研究所OBによるレクチャー
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声を学ぶということ
声を学ぶということは、単に歌がうまくなることではありません。
福島英先生のヴォイストレーニングでは、人間そのものを鍛えることが目的になります。呼吸を深くし、身体を整え、感覚を育て、自分自身と向き合うこと。その積み重ねによって、ようやく一つの声が生まれます。音程やリズムだけでは、人の心は動きません。どれほど正確でも、身体の奥から出ていない声には生命力がないからです。
ここでは、研究所OBのレクチャーとシャンソンレッスンをもとに、芸術と身体の関係について、まとめておきます。ここに収められている内容は、単なる技術論ではありません。迷いながら芸術を続ける人々の、生きた記録です。(編集部)
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以下、レクチャー録
〇芸術家の迷い
歌を志す人の多くは、どこかで迷います。本当にこの道でよいのか、自分には才能があるのか、もっと別の方法があるのではないか。その迷いは、芸術を続ける限り消えません。
私は、劇団に入り、全国を巡りながら、それでも迷い続けていました。しかし研究所のヴォイストレーニングでは、その迷いを否定しません。むしろ、迷いながら進むことそのものが、人間を深くすると考えます。
一直線に成功する人よりも、遠回りをした人の方が、深い声を持つことがあります。なぜなら、迷いの時間のなかで、自分自身の感覚を掘り下げていくからです。芸術とは、効率だけでは成立しません。迷いのなかで積み上げられた感覚こそが、声に厚みを与えるのです。
〇身体と呼吸の芸術
研究所のヴォイストレーニングの核にあるのは、呼吸です。呼吸は単なる空気の出し入れではありません。感情、姿勢、意識、生き方、そのすべてが呼吸に現れます。浅い呼吸しかできない人は、浅い声しか出ません。逆に、深く息を吸い、深く吐ける人は、身体全体で歌うことができます。呼吸を鍛えることで、人間そのものを変えようとしていました。そのため、遠回りに見える訓練が続きます。
長く息を吐くこと、歩きながらリズムを取ること、単純な音を繰り返すこと。それらはすべて、身体の深部を目覚めさせるための訓練なのです。声は喉だけで出すものではありません。身体全体が鳴ることで、初めて本当の声になります。
〇シャンソンという教材
ここでは、シャンソンのレッスン記録が数多く登場します。なぜ、シャンソンを重視したのか。それは、シャンソンが言葉と身体を密接に結びつけた音楽だからです。
日本語だけで歌っていると、どうしても意味を追い過ぎてしまいます。しかし外国語の歌では、まず音やリズムとして身体に入れる必要があります。その過程で、言葉を身体化する感覚が育っていきます。
シャンソンは、感情を直接ぶつける音楽です。きれいに歌うだけでは成立しません。歩き方、呼吸、視線、身体の揺れ、そのすべてが歌になります。だからこそ、ヴォイストレーニングにおいて、も、シャンソンは、優れた教材となるのです。
〇耳を育てること
研究所のヴォイストレーニングでは、耳を育てることが極めて重要視されます。多くの人は、自分の声を出すことばかり考えます。しかし、本当に大切なのは、どれだけ深く聴けるかです。一流の表現者は、普通の人には聴こえない細かな揺れを感じています。呼吸の変化、重心の移動、言葉の圧力、わずかなテンポの違い。そうしたものを感じ取れる耳があるからこそ、深い表現が可能になるのです。
まず大量に聴くことが求められていました。ただ流して聴くのではありません。どこで息を吸っているか、どこで感情が動いたかを身体で感じながら聴きます。耳を育てることは、感性を育てることでもあります。そして感性が育つほど、声も変わっていきます。
〇このレクチャーの目的
