けがましいものになってしまう。

 

ある程度、音楽的な線にのせて行かないと、結局、歌になってこないものな。そこで、どちらにウェートを置いて行くかというバランスの勝負になるのだが、まだその割合が定まらず、不安定だ。特に言葉がいい切れている所はいいが、大体、浮かせるべきフレーズが中途半端になってしまい、メロディーそのものがぼやけてしまっているケースが目立つ。

特にAメロは、キーが低いので力むと声にならないし、しっかりと息で声を捕まえるという事を意識しないとだめだ。結局、そこがまた、きちんとコントロールができる声域ではないので、うまく声を捕らえられる時もあるが、失敗する事も多く、10回歌っても10回とも違い、10回ともうまく行かないという事になっている。10回歌って1回でもできるなら、それはもう出口は近い。

 

今回は、バンドのデモテープ作りという作業があったため、いつもの月に比べると課題曲を煮詰めるのに取った絶対量が違う。しかし、今後はもっと忙しくなると思われるので、例え1週間前に曲を渡されたとしても、それを本番までに仕上げる(ピーク)のがプロだ。だから、時間が取れなかったというのは、何のいいわけにもならない。ただ、自分でいってしまうが、少しづつ成長はしているので、前回のステージ実習よりはもっと作品らしいものが、表現できるのではないかと期待はしている。

 

基本セッションをこなし、本日の課題曲を練習。トータル約2時間ほどトレーニングし、いざ代々木へ。いつもよりはリラックスしてできた。確かに場に慣れては来たようだ。カンツォーネのAメロ部分は、言葉を置いて行くことができたし、ちょっとぶつ切れになってしまったが、それなりに感情的なものも沸き上がって来ており、今日はそこだけはよかった。

まず心と体が一致できなかった。自分なりにもってるリズムというか呼吸に乗せられず、結局は口先でのコントロールとなってしまった。

また、福島先生の指摘通りに音色が単調で、展開することができず、結局は最初から最後まで同じような調子になってしまい、盛り上がり切れず、音楽としての心地よさは全然なかった。その曲の持っている美味しい部分や魅力を殺してしまうのは、ヴォーカリストとして失格だ。

 

カンツォーネは、Aメロの部分は、やや言葉がぶつ切れとなっていたものの、置いて行くものがあり、よかった部分だが、その次の展開が今ひとつだった。その次は、ブリッジとしてじょじょに感情が高まらなくては行けない部分だったが、沈んだままとなってしまった。そして何といってもこの曲は、サビが魅力なのだが、そこが今ひとつだった。声は充分に出ているのだが、リズム的にあやふやで線がぐしゃぐしゃになってしまった。リズムだけでなく、踏み込むだけで離さないので、フレーズが壊れてしまい、結局は聞き手を巻き込めなくなってしまっていたと思う。それに力み過ぎて、喉にも負担が掛かってしまい、しばらくイガイガしてしまった。

 

まず、なるべくなら力技でもって行くのは、そろそろやめたいな。ただ、それは無駄な力を入れるのをやめるという意味で、小さくまとめてしまうのでは意味がない。今は高音域を勢いだけでぶつけてもっていっているので、もうワンステップ上の発声-声を無理にぶつけずに同じ位の声量をキープする-それができればもっと余裕も出てくるし、伸びやかになってくるはずだ。

あとまだ、何しろフレーズこだわり方が全然甘いし、読み込みも今ひとつだったと思う。福島先生も、そろそろ歌として音色、展開といったものにも、拘ってみよと指摘されているし、その辺も時間はもっと研究してみよう。ただ、音色については“単色”でよいと思う。自分の好きなヴォーカリスは、野太い色をもっているので、まだまだその野太さを追及したい。ただ、その中で踏み込みや離して浮かしたりなど、まずはフレーズで大きな線を描くことが何しろ課題。

 

 

息吐きをいつもよりも少し余計にやったが、いつも今日位やらないと練習にはならないかも知れない。大体、いつもの息吐きの練習量では柔軟体操の域を出ていないような気がする。というわけで、もう少し息吐きはメニューを充実させよう。

ヴォイストレーニングは、ここしばらくあまり細かい事を気にしなくなってしまった。悪くいえば、ただやっているだけに近いということもかも知れない。ただ、いえている事はまだ息と声の結び付きが弱いような気がするので、そこの練習もきちんとやろう。

 

最近、基本メニューに“裏声ウォーミングアップ”と称し、本格的に強く声を出す前に、ファルセットを弱い息で出し、ウォームアップしている。が、段々高くなってくると息で押してしまう傾向がある。結局、勢いで上に届かせようとしてしまっている。非常に喉が締まった状態になり易いので、ほどほどにしておかないと、それで喉を痛めてしまっては何もならない。でも、この辺を喉を絞めずに声を出せたら(解放できたら)いい。

 

バンドの曲は、オリジナル曲がひとつの課題となっているわけだが、先日変えた歌詞とメロディーでテープに録音してみた。少しよくなったが、構成的なものがまだくどいというか、3回とも同じように歌ってしまっては、聞き手に先を行かれてしまう。全体的には、安定してきたようだが、まだまだ言葉が言い切れておらず、そういった部分が不安定な印象を残す。また声を当てるポイントが、浅くなり易い。浅いなら浅いで、しっかりと頭部に当て“解放感”を出してやらないと、沈んだまま中途半端な声で終わってしまっている部分が多々ある。

サビは、“解放感”が出ないと、悪い意味でトレー二ング臭い発声をしてしまってはだめだ。結局は“作品”として仕上ていかねばならない。この曲に関しては、もう少し歌詞とメロディー、展開を含めた構成的なものを煮詰めないとだめだ。今日のテープを聞くと、きっと“以外と奇麗に録音されてるね”と録音状態しか褒められないといった事態に陥る。よいものは、まず自分が何回でも聞きたくなるようでなくてだめなのに、自分でも聞きたくないから、他人はもっと聞きたくないだろう。要は“作品”とは、ほど遠いということだが、少しはよくなって来ているので、もう少し努力すれば何とか、らしくはなりそう。

 

 

トレーナーのカウセリングでは、体を絞めることばかりやって来た為、体が硬くて響きにくい体になっていると指摘。ただ、急に力を抜くと単に頭部だけの発声に陥り易いので、それは時間をかけて響き易い体にして行くしかない。具体的な解決方法としては、柔軟体操や呼吸体操などにもっと時間を掛けてやるべきだということ。

もう一点は、今後の方針としてこれからどういった声を目指すのかという事である。頭部とのバランスを考えて、浅いところからじょじょに深くしていくのか、それとも徹底的に胸のポジションにこだわって声を深くしていくのか、今ならどっちに転ぶこともできるという。

これは難しい選択だ。早く歌えるようになりたいが、自分は体が小さいので、今の時期にできるだけ器を大きくしていかねば。結局はどっちの道を通って行くかというだけで、いきつくところが同じなら、結果オーライだ。しかし、浅いところで、まとまってしまう懸念もあるし、胸のポジションに徹底的にこだわって行くと、なかなか歌えるようにならないんだろうな。

また、“今月の課題”ということで何かひとつテーマを決めて練習した方がよいとのことであり、今日はそういったものが見えなかったという事であった。練習しながらテーマもこだわってみればよいのだが、とりあえず今月は『呼吸』を練習、研究する月間にしよう。

 

 

グループレッスンの方は、フリー音程で『アオイ』などの言葉を息読みと声だしを交互にやった。なかなか息読みなんてのは、おろそかにしていた課題だったので新鮮でよかった。また今日は合間に何度も自分のポジションを確認する時間をくれたが、結局、段々声が出やすくなってくるとポジションも上に来てしまうので、それをチェックし、一番自分で深く強く出せる声を出して確認をしたり、最低音を出して深い声に戻したりした。要するに練習をしていて、強い声や低い声が出しにくくなっているということは、それだけポジションが上がって来てしまっているということだ。これは徹底的に深い声を追及するには、このようにチェックを入れていかないとだめだということで、先程の個人レッスンでのヒントを与えてもらったような気がする。練習というのはややもすると量をこなして終わってしまうが、このようにチェックを入れるのは、必要不可欠のような気がする。

 

低音部は出にくい部分を練習するよりも、ある程度しっかりと声を出せる最低音の部分を、20回でも30回でも出し、同じ音程でイメージだけ深くしていくことの方が効果的だということである。そういえば、いつもの練習ではどんどん音程を上下降してしまうが、徹底的に1音にこだわるというのは確かに重要に思え、いや〜よいことを聞いたぜという感じ。

 

今日は体の中で“弓矢”を弾くイメージで声をだす練習し、確かにイメージだけはできたが、声にしてみると意外なほどしょぼい声だった。先生はまずはそのイメージこそが大切であり、今日の練習は“1年後”のトレーニングとして、このギャップを埋めるように練習せよとのこと。

最近、レッスンに参加する機会が減っているが、非常に収穫が多いような気がする。ちょっと今月は仕事が詰まっていてなかなかレッスンにこれなかったが、来月はもう少しレッスンに出たい。

 

 

柔軟体操、息吐き、言葉のトレーニング、ヴォイストレーニングをやり、来月のステージ実習課題曲を聞いて一緒にくちずさんでみる。

今日はちょっと食べ物がよくなかったのか、何となく胃がムカムカとしてすっきりしない。息吐きをやっていても治まらず、一旦、風呂タイ厶を取り、それから練習を再開。

声に関しては、勢いに乗って出すぶんにはいいのだが、ひとつひとつをきちんと出そうとすると結構、できない。『ハイ・ララ』にしても、こんな基本的なことが未だにできないとは嘆かわしいことだ。昔の哲学者の言葉を借りれば、“できない事がわかった”ということだろうか。

 

鋭さがないし、柔らかさもない。このところ、頭部と胸部のバランスを意識していたが、実は頭部のことばかりに気を取られ、胸部の方がいい加減になっていたような気がする。自分の憧れのヴォーカリストと比較しても、まだまだ全然胸部の響きが足りない。確かに少しばかりは声も大きくなって来たが、響きに深みがなく、浅いところがべべ〜と鳴っているだけだな。はっきりいって、“シャ乱Q”のツンクですら、自分よりもっと深いところで声を取っている。

自分の理想では、そんなところは遥かに上回りたいのだが、実際には低次元といわれるタレントヴォーカリストにも及ばないのが現状だ。ちょっとした進歩に一喜一憂してしまいがちだが、自分の目標を忘れてはいけない。

 

課題点を整理すると、“硬い声”から“柔らかい声”にする為、もっと柔らかい体を獲得しよう。もっとたくさん息を吸える柔軟性を身につけ、また息声で胸に響きだけつかまえようにも、以外にこんな基本的な事もできないので、これは是非できるようにしよう。

今月の時点では、最下音からのポジションをキープできるのは、真ん中の“レ”位までで、“ファ、ソ”で声が割れる。歌の為のトレーニングとしては、もっと“可能性のある声”を追及し、“離す、浮かす”といった事も念頭におき、力むのはやめよう。ビブラートは少し意識して揺れが起きるのを“待つ”ことにしよう。またイマジネーションを膨らませる為には“遊ぶ”といった感覚も必要だ。

 

 

 

ーー

どうも吸気のタイミングが悪いというか、これまで大きな間違いをしていたような気がする。一息毎に脱力してブレスすればいいものを、今まで“たくさん吸いたい”という意識から、ずっと力を抜け切れないまま、吸気していた。

これまで体を使おうとするあまり無理やり横腹や背中を膨らませていたが、むしろなるべく息を吐き切って脱力してしまった方が、体は深く使えるような気がする。力で膨らませるのは、あくまでも息吐き体操の過程ではいいが、発声の時は好ましくないような気がする。

実際に脱力して吸気すると、まだ慣れていないせいか、下腹部の支えがスッと自然につけられたり、そのまま抜けてしまったりなど、今のところは不確実だが、これは毎日やっていれば、そのうちに自然にできるようになるだろう。

これができないと、柔らかい声はいつになってもできないような気がする。これが本当に正しいのかどうかはわからないが、しばらくはこれで練習してみよう。そういう意味では、今の段階での正解になると思われる。

 

出だしは、かなり不安定だったがすぐにいつものように出せるようになった。ちょっと今日は、胸のポジションをイメージをかなり意識して声を出したが、粒の粗さがよくわかるし、できないところは、喉がガラガラしてしまう。

先生のコメントとしては、中間音で“離す”という事もできてこないとだめだという。調子のよい時は、これでもいいが必ずしも調子のよい時ばかりではないので、そんな時は2曲位しかもたないのではないかと指摘。

このままで高音になると苦しくなるので、浮かせる方法も覚えた方がよいのではないかということである。もちろん、このまま直球だけで伸ばし、そのうち浮いてくるのを待ってもよいが、その方法がベストとはいえないとのこと。

結局、体作りの発声と歌としての発声(ピュアな発声)を混同してしまっているということかもしれない。確かに、今日出していた声は、コントロールができないし、ピッチもかなり不安定だ。本人は頑張っている気になっているが、もっと浮いてこないと“心地よさ”といったものは伝えられないだろうし、大声ばかりではメリハリがつけられない。

この点に関しては殆ど進歩していないし、毎日の練習でもいつの間にか、あまり“離す”ことを意識しなくなってしまった。もちろん“深い声”は求めなくていけないが、同時に“柔らかい声”も獲得しなければならない。これは一見は、相反するように思える。少なくともこの1年間は、相反するものだと思っていた事だが、実はひとつの声にたどりつくことができるはずだ。硬い声は、深い声にはならず、すぐに限界があるということだ。

 

『ハイ・ララ』は、もっと意図的に“ハイ”をできるだけ深く取り、“ララ”をもっと“離す”方向で練習したらよいだろう。今までは“ハイ”で取った強い声を意識して"ララ”を出していたと思うが、ポジションはキープしつつも、離してみることも必要だ。

 

軽く柔軟体操してから息吐き、言葉のトーニング、ヴォイストレーニング、そして自由曲を練習した。

レーニングの中で、“離す”というのを意識して練習をしたが、なかなかやってみるとできないもんだ。というか、なんかまだしっくりこないというのが現状。離したら、そのまま離しっぱなしになってしまう。ポジションはそのまま上にもって来てしまってよいのだろうが、その辺のバランスもなんか今ひとつよくわからない。特にポジションを胸にキープしたまま、“柔らかい声”を出すなどは、今の段階では全然だめだ。最初は胸のポジションも何だかよくわからなかったわけだから、しっかりと目を開いて練習していれば。きっとできるようになるはずだ。

 

自由曲は歌いだしの“ノンソーマイペルケーティディ”の部分を徹底的に練習。この曲は歌いはしたが、日本語だったので、イタリア語はよくわからず、まずは発音というか読み方を覚えなければならない。そのため全体的にも、練習したが、今日は出だし部分のこだわり、テープを何度も聞いて繰り返し練習した。しばらくこんな感じで練習し、全体的な歌詞をマスターしなければならない。

 

今日やっていて思ったのは、高音部分で今の発声では喉にも負担が来てしまっている。ある程度は、“抜く”というか“浮かす”のかよくわからないが、多少は“工夫”をしていかないともたない。1〜2ヶ所は高音で張る部分があっていいと思うが、全部それでやってしまうとメリハリというものがなくなってしまう。また、逆に高音を弱い声で響かせるような部分もあっていいはずだ。

また、大事なのは、ザッキーのフレージングをそのままコピーすることよりも、それを消化した上で自分の呼吸にのせていかないとだめだ。とにかく課題曲に課題が山ほどあるので、ひとつひとつ何とかせねば。

 

トレーナーレッスン 基本的には『ハイ』、『アエイオウ』などの中低音を徹底的に練習。最初は“自分の一番出しやすい声、一番よいと思う声”で『ハイ』と出し、ある程度、声が出したところで柔軟体操、息吐きに戻り、それから母音を中心としたメニューで最後まで。

何か今日は非常に疲れた。残り後、15分位のところで頭が少しクラクラして来てしまい、ちょっと手足にシビレを覚えた。残り10分間は、もう体はあまり入れないでクールダウンしていった。家だと自分のペースでゆっくりできるが、レッスンは1時間しかないので次から次へと大変だ。今まであまり、こんな事はなかったのだが、終わってみれば心地よい汗を搔いた。

 

柔軟体操についてだが、家だと肩の回し方とかもう少しいい加減だったが、今日みたくちょっとむきになってゴリゴリやったら、よかった。柔軟体操の段階で軽く汗を搔くやらないとだめなのか。

グループレッスンだと、自分の声があまりモニターできないということもあるが段々、声が沈んでしまい、声を出して行くうちにどんどん調子が上がってくるのでなく、埋もれてしまう傾向にある。

今日は、その辺を意識して練習をしてみたが、ちょっと沈んで来てしまった。多分、レッスンの構成上もあって、“ド”より下の音域が中心になるからではないかと思われるが、これからもここは気をつけなければ。声が“硬い”ということかな。胸のポジションをキープするのはよいが、もう少し柔らかく出せれば、もっと響くようになり、全体の中に埋もれなくなると思うのだがな。、この点はこれからもずっと練習しなければ。

 

 

まず柔軟体操、息吐き、そして基本セットのヴォイストレーニング、で、バンドの曲『フィールザセイル』を歌い、テープに録音して見た。それから、また中低音で『ハイ、ララ』。

自分の歌を録音したテープを聞いてみると、物すごく音が不安定だし、つまらなそうに聞こえ、生気が感じられない。音が合うのが奇跡のように感じられるし、音楽的な“線”が感じられず、ただ、言葉の羅列でしかない。辛うじてサビでそれっぽくなる程度だが、全体の90%がだめなら、だめなのだ。

出だしのフレーズで、この曲はこれからどう展開していくのだろう、という期待感を与えられなければならないのに、出だしで自分すら聞きたくなってしまう。プロの安定感は、“絶対的”なものがあり、演歌のベテランや黒人のブルースマンなどは絶対に外さない。

この違いはなのだろう。まず、絶対的に言葉の読み込みの質が違うような気がする。言葉の“生命感”といったものが、自分の場合は、死んでしまっているし、でき損ないの粘土の彫刻ようだ。致命的なのは、音楽的な線が崩れてしまっているし、音程を合わせることばかりに、気を取られてしまうあまりか、とにかく感情的な高揚は殆ど感じられなくなっている。結果的には、無機質で、聞き手にむしろ“苦痛”さえ与えかねない歌になっている。

 

ヴォイストレーニングでは、始める前よりは少しばかりは大きな声は出るようになり、始めは全然意識できなかった胸のポジションというのも、少しづつできるようになった。しかし、所詮はそのくらいのキャリアしかないわけだ。下手で当たり前で、誰かと比べて落ち込む必要はない。でも、なかなか自分の思い通りにいかないと、悔しいわけだ。

 

ジャニスの再来といわれる“アマンダマーシャル”のCDを聴きながら、これを書いているが、彼女の場合は、声が太いわけではない。ただ、必要な量を必要なだけ自由にコントロールできるようだ。CDを聞く分には、絶対に音なんか外しそうもないし、言葉はわからないが、すごく言葉が生き生きとしているように感じられる。

ここがポイントなんだ。言葉の意味はわからなくても、音楽は生き生きとしているし、言葉の意味がわかっても、自分の歌みたく死んでしまう歌もある。では、言葉を全く無視するといっても、それでは生きてこない。ここでどうにか歌詞を音楽的に変換、処理するという作業、イメージが必要なわけだよな。自分ができないからいうが、日本人でもプロの人はすごい。

 

 

柔軟体操、息吐き、ヴォイストレーニングなどの基本セットをこなした後、さらにポジションを深める為に中低音でヴォイストレーニング。それから自由曲、バンドの曲を練習。

自分のトレーニングプランとは何だろう。レーニングとは気づきの連続によって達成するものであり、頭ばかりが先に行ってしまってもしょうがないが、それにしても漠然としているのではないだろうか。先のことはともかく、今は確かにもっと胸部の共鳴を豊かにしたい。トレーナーもいっていたが、胸部共鳴を拡大していくには、胸に押し付けて強く使っていく。それはそれでいいのだが、それだといつになっても歌えるようにはならない。

これまではヴォイストレーニングと実際に歌とのギャップを埋めたいと思い、ヴォイストレーニングをするように歌ってきたが、体作りのトレーニングとしては、それでもよかった。

確かに体を強く使い、大きな声を出すことによって歌ったという“満足感”が得られたが、それは間違いだ。柔らかく伸びやかな声で歌いたい。これでいきなり柔らかい声を出そうとすると、芯のないトレーニングを始める前の声に戻ってしまう。先生やトレーナーの指摘は,そこだ。

そろそろ歌に使える声を見いだしていかねば。とはいえ、安易にやると、昔に戻ってしまうし、まだまだ体作りといったものが終了したわけではない。

まず、目指すべき課題は、今の声量をキープしつつ、もっと体を楽にしてあまり絞めないといった方向で練習しよう。

そういった意味では、まだまだブレスの仕方が、よくないし、息も深くつかえていない。また、“深い息”といったものに対するこだわりもまだまだであるし、全然甘い。横隔膜に対する意識も薄いし、イメージの段階にしてもまだまだといえる。

 

 

柔軟体操、息吐き、言葉のトレーニング、基本ヴォイストレーニングセット、それからもう少しヴォイストレーニングをやり、課題曲、バンドの曲を練習。

練習の締めくくりとして、ポジションはキープしつつ、弱い息で声を出すということをしてみた。これが直接、声の完成に役立つのかどうかはわからないものの、このような試みは絶対に必要だ。どんな効果をもたらすかはわからないが、こういう事はどんどんやってみよう。

とにかく、気づきの連続によって歌えるようになると信じる。絶対的な体の違いもあれば、ちょっとしたコツだったりもするだろう。それが何かは、毎日の練習で気づいていくしかない。

 

課題曲は、ややもするとメリハリなく、ただ、平坦に歌詞の羅列で終わってしまう可能性を含んでいる。この曲に限ったことではないが、とにかく譜面通りに歌詞を置いていったら、オルゴールみたいな曲になってしまうだろう。

シャルル・アズナブルも、かなりフレーズを動かしているし、日本語としてまとまりをつけるには、もっと読み込まないと、トンチンカンな歌になってしまうだろう。自分としては、かなり難しい曲だと思うし、センスがはっきりと表れる曲。

 

バンドの曲を録音。大したことではないが、マイクを同時に2本使ったら、コンデンサーマイクとまではいかないものの、1本で取るよりは、ある意味では自然に録音できた。それにしても、トンチンカンな歌になっている。メリハリがないし、音を取りに行っている。まだまだ修行が必要だ。

 

 

バンドの練習日。30分ほどだが柔軟体操、息吐き、ヴォイストレーニングをやり、それからバンドの曲を練習。バンドの曲は、ライン録音したので、息使いがそのまま現れてしまい、全くごまかしが利かない。大変、悲惨で正直いってとても聞き苦しい。