このレクチャーは、単なる体験談ではありません。歌、演劇、身体、人生、そのすべてを繋ぐための話です。
福島英先生のヴォイストレーニングは、技術論に見えて、その実、人間論です。どう生きるか、どう感じるか、何を表現したいのか。その問いを避けたままでは、本当の声には到達できません。
ここでは、レッスン記録やレッスンの断片をもとに、芸術と身体の本質を掘り下げていきます。うまくなるためではなく、自分自身を深く知るために。そして、自分だけの声を見つけるために。このレクチャーが、その旅の伴走者となれば幸いです。
(1) 劇団と研究所との話
〇劇団生活の現実
私は、劇団で全国を巡りながら生活していました。百十公演から百二十公演を行う年もあり、常に移動しながら舞台を続けていたのです。同じものを食べ、同じ時間に起き、集団で生活する。そのなかで、いかに個性的であり続けるかが問われます。こうした集団生活の経験もまた、表現に必要な訓練だと考えていました。
人と同じ動きをしながら、そのなかで自分を失わないこと。これは舞台でも歌でも同じです。埋もれずに存在するには、自分自身の核が必要になります。劇団生活は厳しく、体力的にも精神的にも消耗します。しかし、その極限状態のなかで、人間の本当の声が現れてくるのです。
〇大きな声を出す意味
劇団では、大きな声を出すことが必要でした。照明が落ちてきた時、危険を知らせるために瞬時に叫ばなければならない。その経験によって、恥ずかしさなく声を出せるようになったと語られています。
研究所のヴォイストレーニングでは、この原始的な声を重視します。小さくきれいに歌う前に、まず全身で叫べることが重要なのです。本当に大きな声を出せる人は、小さな声も自在に扱えます。しかし、最初から小さな声だけで歌っていると、表現の幅が狭くなります。怒鳴ること、叫ぶこと、走ること。そうした身体的経験が、歌の土台になります。芸術は繊細さだけでは成立しません。むしろ荒々しい生命力こそが、人の心を動かすのです。
〇遠回りの価値
研究所のヴォイストレーニングでは、途中で違うと思うことがあってもよいと語られていました。ヴォーカルスクールに行きたいと思う人もいる。別の道を探したくなる人もいる。しかし、それも含めて必要な経験なのです。
芸術に無駄な経験はないと思います。劇団に入ったこと、日本舞踊を始めたこと、クラシックを学び直したこと。そのすべてが、最終的には表現に繋がっていきます。
若い時には、自分に向いているものは分かりません。やってみて初めて、自分の感覚が見えてきます。だからこそ、途中で迷うことを恐れてはいけません。遠回りに見える経験こそが、その人だけの声を育てていくのです。
〇歌だけでは足りない
研究所のヴォイストレーニングでは、声や歌だけを学んでいても、自分には足りないものがあると感じていました。何が不足しているのか分からない。しかし、人に伝わっていない感覚だけはあったのです。
研究所では、この分からなさを大切にします。すぐに答えを与えるのではなく、身体を通して探し続けることを求めます。
劇団で芝居をし、踊り、日本舞踊を学び、クラシックも学び直す。その過程で、自分の表現の輪郭が少しずつ見えてきます。歌は単独では存在しません。動き、呼吸、視線、感情、そのすべてが重なって初めて成立します。
だから研究所のヴォイストレーニングでは、芸術全体に心を開くことが必要だと考えるのです。
〇売れることと表現
研究所のヴォイストレーニングでは、売れている人が必ずしも歌のうまい人ではないという現実も語られていました。
芸能界では、歌唱力以外の要素も大きく関わります。人を惹きつける存在感、誰かに支えたいと思わせる力、しぶとく生き残る執念。そのようなものが必要になるのです。しかしだからこそ自分の感覚を見失ってはいけないと考えていました。
売れるためだけに歌うと、表現は空虚になります。本当に大切なのは、自分が何をかっこいいと思うかです。その感覚を持ち続けるためには、周囲に流されず、自分自身の身体感覚を鍛え続ける必要があります。芸術とは、他人の評価だけで成立するものではないのです。
〇個として立つ
劇団では集団生活を送りながらも、個人として立つことが求められます。同じ稽古をし、同じ舞台に立ちながら、それでも埋もれない存在でなければなりません。レクチャー者は、ここにいることは、一人でいられる環境なのだと語っていました。福島英先生もまた、集団のなかで自分を失わないことを重要視します。
歌は、最終的には一人で立つ表現だからです。誰かの真似ではなく、自分自身の感覚で歌わなければ、人の心には届きません。そのためには、自分の原点に何度も戻る必要があります。何が好きなのか、何に惹かれるのか。そうした感覚を掘り下げていくことが、表現者としての芯を作っていくのです。
〇やり直せるという感覚
研究所のヴォイストレーニングでは、四十歳からでもやり直せるという言葉が印象的でした。芸術の世界には、決まった正解がありません。途中で違う道に進んでも、また戻ってくることができます。
研究所のヴォイストレーニングでは、この柔軟さを大切にしています。若い時に一つの答えを決めつける必要はありません。むしろ、迷いながら経験を積むことで、人間としての厚みが増していきます。
劇団に入ることも、歌を離れることも、別の芸術を学ぶことも、すべて無駄にはなりません。その経験が身体に残り、やがて声の深みになります。人生の遠回りそのものが、表現の力になるのです。
〇頑張り方を学ぶ場所
研究所のヴォイストレーニングでは、技術を教わるだけではなく、自分の頑張り方を学んびました。福島英先生のヴォイストレーニングは、単なる技術指導ではありません。どう努力を続けるか、どう迷いと向き合うか、その姿勢まで含めた訓練です。すぐに結果が出るわけではありません。しかし、知らず知らずのうちに、芸術と向き合う体質が作られていきます。
私は、もし研究所に来なければ、違う方向に進んでいたかもしれないでしょう。人は、どんな環境に身を置くかによって変わります。そして、その環境のなかで積み重ねた感覚が、一生の表現を支えていくのです。
(2) シャンソンと身体
〇日本のシャンソンの限界
日本のシャンソンがなぜ弱く聞こえるのか、ただ外国の歌を真似しているだけでは、本当の意味でのシャンソンにはならないのです。フランスの歌には、その国特有の呼吸、歩き方、言葉の重みがあります。
日本人がそこを理解せずに表面的な発音だけを真似しても、歌に深みは生まれません。歌の背景にある身体文化を理解することが必要だと考えていました。音程や発音だけでなく、どう呼吸し、どう立ち、どう感情を運ぶか。そのすべてが歌になります。
シャンソンを学ぶことは、異文化の身体感覚を学ぶことでもあるのです。
〇音符からはみ出す感覚
n音符をそのまま歌っているだけでは歌にならないでづ。多くの人は、楽譜通りに歌うことを正確だと思っています。しかし、一流の歌手は、音符の枠を超えて歌っています。ほんのわずかな遅れや揺れ、呼吸の圧力、その細かな差異が表現を生み出します。
研究所のヴォイストレーニングでは、この感覚を身体で学ぶことを重視します。頭で理解するだけでは足りません。歩く感覚、呼吸の流れ、身体の重心移動を通して、リズムを体得する必要があります。音符を守るだけでは、音楽は平面的になります。音符の外側にある生命感をどう表現するか。それが芸術の核心なのです。
〇足音のリズム
パタン、パタンという足音のリズムは、レッスンで何度も繰り返されていました。これは単なる発声練習ではありません。身体にリズムを刻み込むための訓練です。日本人は三拍子が弱いと指摘されていましたが、それは身体の揺れを経験していないからです。リズムを頭で数えるものではなく、身体で感じるものだと考えます。