まず歌詞がデタラメというか、言葉が言い切れておらず、従って音程も曖昧で、音楽的な線が崩れてしまっている。毎日の練習では、殆どバンドの曲は練習していないが、それにしてもである。、イメージが全然貧困で、メロディーに歌詞を当てはめているだけというのが現状だ。

声に関しては、硬い。ヴォリューム感も30、35、40という感じで、谷もなければ山もない。ただ、声を聞いていると、50を出すことよりも、このままでもいいから、もっと丁寧に、ひとつのフレーズを大きく取れれば、今の体でも自然と20、40、60と聞こえるはずだ。要するに、力み過ぎている。全部を歌おうとしているからよくない。今必要なのは、柔らかく伸びやかな中音域。高音は、まだまだ問題外。完全にコントロールできる中音域が欲しい。

 

ある意味では中音域ならポールロジャースと比べても、声量そのものは大して差がないような気がする。彼はあまり、中音域では張り上げて出さないという事もあるが。しかし、何が絶対的に違うかといえば、彼は“柔軟性に富み、完全にコントロールできている”ということだろう。そして言葉もリアリティがあり、感情の線と音楽的線が一致しているということだ。

ここに来て“硬い声”“力み”といった弊害が現れてしまっている。これは大きな課題なので、何とか解決をしなければならんぞ。ただ小さくまとめるのではなく、更に器としては大きくしていかねば。

 

柔軟体操、息吐き、言葉のトレーニング、少しメニューを変えてヴォイスレーニング、課題曲、その他にバンドの曲やポール・ロジャースのフリーを聞いて一緒に歌ったりなど。

息吐きは、以前は30秒だったが最近は40秒吐けるようになった。といっても止めているに等しいが、それでも体が深く入らないと、30秒ももたないものであり、それなりに呼吸が深くなって来ているような気がする。40秒づつ吐けたら、次は45秒、50秒とチャレンジしていくしかないだろう。

 

ヴォイストレーニングは、いつものテープでやると同じ練習になってしまうおそれがあるので、『アオイ』『アエイオウ』などのレガート中心のメニューで練習をした。で、練習の終わりにまた同じポジションで、軽く息を吐いて行くという練習をした。

思ったのが、むしろこの方が自然で歌に使えそうな発声だということだ。力まない分、高音域への以降も楽に行けそうな“可能性”を感じたし、軽く息を吐くといっても、自然と体も入って来ているし、声量感も少し落ちた程度で、それなりには出ている。なまじ体でもっていこうと力むから、頭打ちになってしまっているのであり、トレーニングの目的を“体作り”とするなら、あまり体は鍛えられなさそうだが、発声の完成を目指すなら、しばらく練習してみる価値はありそうだ。何かしろヒントは得られるはずだ。

 

歌もバンド練習を反省し、あまり力まないようにした。デタラメ英語でバンドの曲を歌ってみたら、なまじ日本語でやるよりも表現らしくなった。出しやすい“発音”だけで歌えるので、日本語を外す分、音も安定しているし、何か表現らしく聞こえる。でも、これでもっと意味がわければ、もっと素晴らしくなりそうな気になって日本語にすると結局、もとに戻ってしまう。音楽的な線をつかむ練習としてはデタラメ英語、デタラメイタリア語で、自由に線を描いてみるのもよい練習法だと思った。

 

日本語だろうが英語だろうが、言葉の問題とにかく大きい。もっと今よりも深いレベルで、歌詞を扱えないと到底、歌にはならないし、プロフェッショナルにはなれない。その為には、ひとフレーズづつ、読み込みを徹底的にやるしかない。練習法がわかっていれば、後はうだうだいわずにそれをやるだけだ。

 

 

柔軟体操、息吐き、言葉のトレーニング、ヴォイストレーニング、課題曲を練習。

言葉のトレーニングは、いつもの課題に加え、小説を数ページ読んで見た。もちろん、“生きた言葉”を扱えるようになりたいというのが、狙いではある。小学生よりも下手な感じがするが、これは毎日、少しづつでもやって積み上げて行くしかない。

いつもの課題は、言葉そのものよりも、“体作り”を目的としているので、なかなか表現力というものは身につきにくいし、正直いって、いかに喉に声を引っかけず、大きな声を出すかということがポイントになっている。朗読課題は、あまり大きな声をだすことは考えず、声についてはポジションだけ意識し、あとは丁寧に、それなりに雰囲気が出るよう、表現力を磨く材料のひとつになればよいのだが。

 

今日はいつもの課題だけでなく、CDに合わせて一緒に歌ったりして、そのフレージングや声の出し方をマネてみたが、ちょっと高音域で無理をしてしまい、ちょっと喉に負担を掛けてしまった。、毎日、練習できるコンディションを整えておくという事が非常に重要なので、喉は大事にせねばならない。これは反省だ。

ただ、高音域は上の“ミ”位までは、今日はビンビン出ていたような気がする。とはいえ、無理がないといえば、嘘になるし、本当の高音域とはいえないのかも知れない。調子の悪い時には出ない声でもあり、その辺はほどほどに練習しておこう。むしろ重要なのは真ん中の“ミファソ”。

 

練習を振り返ると、朗読はよい課題になりそうだと思ったが、全体的には焦点のない練習になってしまったかも知れない。ある程度、一通り課題をこなすのはよいが、30分でもいいから、一つ目的を決めて徹底的にこだわってみよう。

 

 

柔軟体操、息吐き、言葉のトレーニング、ヴォイストレーニング。それから課題曲を練習。

ヴォイストレーニングの途中に、休憩がてらに息を吸う練習もした。ずっと吐いてばかりいると体も声も知らないうちに硬くなって来るので、、吐き一辺倒ではなく、少し練習しては柔軟体操や息吸いをやった方が効率のよい練習になりそうだ。

 

ヴォイストレーニングではそうでもないが、課題曲を歌っている時、上の“ドレミ”辺りになると、後頭部の方にすごい力が入っている時がある。そのせいか、ここ最近は慢性的に後頭部の辺りが筋肉痛の状態になっている。喉そのものはそれほど絞めていないし、それほど深刻になることではないと思うが、、それは体が正しく使われていないという“サイン”であることは間違いない。しばらく練習を休むのもひとつの方法だか、根本的な問題は解決しないので、後頭部に力を入れないように心掛けるしかない。

これは、声の硬さにつながっている原因のひとつかも知れないし、もっと音域を広げるためには、今うちに解決しなければならない。これも“癖”のひとつになっていると思うので、なるベく意識してリラックスできる体、発声法を身につけたいものだ。

 

課題曲に関しては、まだなんか言葉が体に入って来ていない。ひとつひとつの言葉の意味は、ぼんやりとしか理解していないし、これは技術的な部分に走ってしまっている証拠だ。どうも、言葉の意味そのものよりも、メロディーラインとか技術の部分ばかりに気を取られてしまい、歌詞の核心に触れることなく、歌ってしまっている。本当は体験的に、これまでの自分をダブらせ、この曲の歌詞に感動していると楽なのだが、、そういった作業を人工的にもやらないとだめだな。自分がその曲の素晴らしさを知らないで、どうやって人に伝えられるのだろう。

 

 

トレーナー力ウンセリグ ちょっと遅れてしまった関係で実質10分もなかった。あくまでも力ウンセリグなので、調子を見てもらうには十分な時間だろう。で、今日はあまり細かいことは指摘されなかったが、具体的な練習法として、まず“息声”で豊かな胸の響きをキャッチし、その響き、深さを保ったまま、声にして行くという方法を教えてくれた。まず、出しやすい声(今日はレの音だった)を出し、そこから4度低い音で“息声”を出し、それでまた元の音で声にするというもの。

いや、これが簡単そうでやってみると以外にできなかった。今日は、硬くなってしまったせいか、自然な響きが得られず、思ったようにはいかなかった。“息声”は、基本を問うような課題であり、それこそ入門科でやるような課題であるが、そんなことが今だにできないとは、ふがいない。

しかし、まあ今になってやっと“できない”という事がわかったのだから、これからはそれが“できる”になるように練習するだけだ。これなら夜中でもできそうな練習法だし、息吐きと同様に積極的にメニューに加えよう。また、これを練習することによって深く、柔らかい声が得られるかも知れない。またまたひとつお利口になってしまったのだ。

 

トレーナーのレッスンは、“声域のチェック”ということをテーマに以下の項目で行われた。

 1 最も出しやすいキーで声を出す。

 2『ハイ・ラララ』で声をだす。

3.『ハイ・ラララ』で半音づつ下降し、息になるまで声をだす。

4.息になる手前を最下音とし、ポジションをキープし、半音づつ上る。

5.中音域まで行き、ポジションをキープできるところまでで止める。

(ここまでが、体も入っていてしっかり出せる声。)

  1.  1〜5をもう一度繰り返す。
  2. 『ハイ』に対し、『ラララ』が出しにくく(ヴォリュームダウン)なる所で止める。(ここまでが息と声が届くところ)
  3. 7の最高音から、更に『ハイ』だけで上がり、ボリュームが下がったらやめる。(ここまでが息だけは届くところ)
  4. 更にそこから『ハイ』と言い切れなくなるところまでだす。(声だけが届くところ)

トレーナーも一緒になって練習していたので、自分との距離がよくわかって大変、贅沢なレッスンとなった。8、9は殆どチャレンジで、試しに出してみようということだが、1〜7までは重要な課題となる。重要なのは、この項目を厳しく、しっかりチェックできるだけの、自分を見つめる目を養わなければならないことだ。その点、今日は一緒に練習していてくれたのはありがたい。

最低音から上昇していって、途中までは、それほど物すごい差はないような気がするが、あるところから半音づつ上がるたびにその差が広がっていった。またそれほど、差がないと思えるところでも、その深さ、丁寧さが具合が全然違う。特に中高音域は、自分のは勢いだけでぶつけているだけだという事が、聞き比べるとよくわかった。重要なのはできるところを半音づつ伸ばすという作業だ。

 

 

歌題曲は『アコーディオン弾き』を練習。ジャバと呼ばれる3連系リズムの曲で、我々日本人にはちょっと馴染みの薄い曲。楽譜通りだと、結構簡単な曲なのだが、楽譜を読めない自分には、ピアフを歌を聞きながら、それを更に日本語を乗せていくと、大変、難しい曲のように思えてしまった。

簡単なメロディーの筈なのだが、全然、そのメロディーすら歌えなかった。あまりにもこれでは不甲斐ないし、自分では一生懸命なつもり。

しばらく福島先生のフレージングのレッスンに参加していなかったということもあるが、かなり周りの人に差をつけられてしまった感じだ。帰り道に鼻歌まじりに、口ずさみながら帰ったが、その時はそれなりにメロディーはくちずさめたので、音感というよりも場慣れの問題でもあるだろう。とにかくもっと積極的に参加をしないと、どんどん離されてしまう。

で、本日のポイントは、いかにメロディーを覚えるかということではなく、とにかく強弱で音の流れを取っていくということ。特に本日の歌題は、メロディーを楽譜通りにすると、単調なのだが、そこを強弱で一本の線の流れとしてつかむということ。

こういったことは、自分に取ってはハイレベルで、実際にはメロディーを覚えることすら容易ではないのだが、とにかくこれを念頭において徹底的に練習。

そういえば、今度のも、今日のように強弱で流れを取っていかないと、曲が単調になるので、これを意識してやってみよう。と、いっても明後日であり、今さらどうにもならないかも知れないが、とにかく今日のポイントを生かせれば。