歩く感覚と歌のリズムが一致した時、初めて自然なグルーヴが生まれます。だから、ただ拍を合わせるだけでは意味がありません。追いかけてくる足音の恐怖や、不安な感情まで身体に入れて歌う必要があります。感情と身体が結びついた時、リズムは生きたものになるのです。
〇コピーしてはいけない理由
原曲のそのままのコピーで終えてはいけない。これは、真似をするなという単純な意味ではありません。歌の奥にある感覚を、自分自身の身体で再構築しなければならないということです。一流の歌手の表現には、その人だけの人生と身体があります。表面だけ真似しても、本質には届きません。
まず大量に聴くことを求めます。そのうえで、どこで呼吸しているのか、どこで重心が変わるのかを感じ取ります。そして、それを自分の身体で試していくのです。コピーではなく、自分の身体で発見した表現だけが、本当の意味で生きた歌になるのです。
(3) 『セシボン』と音楽表現
〇『セシボン』の言葉感覚
日本語として意味を理解するよりも、音の流れを身体に入れることが重要です。言葉を説明として扱うのではなく、音楽として扱います。「抱きしめてる」「胸で聞くのよ」という日本語も、単なる意味伝達ではありません。子音と母音の響き、息の流れ、アクセントの位置によって、歌の表情が変わります。
言葉をきれいに読むだけでは足りません。どこで息を押し込み、どこで抜くのか。その微細な差によって、聴き手に届く感情が変化します。歌詞は文学である前に、まず音であり、身体であるということを、このレッスンは示しています。
〇リズムの重心
『セシボン』では、「ダンダンダン」という三拍の感覚。日本人は拍を均等に取りすぎる傾向があります。しかし、三拍子では、拍ごとに重みが違います。どこを踏み込み、どこを抜くかによって、音楽の揺れが生まれます。この重心感覚を非常に重視します。身体が揺れなければ、歌も揺れません。
逆に、身体に自然なリズムが入ると、声は無理なく流れ始めます。これは単なる音楽理論ではなく、身体訓練です。歩き方、座り方、呼吸の深さ、そのすべてがリズムに影響します。歌とは、身体そのものが音楽になる行為なのです。
〇音色を変える力
同じ音程でも音色を変えることが大切だと語られていました。音を外さないことだけなら、多くの人ができます。しかし、一流の表現者は、同じ音に複数の感情を込めることができます。
研究所のヴォイストレーニングでは、この音色の変化を、息の方向と身体の圧力で作ります。声帯だけで変えようとすると、表現は浅くなります。身体全体の響きが変化した時、音色も変わるのです。
『セシボン』のような曲では、甘さだけではなく、切なさや孤独も同時に含まれています。その複雑な感情を、一つの声のなかに入れていく必要があります。だからこそ、歌は単純な発声技術では終わらないのです。
〇『セシボン』の言葉処理
『セシボン』では、日本語を説明的に歌わないことが重要です。「抱きしめてる」「胸で聞くのよ」という言葉を、日本語としてきれいに読むのではなく、音として流すようにすることです。
言葉を音楽の一部として扱っています。子音を強く押し込みすぎると、リズムが止まってしまいます。逆に、母音だけを流しすぎても、輪郭がぼやけます。
大切なのは、言葉を息の流れに乗せることです。どこでアクセントを入れ、どこで抜くのか。その細かなコントロールによって、『セシボン』独特の柔らかさと色気が生まれます。意味を説明するのではなく、響きで感情を伝えることが必要なのです。
〇アクセントの位置
「抱きシーめてる」のように、どこを伸ばし、どこを押さえるか。日本語は平坦に流れやすいため、アクセントを意識しないと音楽が平面になります。言葉のなかの中心音を明確にすることを求めます。
特に『セシボン』では、「シ」「キ」など、響きの芯になる音を意識することで、フレーズが立体的になります。ただし、アクセントを強調しすぎると不自然になります。あくまで呼吸の流れのなかで、自然に浮かび上がらせる必要があります。アクセントとは、叩くものではなく、身体の流れのなかで自然に生まれるものです。
〇リズムを止めない
『セシボン』では、歌詞に集中しすぎるとリズムが止まりやすくなります。そのため、「ダンダンダン」という土台のリズム感覚を常に持つことが求められていました。歌詞より先に身体の流れを作ることを重視しています。
リズムが身体に入っていれば、多少言葉が崩れても音楽は止まりません。しかし、リズムが失われると、どれだけ発音を整えても歌は死んでしまいます。だから、まず身体を揺らし、呼吸を流し、その上に言葉を乗せる必要があります。『セシボン』の軽快さは、身体の流れによって作られているのです。
〇音色を変える意識
「同じ音程でも音色を変えること」です。『セシボン』は、単に甘く歌えばよい曲ではありません。柔らかさのなかにも、切なさや孤独感が必要になります。その変化を息の方向と身体の響きで作ろうとします。
喉だけで音色を変えようとすると、声が浅くなります。身体全体の響きを変えながら歌うことで、自然なニュアンスが生まれます。だから、「セシボン」という言葉でも、毎回少しずつ色を変える必要があります。音色の変化が、歌に奥行きを与えるのです。
〇コピーでは終わらない
そのまま原曲のコピーをしないことです。。ただ真似するだけでは、自分の歌にはなりません。まず大量に聴くことを求めます。しかし、そのあとで、自分の身体を通して再構築する必要があります。どこで呼吸し、どこで力を抜くのか。それを自分の感覚で見つけなければなりません。
一流の歌手には、その人だけの身体があります。同じように歌っても、同じにはなりません。だから、自分自身の身体に合ったリズムと響きを探す必要があります。コピーではなく、自分の身体から出てきた表現だけが、本当に人へ届く歌になるのです。
〇『セシボン』で学ぶ基本
『セシボン』で学ぶべきことは、唱法ではありません。呼吸、リズム、アクセント、音色、そのすべてを一つに繋げる感覚です。この曲を通して、歌の根本を教えています。音程を合わせるだけでは歌になりません。身体にリズムを入れ、呼吸を流し、その上に言葉を乗せる必要があります。そして、その言葉を音として扱いながら、感情を響きへ変えていくのです。
『セシボン』は、一見シンプルな曲ですが、そのなかには歌の本質が凝縮されています。この曲を深く学ぶことは、歌そのものを深く学ぶことに繋がるのです。
(4)『オー・シャンゼリゼ』とリズム感覚
〇『オー・シャンゼリゼ』の軽さ
『オー・シャンゼリゼ』では、まず軽さを失わないことが大切です。日本人は、どうしても言葉を重く置いてしまいます。しかし、この曲では、歩きながら街を眺めるような軽快さが必要になります。「オー・シャンゼリゼ。あなたを待つよ。オー・シャンゼリゼ。いつも素敵なことがある」と繰り返し歌いながら、重く歌わないことです。
シャンソンだからといって重厚に歌えばよいのではないと考えています。軽やかさのなかに呼吸を流し、言葉を前へ運ぶことが重要なのです。音程よりも、まず身体の流れを止めないこと。そのうえで、街の空気感を身体に入れて歌う必要があります。
〇三拍子と身体の揺れ
日本人は、拍子が弱い。『オー・シャンゼリゼ』でも、ただ拍を数えて歌うのではなく、身体を揺らしながらリズムを感じることが求められます。「ターンタラーンタラーン」という流れを、頭ではなく身体で覚える必要があります。
リズムを数えるのではなく、身体の動きそのものだと考えています。歩く感覚、呼吸の流れ、腰の揺れ、その全部が音楽に繋がっています。だから、立ったまま固まって歌うと、リズムが死んでしまいます。身体が動けば、声も自然に流れ始めます。リズム感とは、身体感覚そのものなのです。
〇言葉を音に変える