 

 

軽く柔軟体操、息吐き、ヴォイストレーニングをやり、それから明日に備え、課題曲を復習。

ヴォイストレーニングは、最下音のポジションをキープして半音づつ上がっていた。結局、何とかキープできるのは真ん中の“ド”位までで、“レ”の前後でシフトしてしまい、それより上は半音づつ上がる毎にポジションも変わって来てしまう。まずはこの“ド”と“レ”の間をしっかりとキープできるようにすることが重要だ。そうすれば、“ファ”から“ソ”で声が割れてしまう部分も、もう半音か1音位は伸びるのではないだろうか。

課題曲に関しては、福島先生のレッスンで指擂される、音の流れを強弱で取っていくということが、あまりできていない。結局、オリジナルを粗雑にコピーしただけで、オリジナルと呼べるようなフレージングではない。

すーぎた、すぎーた、すぎたー、これだけでも3通りのフレージングなのだが、こういった作業は殆どやっていないし、つまるところ効率のよい練習をしてこなかったといえる。

いたずらに、体力と時間を消耗して来てしまったかも知れない。、正しい練習法を見いだすことが大変、難しい課題なのかも知れない。明日だが、とにかく1年後、3年後の練習をするつもりでトレーニングに励まないと、ものにはならない。

 

 

ステージ実習。仕事は早めに切り上げ、いつものトレーニングを少し短縮し、胸に声が入ってきたところで、ステージ実習課題曲を3回づつ位リハーサル、トータル1時間ほど練習していざ代々木に向かう。

 ここ数カ月のステージの中では、無難だったといえ、気持ち的にも比較的に落ち着いてステージに臨めたと思う。声もそれなりに出ていたと思うし、それほど大きく崩れるところもなかったようだ。

最後にトレーナーが歌ったテープを聞かせてもらったが、自分との次元の違いを思い知らされる反面、ただ、素直に感動をしてしまった。

今日は、自分で歌っていても、力が入り過ぎてる”と思う部分もあったのだが、走りだした暴走列車はなかなか止まるわけにも行かず、結局は最後まで突っ走ってしまった。大きく崩れるところはなかった”と書いたが、それはいつもと比較しての話で、2ヶ所ほど致命的にフレーズを壊してしまった部分があった。失敗したというよりは、練習の段階から何となく歌っていた部分であり、今日、他の人の歌を聞いて初めて“ああ〜そうか”と思った始末で、本番でも、そのまま壊したまま歌ってしまった。

 

声に関しては、確かに前よりは出るようになった。多分、音域という部分では、他の人よりも浅いながらも広くは使えるので、有利に歌うことができていると思う。しかし、これならばやり方を変えればもっと、素晴らしいステージできたはずだと思う。

声は、最近は低い部分も、出て来るようになり、時間は掛かっているが着実に伸びて来ていると思う。しかし、肝心の音楽としての部分が、かなり疎かになっているような気がしてならない。特に今日は“硬さ”を感じた。もっと力を抜いてもいいような気がする。

曲の1〜2ヶ所だけ、フルパワーになる部分があればよいような気がする。歌い過ぎている。3曲目を聴きたいと思わせられない歌だ。致命的なのは結局、“歌が見えていない”ということだ。

 

福島先生のコメントにあったが、少なくとも、その曲のよいところ、美しさ、哀愁といったものを歌い手がまず感じ取っていなければ、到底、人には“伝えられない”。歌い手は“歌おうと思わず”に“伝えらればいい”という先生の言葉が胸に残る。 そう、トレーナーの歌は素晴らしかったが、そこは体云々の前にイメージの差が大きいと思う。正直、いってこれほどまでにこの課題曲を大きなイメージでは捕らえていなかった。そこで既にアーティストであるのか、どうかが別れてしまっている。

とにかくもっと柔らかく歌ってみる事にチャレンジしてみよう。それも、自分を崩せないとだめだということだ。あと、音楽の勉強が足りない。リズムとか音感といった音楽的基礎がない。Wも中級を取っていないし、少し集中的に音楽基礎の勉強をしておかないと、まずいような気がする。歌えればいいんだけどね、そんな形は。

 

レコーディングということで、あまり出番はない。よっていつものように、みんなが揃う前に一人で30分前後、柔軟体操とヴォイストレーニングを黙々とやる。で、家に帰ってからも30分ほど時間をとってヴォイストレーニング。

バンドの曲に関しては、普段の練習ではしていないという事もあるが、あまりよくない。どっちにしてもキーが高い。今の力量では、まだまだ時間がかかりそうな気がするけど、以前よりは力が抜けて来て音程的にも安定はして来た。ただ、強弱でとらえる感覚や線にしていく感覚がなく、音楽的な世界観がみえず、結局は退屈な作品に終わっている。落とすところはもっと落としていいし、その分、盛り上げるところはしっかりと盛り上げないと客に先を越されてしまう。あと何カ所か歌いずらい歌詞もあるので、そこも歌詞を直すかフレージングを考えないと、いつまで経ってもバンドの中でみんなの足を引っ張ってしまう。

 

ヴォイストレーニングに関しては、とにかく“豊かな声”にはほど遠く、貧相で浅くしか響かない声を何とかしたく、家に帰ってからも、卜レーニングをしてしまった。ひとつ気づいたのは、トレーニング法として、せっかく息吐きで目一杯体を使って息を吐いても、声を出す時には、その半分位しか体を使わず、歌うときにはそのまた半分位しか体を使っていないということだ。過度に体を使うと、自然な響きをさまたげてしまうのは、もちろんそうだが、体作りの発声の時は、できるだけ息吐きと同じレベルで体を使って声を出せればよいのだがな。結局はそうやっても声にならないから、声を出す時は息を吐く量が自然と少なくなるのだろうが、プロと自分の圧倒的なパワーの差は、その息を使えるかどうかなんだろうな。みすみすここでその息を逃がしてしまうのは、もったいない気がする。

 

結局は、どれだけたくさん息を吐けるかではなく、“深い息”をどれだけ吐けるかであり、使える息の量で変わってくる問題なのだろう。それに息声で、胸の響きを掴む練習も、今のところはどうもしっくりはできない。本来は、もう少し響きが得られるはずだと思うのだが、体が硬くなってしまっているせいか、うまく響きが得られない。これは“豊かな声”を得るための絶対条件と思うので、引き続き練習しよう。

 

課題曲を練習してみた。曲はさすがに有名なので、適当にはすぐに歌えてしまった。しかし、大変なのはこれからであり、歌えばすぐに歌えてしまうだけに、頭の中のイメージが小さいまま、まとまってしまい、そのままイマジネーションが膨らんでいかないということだ。イメージだけ膨らませても、声から自由にならないから、そう簡単には歌えないのだが、それをしなければ作品にはなっていかない。それこそ、カラオケレベルで終わってしまう。本当にカラオケだったら、自分よりもうまい素人さんがいる。でも、それじゃ、何のためのトレーニングかということになってしまう。

根性はプロのつもりでやっている。そうしたら、それだけもっともっと膨らませなければ。もっといろいろと音楽を聞かなければ、もっとイメージの中で“遊ぶ”感覚も身につけなければ。あっ、それは大事だな。そう“遊ぶ”感覚。うん、そうなんだよな“やるぞ”という強迫観念でイメージは膨らまない、“遊び心”とか、楽しむ感覚でやるともっと自然にイマジネーションは沸きあふれるような気がするし、そういった感覚でやることが俺らしさになって行くような気が(錯覚?)する。

 

 

 結構、時間があったのでのらりくらりと休みながら夕方6時頃から夜11時まで練習。ただ、量的には大していつもと変わらないと思う。で、今日は柔軟体操、息吐き、言葉のトレーニング、ヴォイストレーニング、課題曲などを練習。

自分の場合は、歌っていてもあまりビブラートといったものが起きない。福島先生の本で指摘されるように、ビブラートはトレモロのように震わせる事ではなく、自然と揺れて来てしまうものだということであり、今までは全然、考えてもみなかった。しかし、あらゆるプロの歌にはビブラートがあり、この揺れと線を描いて行く行為はとても密接な関係があるような気がしてならない。とにかく、今の自分のように直線的な声で、音楽的な線を描いて行くのは、これはまた難しいように思えて来た。

 

とはいえ、意識的にマネなんぞすると、それはトレモロにしかならないわけであり、不自然で厭味な歌にしかならないだろう。、それは揺れて来るまで“待つ”しかないわけだが、今までは“待つ”こともしなかったわけだから、取り敢えずこれでも一歩踏み出すことになったわけだ。“待つ”=“求める”であり、トレモロと間違わないように、できるだけ大きな揺れが起こるように“願おう”。今日やった感じでは、意図的にやらないと、揺れは起きなかったわけだが、それでも何かが起こりそうな期待はもてる。

 

ヴォイストレーニングは、そんな1週間やそこらで音域が広がるわけでもないが、調子は悪くないと思う。ちょっと練習し過ぎてしまった気もしないわけでもないが、ゆっくり寝れば明日も元気に練習できるだろう。

 

 

あるアーティストの活動日誌  5662字

◯あるアーティストの活動日誌

 

*年度

 

1日 初日。2回公演。体力的にも辛いが、一回目と二回目の間が一時間もないところも過酷だ。

「商業では皆やっているんだ」と、自分を励ます。

二時間半、トイレに行く時間もなく、舞台と客席を走り回り、歌い踊る。やっぱりしんどかった。

2日 一回の公演がこんなに嬉しいなんて!

「一回でいいなら思いっきりやっちゃおうっと」とご機嫌な私。

とにかく昨日の二回公演が辛かったのだと実感した。

3日 また二回公演。今度は一回目と二回目の間に集中して10分くらい仮眠できた。 

4日 やっと休演日!朝から鍼に行ったきり、疲れて動けなくて何もできなかった。

5日 午前中に膝と腰に注射を打ちに行き、その後楽屋入り。一回公演。

7日 朝、稽古を抜けて、別の注射を打ちに病院へ。


9日 休む暇なく、次のショーの稽古をして、夜はまたそのショーの仕込み。

仕込みが大変で、舞台アタリができたのは夜中の12時以降。

今日は全員近くのホテルに宿泊。一日の単位がなくなってきている。

10日 朝8時半から10時まで通し稽古。開演は13時半。

疲れで目の前に霞がかっている。声は出るはずもなく、とにかく眠りたい。

会場の都合で10時から開演直前までは何もできないから、近くのカフェで居眠り。なんだかわからんまま一回目のステージ終了。拍手してくれているお客さんに申し訳なかった。

12日 朝8時半集合。稽古・位置アタリ。開店前にしかアタれないので、朝早くなってしまうのだ。

夕方のステージに友人が二人来てくれたので、夜は屋上のビアガーデンに行ってみた。

料理も美味しくて、とても楽しかった!疲れている時こそ、笑うことが必要。

13日 2ステ。こんなに疲れていいかげんにやってるのに、演出家に呼び出され、気持ち悪いくらいほめられた。

なんか機嫌とられたって感じで、素直に喜べなかった。

17日 やっとの連休夏休み!朝から、富士山の方面に一人遠足した。

夕方には東京に帰り、友人が誘ってくれたコンボイショウのコンサートに行った。

コンボイの人達の体力に感心した。

18日 招待券をもらった芝居を同業者の友人と見に行く。

有名女優が出ている年配の方向けの芝居だったが、面白かったし、勉強になった。

いつも疲労がたまっているので、どんな物を見ても、睡魔はやってくるのだが大丈夫だった。

19日 稽古。なんかだるいと思ったら、38度の熱。

20日 稽古後、移動。しかし、熱も下がらず、本番が不安だったので、病院で注射をしてから、単独で入る。

21日 公演。この日中に帰京。23時頃に到着。

22日 公演。9時入り、仕込み開始。16時半開き。

23日 13時から稽古。去年やった作品をまた秋にやるので、その振りおこし。

24日 10時から稽古。その作品に新しく参加するメンバーに振り写し。

26日 オフ。病院とヴォイストレーニング。

27日 公演。10時入り。二幕終盤で、相手役が腹痛を訴えてきた。しかし立て続けに出番があり、裏方の伝える間もなく、やり続けるしかなく、とうとうフィナーレ前にフラフラになっていた。

近くにいた先輩が袖にハカし、私も袖にハケテ、舞台監督に「救急車!」と言って、また舞台に戻り、最後まで続けた。結局大きな病気ではなくてよかった。

29日 公演。9時入り、16時半開演、終演後帰京。

30日 13時から、本公演とは別のコントの稽古。

31日 飛行機で移動。

 

1日~4日 ひたすら朝から夜まで稽古。午前中は歌・踊り、午後は芝居、夜はそのどちらか。

ずっと地下稽古場にいるので、天気もよくわからない。

 

5日 本当は一昨日までは陸路移動の予定だったが、あまりの過労ため、何人かだけが飛行機になった。そしたら、とある客演から不公平だと文句が出て、議論の末、なんと全員飛行機になったのだ!ケガの功名?

広島空港まで飛行機、岩国まではバス・電車。陸路よりずっと速いし、結果的によかった。夕方には着いたので、何人かのグループでビール飲みながら、(なんだかいつも飲んでるような気がして、ちょっぴりヤバイかもと、今反省した。)
錦帯橋」を見に行く。想像していたのよりずっと大きくて、立派で、木の香りがして感動した。

明日からやる作品は水をテーマとした作品だ。

 

6日 オフ。四季の「ひばり」と宝塚雪組スサノオ」と2本観劇。友人がすみっこに出てる。

四季のストレートプレイの楽しみ方・見方がやっと少しわかってきたような気がするが。

 

7日 10時出発、16時半頃東京着。トラック一台分程の物を稽古場に荷降ろしして、解散。
夜は一人で、ご年配の有名評論家や新劇系演出家の集まる気軽な飲み会に行く。毎月開催されているラフな会で、ひょんな縁で半年ほど前に誘われたのだが、何かと東京にいない私はまだ二回しか参加できていない。

私には未知の話題が多く、物珍しくて勉強になる。この日は「シェイクスピアとヨーロッパの王朝系図について」の話が熱く語られてた。しかし寝不足の私は眠いとにかく眠くて、ぼーっっとしていた。1時就寝。

 

8日 10時集合で作業日。最近はあまりに作業日が多いからか、誰かの意見で、「役者は外にレッスン等、勉強しに行くのも大切」ということになり、レッスンのある人は優先していい、という珍しいことになった。今まで、こっそりレッスンに行っていた私には好都合!でもなんでそんな話になったのか不思議だ。

朝は歯医者さんに。
一旦稽古場に戻り、衣装の洗濯、仕分け、後片付け作業を一人黙々とやって、夕方16時からはヴォイストレーニング、18時からはバレエへ。

本当はなんだか精神的にぐったり疲れが出てきてて、こんな日まで無理してバレエに行くことはないかも、と思ったが、こういう時こそ、自分の関節や筋肉と暗く向き合おう、とスパルタ気分で行った。結果的に行って良かった。しかし声の調子はかなり良くない。朝、歯医者さんと会話してびっくりし、ヴォイストレーニングもさっぱりだった。

 

10日 オフ。朝は声のためにもゆっくり眠り、16時からのバレエに。明日は稽古と思うと消えたい気分。よく一緒に怒鳴られる先輩からも、後ろ向きなメールが。明日の稽古に演出家が来ると聞いてから、とても怖い夢を見た、とのこと。私も頭が割れるように痛くなり、吐き気もしてきたが、バレエに行くと少し治った。バレエの後、鍼に行き、気分が前向きになるようなツボに鍼して欲しいとお願いしてしまった。帰宅後、寝るまでは衣装を着て、役の扮装で過ごした。

 

13日 新宿厚生年金にてゲネ。毎年のことながら、初めてセットを飾るのに、転換稽古する間もなく、ゲネをする。臨機応変が全て。私はしたっぱ時代にしごかれているので、なんてことはないが、今年入ったばかりの新人の女の子は目が回っていた。生き生きしている団員、ぐったりと笑顔を絶やさない心優しき劇団員。11時過ぎに帰宅。

 

14日 ワークショップ卒業公演本番。二回公演。私は上手転換要員なのだが、一人、こまったちゃんのおばさんがいて、大変だった!クイックチェンジ=早変わりがどうしても間に合わないのだ。他の同じグループのおばさん達とは違い、その人だけは直前のナンバーでも歌い踊ってて、「次の曲の前奏だけで袖にハケテ来て→歌い出しから出る」、という、どう考えても難易度高い超クイックなのだ。

 昨日のゲネでは、私ともう一人で介錯に付いたが、やはり間に合わなくて、私は優しく「今晩家で、速く着替える練習してくださいネ」と言ったが、「センセ、あのネ、私ネどうしても、その前の場面に出たい、って言ったの。だから他の人は出てないけど私だけ出してもらったんですぅ」と言われ、グッタリ。

しかし、とにかくやるしかない。私は意地でも間に合わせてやろう、と裏方根性を出した。

 二回目公演では、一袖後ろ、しかも客に見切れる最もギリギリの所で待ち構え、有無を言わさずそのおばちゃんの腕をひっつかみ、衣装を剥ぎ取り、無理やり頭から次の衣装をかぶせ、舞台のつきとばすように出した!あまりの速さに周りの裏方も拍手していた!バラシ後、私は打ち上げには出ないで、トラック助手ですぐ帰ったのだが、その人から涙ながらの感謝の言葉があったとのことだった。感謝されても、という感じだが、ま、いいとしよう。怒涛の公演は終わった。

 

20日 本番。大詰めのシーンで、小道具をうっかり忘れて来るというハプニングあり。二人で栗拾いに行く所、栗拾い籠を忘れたのだ。私の「行くぞ!」という台詞に、彼はかわいい笑顔で「ちょっと待ってて」と言い捨て、テクテクとハケて小道具置き場に籠を取りに行ってしまったのだ。一人舞台に取り残された私は、やっと籠がないことに気づき、じっと待ってるのも変だから、てきとーに「栗拾いに行くのに籠忘れてどーすんだよー。」とかなんとか言って、ヤツが満面の笑顔で出てくるのを待っていた。子供相手の芝居って楽しい。

 

29日 ここは河童の伝説の多い町で、新しく家を立てる人には河童の置き物を設置するお金が町から出るとか。町の至る所にお地蔵さんのように河童の置き物が!

 

30日 昭和の町並みが最近観光で注目されているということだが、一日中劇場(公民館)にいる我々には悲しいかな、郵便局にすらいけない。でも地元の実行委員の手作り昼ごはんがものすごく美味しくて、劇団員大喜び!客席最前列に木の長いすが設置され、地元の小学生がひしめきあって座っていた。
 国東半島の子供達は解放的で、いちいち舞台に話しかけたり、芝居中でも質問してきたり、まさに客席参加型(?!)のはじけた劇場ができた!

 

 

1日 演出家の稽古。「お勉強」と称して、先輩が長時間絞られていた。見ているだけで、ぐったり疲れてしまい、夜はバレエに行くつもりだったが、やめた。

3日 姫路市公演。ひさしぶりの本公演だったので、相手役が午後から体調が悪いと言い出し、開演2時間前に39度の熱を出し、救急車で病院に行ってしまった!あわや公演中止か、代役か、と大騒ぎになったが、点滴を終えて病院から帰って来た彼は根性でやり通した。

9日 串間市に移動。高速を降り、日南海岸沿いにくねくねと走っていった。鬼の洗濯板を見て歓声をあげ、ブーゲンビリアの花に南国感を感じながら、最南端串間へ。道端に蟹がたくさんいたり、アマガエルが何匹もいて、みんな大喜び。

10日 参加型リハーサル。さすが日照時間の長い南国・串間の子供はのんびりしてて、ホンワカしてる。

11日 参加型本番。数日前の雷のせいで会館のエアコンが故障してしまい、熱い熱い本番!体育館公演並だった。そして、終演後に野生馬のいる都井岬のホテルに移動。ホテルに着いてから、希望者でこの時期しかできないという、トビウオ漁体験に!沖に出て、灯りを沈めると集まってくるトビウオを、大きな網で、金魚すくいの要領で捕まえるのだ。しかし時間も遅くてトビウオは寝てしまったみたいで、なかなか寄って来ない。漁船は揺れるし?まる所はないし、網は大きいしで、仁王立ち、いや2番ポジションプリエで、じっと海面をにらんで、トビウオを待つ。結局私は1匹だけすくい、全員で8匹くらい。港に帰り、漁師さんがさばいてくれて、お刺身で食べた。美味しかった!

12日 飛行機帰京。朝は野生馬をたくさん見て、移動のバスからは猿が見え、ウリンボウも逃げ惑い、まるでサファリパークのようだった。空港には11時半に到着したが、飛行機は15時。空港のベンチでぐうぐう眠り込んでしまった。

13日 オフ。歯医者さんに行き、ヴォイストレーニング、バレエに行って一日が終わった。

14日 夏休みイベントの稽古。ただのショーだが、台本もちゃんとあり、台詞も結構あって大変。午後になって作曲家が新しいナンバーを作ったので、歌入れした。

16日 同じくイベント稽古。 アフリカやハイチの民族衣装を着るシーンがあり、資料集めに時間がかかる。

ハイチの総領事館に電話したり、ネットで写真を探したり。作るのも自分達なので、早くも憂鬱。

明日は本公演なので、積み込みもやり、この日は早目に18時前には終わり。

17日 東久留米公演。今日は16時半開き。友人が見に来てくれた。初めて見に来たので、相手役が本当の10歳だと知ってびっくりしていた。「相手役が10歳」と言ってあったのに、設定が10歳でオトナがやってるのだと思っていたらしい。

18日 オフ。友人の出ている舞台を観劇後、バレエへ。

19日 福岡に飛行機移動。ホテルは繁華街から遠かったのだが、路線バスに乗り、天神まで出て、博多らーめんを食べた。

20日 福岡市公演。会場の搬入口にセットがたくさんあって、荷下ろしが大変だった。

古い会場で、パイプ椅子一つ、長机一つずつ使った数に、使用料金がかかったらしい。

21日 広島に移動。お好み焼きを食べに行った。

24日 朝、飛行機で帰京し、宝塚宙組の「ファントム」を見に行った。

夜は誘われてた飲み会があったが、疲れてしまったので、ごめんなさいして、家でゆっくりした。

26日 稽古。やっと新しい曲もできたが、今度は覚えるのが大変。踊りながら歌ったりしたら、もう歌詞は「うにゃにゃ~???」、出てこない。

27日 稽古。午前中は本公演の稽古。午後はパフォーマンスショーの演出家稽古。

30日 午前中は仕込み続行、踊りの位置アタリをして、午後からは演出家の稽古。

まずは新しいセットに足しての新しい動きの段取り付け。

一度アタマから通しながら動きを付けただけで、一日が終わってしまった。

31日 午前中は歌の稽古。午後からはまた演出家の稽古だが、昨日付けた動きを夕べ一晩寝かせしまい、放っておいてしまったので、相手役と昼食の時間をさいて思い出し練習。かなり複雑な動きで二人で頑張って思い出したが、演出家の稽古で一箇所間違ってしまった。10歳彼は「やっちゃったね。」と私に微笑かけ、私を励ましてくれた。今日も早目に19時に終わった。

ヴォイストレーニング日誌1 12820字

研究所関係者のトレーニングや活動についての日々の紹介です。

(一部抜粋です。)

参考になれば、嬉しいです。(下記は、同一人物ではありません。)

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◯ヴォイストレーニング日誌1    (20歳 2、3年目)

◯あるアーティストの活動日誌 (28歳,10年め) 別記事

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◯ヴォイストレーニング日誌

 

NO.1

○お腹から出る声へ(支え・呼吸)
30分の練習で身体が疲れないのはおかしい。

のどが疲れるのはダメ。
内もも、腹筋、腰あたりに力を入れる。

最初は意識的にやってみること。

(1)お腹・足
横腹が広がり、尾てい骨(尻・横腹のやや後ろ)の半分あたりまで空気が入るイメージ。

横隔膜が下がる。
お腹に入れるというより、お腹(横と後ろ)を広げる。

重心をややぐっと低くいれ、腰後ろの筋肉を引き締める。
(2)胸
そのまま胸を高め、拡張を維持する。(やりすぎない)
(3)口
口形を変えず、内(奥)を広げる。(口は、あけて広げない)
高い音はあごを動かさず、少し口元、ほっぺたを引き上げる。
一点を凝視し、目線を動かさない。
声を目鼻の先にぶつけるイメージ。(声は前に出す)

口形は最初から、やや微笑んだ状態にしておくとよい。


NO.2 M
○ブレスがきくようになり、勘が戻ってきた。まだのどにきている。
口奥の軟口蓋、あるいは、その上(鼻に抜く)にあてなければ、「流れ」はできず、口先だけで歯切れてしまう。やや強くブレスで出すと、うまくいくが、共鳴に注意。
課題は、あてた点をのどの奥に移動させ、目鼻の先に集めること。

○声が出なくても正しいポジションで歌うこと。

c-d-e-f-g(ア)のスケールの練習。
のどの奥を開けること。
身体(あくび)の型
a-b-c-d-eでジラーレ後、口奥にあてていく。
ブレス40秒、呼気の支え


NO.3 
声は出ているが音が下がる。

「ア」でならgまで、階名では、c、d、eは口先になる。
まともな発声を感じたときはどうしてうまくいったのかわからない。

g・・まで完全に。
e発声に悪い癖がついたかも。

のどが洗われた。

G-gの低音での練習がよかった。

aから上は特別、

cのあて方。歌うときは崩れがち、注意。
歌の流れの押しが足らないのは、鑑賞経験の足りなさ。


風邪の後遺症が安定しない。

欠点があらいざらい露わになった。
高音は、両足の内側に力を入れ(呼吸にさしつかえてはならない)

あごを絶対上げず(引きすぎもせず)ほおを引き上げ、

軽く目線を目鼻先に集中、一点を見つめ、そこにあてるつもりで出す。
もう一歩奥にひびきがこないし、のどにつかえている。

あごを心持ち引くと、高音にのぼりやすい。

たまに眉間にひびく(というより通じる)。

不調では、意識的に行うこと。
視線の集中(発声共鳴)
下半身~緊張させすぎず、歌いやすい体勢に。
高めにとること。

(音程)足の位置を上下させてかえってよいときもある。
ほお骨にぶつけるイメージ。

miでも出しにくい。

「ア」ならefまで安定して出る。

思うに正しい発声ではない。

(口先にきている、のどの奥から眉間に抜けていない)
毎日、休まず発声すること。

風邪をぶり返さぬよう気をつけること。
常に基本に戻り、歌に走らないこと。
毎日テープを聴き、発声を体得すること。
腹筋を鍛えなおすこと。特別に訓練を要する。


(健康に支障がないのに声が治らないのは、体力不足)
(1)身体を使わず、のどで歌いがち。
(2)ブレスが続かない。自然な呼吸ができていない。
(3)miがまたきれいに出ない。

(cdefが同じように軟口蓋手前で当たり、その上部がもっと上にひきつけられていない)
音が跳ぶとき(特に上がるとき)せり上げず、しぜんにソ・ドではなくソ~ドを。
その音に最初からあて、最後まで保つこと。
これができないのは口先でやっているからで、のど奥を開けたままの保持ができていないため。

 

(呼吸法と発声法)
音を切らず、ひとつの流れにしていくこと。
音の上下が目立ってはならず、のど上から鼻へ抜いてひびかせることで声を操る。
歌詞の歌い方:特に音程が跳ぶとき要注意。
「あえいおう」の口形をかえてはならない。

のど奥は同じ、ひびきは切れない。

「あえいおう」の区切り目で閉じないで次の音に続ける。


NO.4
鼻に一本通るようになった。
未熟すぎて模倣もできない。上向き加減。
低音から中高音域まで楽に出せたが、後半deはかすれた。(疲れか)
丸みがない歯切れのよい口先にくる声で、腹筋によるコントロールはできない。
日常に戻りかけてきた。

「ア」以外での高音域はまだ不可、「ア」もかなりのどに負っている。

こういう状態のときは使いすぎないこと。

声はよく出て音程は取れていたが、発声はもうひとつ。


(コールユンブンゲンNo.29、コンコーネNo.9完)
途中で一息いれたり、姿勢を変えたりすると好転する。

上半身、下半身とも緊張させすぎず、重心だけぐっと深いところにもっていく。

(のどは、もちろん自由にする)

腰の筋力で支える。あご閉めること。


NO.5
かすれ声「胸に力を入れすぎている」といわれる。

のどに負担なし。コントロールしにくい。

ef無理。

風邪再発に厳重注意。
「無表情ではいけない」

柔らかさ、軟口蓋へのひびきがなく硬い声が続いている。

ほおにひびいても素直に発声できず、腰の支えもいまひとつ。

「毎日柔軟体操を」
下半身の緊張も100%ではなく重心を落とした。

柔軟性をもたせた姿勢が必要。



NO.6
高音共鳴あてる練習を。

特にep(・・)。c以上の切り替え。
コンコーネNo.30半分上がる。下がりがち。後半やや疲れ。
鼻の中途までは、共鳴した。
高音が出にくくなった。

c以上、口腔が上がらない。

声(音色)の研究

高音(広域gまで)の柔発声(特にi、u段)
e(ミ)
きちんとあたっていない。
Miの場合:あらかじめのどを開けておく。

あまりに口を横に引かず、エの口形くらいでのどで調整してミイと出す。
音の流れに気をつけて。高音をc-e-gをのどのあいた状態でそろえられるように。

 

ポルタメント
ひびかないとき
(1)胸を張っているか
(2)顎をひいて眉間にあつめているか(上に響かない)
(3)下半身の支え(重心と腰)
声をひびきであつめる。
口は開けすぎない、上にもっていく。
下あごの脱力、また舌の脱力。
のど声が多い。
腹の底(全身)から声を出すこと。
鼻にひびかせる、柔らかく出す。
迫力に欠ける、強さとクレッシェンド、デクレッシェンド。
感情(エモーション)、歌詞の内容(イマジネーション)
リズムが早くなりがち。あわてず落ち着いて、情をこめて。


NO.7
張りのある生活(芸術は生活の反映)
プロから技術を盗むこと。

声の切り替え、感情のこめ方。
クラシックの発声(柔らかく)


声が自由に出るためには
1.体(胸・腰・足)の鍛錬
2.のどの鍛錬
芸術はあくまでcover、

根本は発声にある。


ひびきはカンツォーネ
十年かかる。

発声できるまで歌はおあずけ。

もう二年で安定させよ。
常に声が出るためには常に声を出している毎日へ。
のどを鍛えよう。
高音のフォルメントが決め手。


NO.8
ベルカント唱法。

顔面、胸にひびかす。
「ひびき」ひびきの中で歌う

(あついときが/アエイオウ)
尻を上に引き上げ、胸を出す。
サビの部分は個性的に歌っても、導入、抑え。

作詞作曲者の意図を汲んで歌う。
マイクはひびきに敏感。大声は必要ない。
ひびいているときは離せる。

ただの大声では離すと雑音に消される。
呼吸維持15s~30s


NO.9
○ Eでエーエーエー
のど仏を最下位の状態にして
ゲー
ギー
ゴー
呼吸法:横腹、腹後に入るはず。
あごを自然に。前にも出さず後ろにも出さず。
鉛筆を歯にくわえて、親指をかんで、

人差し指をのど奥にさしこんで(舌根を下げる)
深い声:後ろ腹、横腹、ただの空洞
声の出る場所:のど仏、最下位に固定(B)。

胸の辺り(A)から声が出てくるようにする。
高音のとき(上にもっていく意識ではなく)下に押し下げる。

強くひっぱっていく。
高音に行くほど、のどをつめてはいけない(そのまま広げておく)
Bを固定、Aをかすって頭に抜く(高音も。高音ほど胸の支えをしっかり)
高音になるほどより深く。上下にひっぱる。


NO.10
腹筋から声を出す練習
犬の吐息ハッハッハッハ(四分音符で、八分音符で、三連で)
5s(10s休み)の繰り返し(だんだん長くする)
深呼吸のど最下位。アッアッアッ
胸を柔らかくすること
深く呼吸するとき、のど仏が最下位になる。

そのまま、自然に腹の底から声を出す。
横筋、外筋を鍛えるよりも内から。
ほかのレッスンに応用。

ただし高音はやり過ぎない。(d~)
呼気がのどにつかえているから流れが流暢でない。
下腹部を使ってひびきでもっていく。
口の形も大切だが、そのひびきのもっていき方を工夫すること。


NO.12 
発声法のもっていき方が飲み込めた。

M、Vで誤らぬこと。注意。
のどにくる声、ほった声(音色がくもる)はダメ。
のど仏の下、少々震える。
シャツのボタンのやや下のあたり、乳首の中心点くらいが、

声のコントロールをする点。
柔らかく、枠をはめないで。
腹筋でビブラートさせる。
すべて支えの位置が○点であるように。
音程はイメージで取り(のどのポジションをかえない)同じポジションで歌うこと。
とくに高音のポジションが上がりがち。
高音は頭の両側にかすれる感じ。

イメージは力を下に。
のどは脱力、高音のとき、ひびくのは、頭声、胸点、二点のみ。
呼気で腹(とくに前)がひっこむのはよくない。

体(胸・腹・腰)は姿勢を維持。呼気は脇腹に。



NO.14
低音はよい(G-d)
素直に出すこと。わざとらしく上に響かせない。

できるだけ胸の下へ入れるように。
中音域(e-c)
低音域のよい発声からもっていくこと。

胸の支えを離さないこと。
高音域(d-)ファルセットに近い。

下むけに力を入れるように。
高音、後ろを開く。(ただし最終段階)
まずは前に。胸下に深くもっていくこと(力で)
発声練習の際、腹筋によるビブラートをきかせる。
下にいかず、クラシック風(悪い、顔面だけの)の低音にならぬよう注意。
同じ音色で歌う、胸のみで調節する。


練習法
息を思いっきり吸う。
最初は前腹から出るが、それを側面に背面に力で押しやり、

徐々にすぐ後ろに入るようにする。
側背筋はあけておかなければならない。(姿勢で注意)
姿勢を変えること
あまり前に出すと側背腹筋に息が入らない。
胸は出しても。腰は普通。側背腹筋柔軟にゆとりをもたす。


胸にもってきたときのよい点
(1)のど仏による音取りではなく胸が中心であり、

音色が統一されているから、音が跳んでも関係なくもっていける。

(高-低の移行が自然)
(2)力の配分によってのみ音を上下させるので、

軟口蓋にあたるところが制限されず、

胸の下へ下へとひっぱっていけば、音域も広がる可能性がある。
(3)のどに来ないから疲れない。
ことばが出しやすいし心をこめやすい。



NO.15
○息が、腹の底まで入らねばいけない。
(1)からだの活力、1睡眠、2食事(食後は90分以上あと)
(2)意識的呼吸(自然にできるまで)

声の出し方
声は素直に。ひびきは頭
支えは胸(胸心はひびき、微動)
ダメな例:頭声だけ、ほった声(ひびきがくもる)、のどにくる、胸だけ。
胸の支えをきちっとすると胸が開き、のどにかからずに素直に上に跳ね返った声が頭(鼻上)にひびく。
発声のとき、揺らすこと。内腹筋によるビブラートでひびきをもたせる。

(柔らかい声にするため)
力を入れない。(のど、その他)舌根を上げない。
イメージとして下へひっぱるだけ。
日常会話も胸で。

高声は中音域が固まるまで無理しない。

○第一段階、表面をひびかせる。
今日より第二段階、芯より増幅
怒鳴れる声(ポジションが確固としているため、呼気の強さでいくらでも強くできる)
ただし表面だけで怒鳴ってはいけない。

必ず胸にもってくること。
ポジションは胸である。
音色は同じで(とくに高音も)いわゆるクラシック風のほった声ではなく、

そのまま出る声でポピュラーと一致する。
ひびきを上に集めている。
もっとも必要なのは、腹底いっぱいに吸気をすること。
完全な発声は、胸の支えと頭の共鳴のみである。
高音で、ポジションが移らぬこと。

つまり、その音を精一杯出しているよりも、

強く(怒鳴れるか)出せる状態であるべき。


NO.17
○発声
ハミング・ゲ・ギ・ゴ・ガ
浅いところで薄っぺらくひびかせるな。

胸の芯へ入れる。


注意
姿勢:腰を引きすぎぬこと(背側筋が動きにくくなる。自然体に立つこと)
顔:目線はやや上向きに。あごを右手で押さえて固定させる。

下あごが出ないよう強く押さえる。のど仏は最下位置に。
ことばは深いところで発する。

ことばを口先でいわない。
アエイオウも固定された口形で。高い音もなるべく口を開かずに。

(開けば楽だけど薄っぺらい)
あまり上だけでひびき過ぎないように必ず胸にもってくる。
上にいくほどひっぱり、腹筋を使ってゆらす。
腹の横後ろに空気(吸気)が入るように訓練するべきである。
顔の向きは上向き下向き大して関係なく、やや上向きがよいが、最も大切なのは、下あごが引かれた位置で口の形が固定されており、高音や発音にかかわらず胸の下へもっていく発声法である。


NO.18 
発声(1)
ハミング-ゲ-ギ-ゴ-ガ
のどの下を鳴らす。
共鳴が二分されてしまう。深く入らない。
心から上へ、のどは通過。
ポジションが正しくないとスムーズに息がまわらない。
はじめは声にならなくてよい。
肋骨の中心の下側よりも下。

発声(2)
四分音符四つでゲ-ゲ-ゲ-ゲ
声をためる。
生声をそのまま出さない。
声をひっこめるように出す。(ただし前に出す)スムーズに。
ほった声、上声はダメ
腹筋(内筋)の鍛錬(ひっぱりが弱い、体がついていかない)
たまに胸をはずすことあり。
あごの開け方 あごを前に出さない。あごはひいて。
高音 眉間にひびく意味が分かる。

今まで思っていたように直接頭の上に抜くのではなく、せいいっぱい胸の下にひっぱるとのどに引っかからずに、ひびきは上にいき、頭声となるのである。


NO.19 
○Bastianini鑑賞
A(頭の上のほう)…ひびかす
B(芯)…支え
ポジションはのどの下
根源はあまりきれいでない声
Aのみ→浅い声、芯がない
Bのみ→ほった声、音色がくもる、つくった声
A+Bの相互相関練習。
1)のどのポジション(プレスメント)の固定
2)腹筋(支え)―体作り→犬の呼吸

○やや鼻風邪
芯にあて深くえぐっていく。
あいまいに広がり下に食い込めないのはダメ。
よい発声は声が胸におちる感じ。
高音時、オクターブ高い倍音(頭声)が聞こえる。
ポジションを維持して、発音(ことば)する練習。胸で語ること。
うしろ、ほった声、浅い声はダメ。
前で勝負。
高音:ひびきを眉間の辺りであつめる。
低音:背中から後ろに落とす。
芯(発音・ことば)と音程、感情移入。
声は前へ。息の感じ(呼吸)は丹田から体の前を通って口、深く、輪を描くように。



NO.20
○支えができなかった。
押してひびかせた声は危険。
息の流れで発声すること。
遊びをもたせる。
発音の出だしが尻上がりにならないように。
ほらぬように。
支えが浅い。薄っぺらい声。
自分の感じとしてはc-eまでは、全く中音と同じ発声で

(下へひっぱって)出すべきで、音色をつけるべきでない。


頭部共鳴を入れる…カンツォーネ(uの発音との調和)以後の問題点。
横腹をもっと使うことで流れをスムーズに。(前腹は入っても崩れる)
腹の力(体)のトレーニング。前ではなく側背に。
高くいくほど支えを下へもってきて(あたりはかわらない)

低い感じで(高音を感じず)強く出す。(呼気で自然に)
体の芯からの一本の声の流れ…共鳴させるのではなく、声の芯を感じるべきである。
ひびきの焦点(勝負どころ)…眉間
ひびき…ほっぺた、顔前面
小刻みに頭の上で鐘がなればよい。


伸音
ビブラート…腹筋によるゆらしを加味すること。棒にしない。
腹筋から息の流れで自然にゆれなければトレモロだめ。


高音
腹筋のゆらしによって押し上げていく(呼気どおり)
胸から芯をはずしてはいけない。
がんばって声を出してはいけない。
常に流れに忠実に。柔らかくひびかせる。素直な声を出すこと。
余裕。強気。流れを大切に。
音程・リズムは第二の問題。



NO.21
○思いっきりひっぱる→○
中心に集中していないため、ひっぱろうとしても無駄な力がいる→×
浅い、腹でひっぱって切る→△


よい発声時
頭にひびきを感じる。共鳴、表面をひびかせること。(のどではない)
のど…高音時ほど下がる。
胸は常に感じている。
腹筋をゆらす。
深い声を出す練習
ゲギゴガ(声にならなくてよい)
横腹、背筋が痛い。
腹筋トレ(体が負けている)―毎日やること。犬の呼吸
横腹に入れる練習、背腹に入れる練習。


常に支えある深い伸びのある柔らかな流れで歌う。
ためを忘れぬこと(胸をはずさず声を出すこと)

吸気―最初をとくに気をつける。

あとは吐いたぶんだけ吸えばよい。
出だしがきっちりと鋭い声になるように。

丸くなってはいけない。
高音abcd(・・・・)→上にいくにしたがってひっぱり具合を強くする。

自分の意識がある。外に聞こえる(ひびく)音。
弱→強
低→高
同じにする。



NO.22
○発声
アリア
コンコーネNo.4
胸が大きく開いて胸全体(下部まで)ひびき

(のどで声が出るのではなく)表面は自然に呼気の流れでなり、

それは必ず胸とつながっており、

上あごから顔面にひびいて出るような共鳴をする。
のどではなく、左右の胸の両端のほうにひびきを感じるのがよい。

(ひびきの芯は胸の中心部である。)
体がひとつになった感じ。(発声時)
側筋、背筋、とくにこの二つを感じる。(呼気の源として)
ポジションを深く下に思いっきりひっぱることへの移行が、

かなり意識的にできるようになった。

(やりすぎると前に出ない声になってしまう。)


NO.23
発声
コンコーネ7
中音域がややかすれてひびかないのは、ポジションがあっているためで、過渡期。
高音は-gまで頭声のような感じで出ているが、胸は芯にひびいているうちはよい。
欠けているのは、腹筋による自然な呼気による押し上げ、ひびきのファルセットがほしい。


高音
まだ共鳴の方向づけができていない。
のど仏の位置はよい。
下にひっぱる力が弱い。

胸の下中心に深く掘り下げ、その跳ね返りが頭部に共鳴する。一段階が不可。
唄、高音が上中心に出すぎている。

(あきすぎている)マイク割れする、聴き心地が悪い。
高音はのどが上がらぬよう上にあつめるようにもっていく。
口の中は開いて口先だけ閉じる。


NO.24
発声
コンコーネNo.9
僕が思っているより、表面的な方向にもっていっているほうがよい。
頭からの上からのひびきと下からの息がミックスした、ビリリーンとした声。

(延長線上)
のど奥を深く開けたままのほった声はいけないのであり(今の段階では)、

必ず前にもっていくこと。とくに声の出だし。
鋭利な刃物のように鋭く。丸い声はいけない、とくに注意を要する。(ゲ~も)
あてるべきところ(発声)に最短距離で。

(cf.球のスウィング、柔道の投げ)

高音発声(d-g)もっとも大切なのは、

(上の音の)意識を低く抑えることで、

cまでは、胸(低音と全く同じ)-gまでも、胸あってこその頭のひびきではないか。

(ただし、腹筋力で相当カバーすること)
前で勝負。
のど仏最下位。あけっぴろげな声にならぬため、

共鳴の震源は胸の深いポジションに置く。
腹筋による押し上げ。ビブラートをかける。

胸下中心であったが、それでもビブラートをかけるとだいぶ出しやすくなる。

(本当はもっと腹筋を使うはず)
高音発声時のビブラートも忘れずに。
正しい発声(自己トレ)
高音は無理しない。
ハミング。ドレミレドをゲ(ギ、ゴ、ガ)で調整。

ただしやりすぎないこと。
腹筋と発声。(横隔膜の運動)を結びつける練習。
ドドミミソソミミドド(ゲーーーーーーーーゲ)
今のところ体が一体になっていない。ほとんどリズムがずれている。
スタッカート気味(腹から出す)肋骨、横隔膜を動かす。

息の流れをすべて声にする。
息のほうが勝ってしまう、声が前に出ないのはだめ。
胸によく入っている声でも、表に前に出ていなければかえってよくない。


頭部共鳴の課題。
(1)一本、頭のほうへ声を通して。のど最下位で(基本事項)
(2)腹筋によるビブラート(同時)
(3)鼻上、眉間に通す、前方(視線上)に勝負をもっていく。(方向を前に)

表情筋の問題
どんなに苦しい(高い)音でも、そうであればあるほどにこやかに。

ほおの弛緩が首、あご、肩の線まで全体に及び、音色が変わる。

癖をつけてはいけない。

iとeの区別。(ウムラウトしないように)
舌根をゆるめる。

腹筋はうまく作用しなかったが、胸下でのビブラートはよくできた。
鼻の裏の共鳴腔がよくあいていて、高音にひびきやすかったこと。
気分的に、明るく、ほがらかに。
自分でも調子のよさは感じたが、偶発的な裏づけのない

(理論的には納得できない)よさで、あまり腑に落ちない。

ただ、自然な声が出ていたように思う。


NO.25
発声
ポジションを深くする練習(コンコーネNo.9を使って)…めまいがする。

NO.26
評:低音、中音は確実になってきた。
高音…体のほうがまだ負けているが、ビブラートが少しついてきた。
歌…フレージングがよくなった。(Olatrelanotte)


日本歌曲(縦割り)ま|つしま|ぁあの|ぉ~
西洋歌曲(横割り)Ila ser……∥ひとつのフレーズの流れで聴く
背筋がまったくついていない(体作り、待つしかない。)
呼吸…息の流れに乗せて出す。
胸下へ支えを、掘り下げて→ポジションを動かさず、腹から息を吐く、送り出す。


高音
後ろに抜かない。
ファルセットを感じる。とくに耳横(急所)に共鳴。
軟口蓋をあげる。ほお骨を上げる。
肺心臓付近の肋骨が共振。ここでファルセットの感じをつくる。


中高音のファルセット
上前に通す。
中高音(a、b)、ほお骨の辺りに感じる。
腹筋の力で胸をゆらす。(この中ががらんどうで音が回転する感じ)


F ポジションのみ 胸部10 頭部0
G
A 胸部9 頭部1
B
C 胸部8 頭部2
D
E 胸部7 頭部3 胸のファルセット
F 胸部中心3 胸のファルセット
G 胸部6 胸のファルセット
a 胸部5 頭部5 意識的に可
b 胸部4 頭部6 要注意
c 胸部3(5) 頭部7(5) 可
d 胸部2(4) 頭部8(6) ゆらしにくくなる
e 胸部1(3) 頭部9(7) 一本調子
f 胸部 (2) 頭部(8) あけっぴろげになりがち
g 胸部 (1) 頭部(9)
()内が理想


E、Fは完成
G、aは安定させること、ほお骨に感じる。
d、eは課題
b→c→d、息の流れでもっていける
高音になるほどファルセットをかけにくくなる。つまり、背筋による息の多大な流れが必要になるので、それだけの体がついていかず、だめ。


音の高低でポジションは動かさない。
ゲゲゲゲゲc-d-e-d-c(クレッシェンド、デクレッシェンド)
息の流れの中で。フレージング。
音と音の間が切れてはいけない。
ポジションは同じで意識内で。

調節は肯定ではなく強弱、流れ(フレージング)を整える。
胸上だけで歌っていることが多いので(とくに高音)、

常に(少なくともc、dは可、ましてやa、bは)ゆらして息を出し、

その流れに音をのせてやることを忘れない。

ただし、声は支えがあって、前に出ていなければならない。
本来発声すべき声帯は、最下位置にある。

しゃべるところやその周辺はただの通り道。この最下位置で声をしゃべること。
ここが唇のように動く、息の流れでちりちりするのが分かる。(胸の中心部)


NO.27
絶不調。昨日Sで上声を使いすぎたため。
矯正。胸に入らぬとき、ポジションを下げた声にならぬ声ではいてやる。
ひびきすぎぬように。(薄っぺらな声で)
睡眠不足、不調のときになりがちである。
内腹筋強化(犬の呼吸)二年間の課題。
ピアノやバーベルを持ち上げるとき腹は出る。
腹をひっこめて出すのではなく、腹を押し倒す。
ゲェゲェゲェ、ゲッゲッゲ
ポンプのように。
後ろに抜いて逃げない。(日本人がよくやる)…高音域も。
支え(焦点)あるしっかりした発声で。ポジション厳守。



NO.28
胸の維持。胸筋と肋骨の間に声が、「←」の方向で伝導。
低声よし
中声まあまあ
高声よし。(金属的ファルセット)
鼻頭、眉間に集中。感じる。ひびきの調節。
胸の下へ下へと入れるのを忘れずに。
呼吸法
胸、外筋、横隔膜を保持。
外筋で腹をひっこませてはならない。

ビブラートが維持できぬ、支えが崩れる。
内からだけ呼気する。
外目から腹がひっこむのはだめ。ほとんど静止。
その前までの状態で歌えるように充分にする。
かならず、後でしぼりだせるだけの余裕を残しておく。
ダメな声
押し出した声、汚い声。

あごのど声だけひびく。→息を送ってやる
薄っぺらい声(表面のひびきすぎも含む)、拡散する声→胸に入れる
ほった声、前に出ない声→後ろに抜かず前に出す。

高音
共鳴腔を感じるよう。
胸にもひびく。中心はもっと下。芯はもっと下(丹田)。
のどは極力鳴らないように。(ひびきやすいのはさける)
胸に入れ込んでやる。


上(前)と下の2方向。
間違ったクラシック的な発声→前面に出ない(よってひびかない)、後ろにぬく。
一段階:ポジションの固定(のど仏の最下位置)一点(胸深部)に集める。
二段階:軟口蓋へ自然とはねかえったひびきのあて方。高音ほど下へもっていく。一点。
三段階:頭腔へのひびきと胸振との両立。

ふっきれて声が両方へ飛ぶようになる。


NO.29
矯正、ゲ~
舌を怠惰威厳出す。(前に出ないとき)→そのまま戻して、舌をひっこめる。
ややのど仏が上がり気味、注意。


体から声を出す(脱日本人)的発声方法の2通り
(1)最初から深くする。(そのポジションでは最初は声にならない)
(2)徐々に深くする。(従来どおり)
コンコーネNo.12を(1)でうまく吐けた。(ゴロゴロなる)
この練習は一人でやらない。

(1)で叫べる。
完全に胸下(胸よりも低い位置)で出る。
胸下に金属板みたいなものが入っていて、

ゲ~(ポジションを深くしていって)声が出そうもないところで実感。

腹からの呼気の勢いでふっきれて、その金属が共鳴するような感じ。
音程感覚はすべて胸より下の調節である。
胸振がすごく、ファルセットが伸びる。
心臓(内)がひっくり返って、へそ上あたりで楽器となっているような気がする。
肋骨の上辺りは従来よりもひびかぬ。下へいくほどひびく感じ。(胸骨)
叫べるのが発声。切れ味鋭い、転がす。

基本姿勢
顔面はやや上向き。あごを入れる。(手で力いっぱいあごと後頭部をおさえつけるとよい)

共鳴の方向意識
うしろをあけない。前方へ飛ばす(ファルセット)、意識的に前にもっていく。

(とくに高音は負けない)
胸からも共鳴ふっきれ。

ハミング
鼻に入れすぎない。(指でつまんで音色が変わらぬように)
のど仏とくに注意。下に下げる。
胸にもっていく。

ファルセットのつけ方
胸の真ん中をゆらすよりも、そこよりももっと下を張ってやる。
吸気→呼気
吸気…腹壁は保持、前腹は出さない。側筋と背に入る。
呼気…腹筋は拡がりこそしないが、決してひっこまず、発声時の張力は右下、左下の方向にある。側筋と背から呼気。


NO.30
中音域発声…高音発声の支え、余裕をもって。前に出す、うしろに抜かない。

やさしく甘い声にしない。(要注意)高音共鳴発声に差し支える。
a、b、cこの3音がとくに大事。ここまではできるはず。絶対に逃げないように。

声は、意識(イメージ)で千変万化する。
音程を感じてはならない。

あたるところは同じ意識だけの調節。
音に対する意識を低くもつ。思い切りよく。
高音になるほど姿勢を低くして。実際やや低くなる。
ふんばり。腰、背筋、横隔膜に緊張を感じて。胸から腹、背に押しやるように発声する。
思いっきりのよさと自信で。
背筋に振動(共鳴)が伝わるような発声。
常にファルセット(共振)で音をゆらしてもっていくようにすべきである。

レレ…レファミ
最初からゆらしておくと、自然にもっていきやすい。
頭部共鳴は今の段階(d、e)では不要。
同じポジションでひっぱってもっていける。

音色は全く変わらないはずである…ように思われる。
体、声ともかなり疲れぎみ。F-c(d)
息に乗せる。芯に肉がつくように。
共鳴、正しいかどうかの見分け方。
手をかざしても同じように聞こえる声。

こうすると、内部からの声が消え、客観的に聞ける。
表面がなりがち、胸に深くいれ、体を使う。
背筋(相撲取りと同じ筋肉のつき方)ここから空気を送る。
ポジションを深める練習(必ず胸のほうへ入れてゆらしてやること)
今は声にならないポジション。(のど仏は最下位になる)
d…変わり目。(開かず内側に深く入れること)薄いキンキン声になるのはだめ。
(吸気)→呼気→終止
必ず吸気する(止めるとき)吐いて終わらないこと。


NO.31
アペルト…開放。
カバーリング…日本人的、不要。
ジラーレ…パッセージ音以上で必要。技術。
b、c…アペルト(開放)
d、e、f…パッセージ音(転換)
g…ジラーレ(まわす)体の奥に入れてやる
アペルトでは不確実で高音への発展がない。
ジラーレ
肩は動かさない。(外筋はだめ)内筋で、内筋へ筋肉を閉める。集中させる。
基本、息を吐くこと。体を動かす。共振ができていない。
絶対に力で出さず、息の流れに乗せてやる。ひびきすぎないよう、のど表面で胸に入れてやる。体全体を使って歌う。

浅い声、ほった声を避けること。前に出す。ぬかない、ひっこめない。
首、あごを出さないこと。
表面が鳴りすぎている声、力でもっていっている声→自然なファルセットをつけられない、伸びがない。遠くまで届かない。だからよい声ではなく、とにかく胸に入れた(落とした)声を完成させなければいけない。
胸部共鳴を絶対に中心におき、固まってはねかえって上に共鳴するのを待つこと。

浅い上声は避けること。
方向ch(ハ)上あご
のどを鳴らさない。
胸に入れるポジション。
胸を動かす横隔膜。

のどを下げると生態が緊張する。
高音。少ない呼気量で出る。


NO.33
姿勢-自然体
高音にいくほど重心を下に構え、下半身、背骨(尾てい骨)方向へ通す。
表面は基礎練習では鳴らさず(声が浅くなりがち)深く胸に入れるほうを重点的にする。
胸に通す。今の段階では声の出ないポジションが本来正しいので、歌ってはいけない。

(浅くなりがち)
側背筋に吸気し、ためを置き、出だしをまとめる。
大地に自分を上から押しつける(しずめる)ように胸のポジションを維持して、

側筋背筋に力を加えて(方向は下方、前腹筋の収縮はダメ、

維持して横隔膜が根につくように)胸下で歌い、

腹(全身)の支えを感じて発声する。
高音では同じポジションでややかすれ気味でよい。
声の支えは背筋から尾てい骨へ抜ける。
雲をなでるように柔らかく突き抜けてしまってはいけない。

イ行(gi)の発声がよいマーマ(f)までやっている。「気品ある高音」
やや体調が悪いため、アペルトしすぎ、a、oではのどにかかってしまう。
c、dが転換点(ジラーレ)
アペルトにして開きすぎない。
ポジションは崩れなくなった。内腹筋が弱いのでひっぱれない。
胸に入れてやる。
持続力
伸ばせば、ポジションがあっていれば胸に入っていく。
とくに高音は入れてやる。
アペルト(開放)とキューズ(入れる)のバランス
アペルト…薄っぺらくならないように。薄っぺら過ぎるときはハミング、イ行。

胸に入れること。表面を鳴らさないこと。
キューズ…こもらないように。エ(ge)前に出すこと。息を流すこと。
声量でなく、声の芯の深さが大切である。

 

 

 

 

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