『オー・シャンゼリゼ』では、言葉を日本語として説明しすぎないことです。言葉を意味だけで歌うと、歌が平坦になります。「オー・シャンゼリゼ」という響きを、音として身体に入れることを求めています。母音の流れ、子音の跳ね方、息の抜け方を音楽として扱うのです。
言葉をきれいに読むだけでは足りません。どこで息を押し、どこで抜くのか。その流れを感じながら歌う必要があります。歌詞は説明ではなく、音楽の一部です。言葉を音へ変換する感覚を持った時、歌に立体感が生まれます。
〇耳で聴き身体で返す
まず徹底して聴くことです。ただし、表面的なコピーをするのではありません。どこで息を吸っているのか、どこで身体が揺れているのか、そうした感覚まで聴き取る必要があります。そして、それを自分の身体で試していきます。耳と身体が一致しなければ、本当の歌にはならないのです。
だから、大量に聴き、身体で繰り返し試すことが必要になります。頭で理解するだけでは、声は変わりません。耳から入った感覚が身体に落ちた時、初めて歌が変わり始めるのです。
〇楽譜通りでは終わらない
楽譜通りに歌うだけでは歌になりません。『オー・シャンゼリゼ』も、ただ音符を追って歌うと平板になります。本当に大切なのは、その外側にある揺れや呼吸です。ほんの少し前に入る、少し遅らせる、そうした微妙な差によって、音楽が生き始めます。
この感覚を理屈ではなく身体で掴むことを重視しています。だから、まず身体を開き、呼吸を大きくし、そのうえでリズムを感じる必要があります。音符は最低限の地図でしかありません。その外側に、本当の音楽があります。
〇シャンソンを通して学ぶもの
『オー・シャンゼリゼ』を通して学ぶべきことは、単なるシャンソン唱法ではありません。呼吸、リズム、言葉、身体、それらを一つに繋げる感覚です。シャンソンを教材として使いながら、音楽全体に通じる基礎です。
どんなジャンルでも、最終的には身体から音楽を作らなければなりません。だから、歌詞だけ覚えて歌っても意味がないのです。身体に音楽を入れ、その身体から声を出す。その基本を徹底して学ぶことが、このヴォイストレーニングの目的なのです。
〇身体で覚える音感
音感を頭で理解するものではなく、身体で覚えるものだと考えています。、理屈で覚えるより、まず繰り返し身体に入れることが求められていました。一音でも確実に取れるようになること。その積み重ねが重要なのです。急いで広い音域を出そうとすると、身体の支えが崩れてしまいます。だから、半音の違いを身体で感じる訓練が必要になります。
耳で聴き、身体で反応し、声として返す。この循環ができた時、本当の音感が育ちます。歌は知識ではなく、反射に近い感覚だからです。身体が自然に反応するまで繰り返すこと。それが研究所のヴォイストレーニングの基礎になっています。
〇感覚を育てる時間
一つの感覚を掴むまでに五年かかることもあると語られていました。現代は、すぐ結果を求める傾向があります。しかし時間をかけて感覚を育てることを重視していました。芸術は、短期間では完成しません。むしろ、遠回りの積み重ねのなかでしか育たない部分があります。
大量に音楽を聴き、何度も失敗しながら、少しずつ身体に入っていくのです。その過程で、耳も変化していきます。
以前は聴こえなかった細かなニュアンスが、突然分かるようになる瞬間があります。その変化は、努力の量だけでは測れません。時間をかけて身体が変わった時、初めて見える世界があるのです。
〇世界基準の耳
日本の基準だけで満足してはいけないと考えていました。世界には、0.01秒単位でリズムを操る歌手たちがいます。その世界を知った時、日本の歌の甘さも見えてきます。しかし、それは絶望するためではありません。本物を知ることで、自分が何を学ぶべきかが明確になるのです。
耳が育つと、以前は良いと思っていたものが物足りなく感じることがあります。それは成長の証拠です。だから研究所のヴォイストレーニングでは、常に本物を聴き続けることが求められます。高い基準に触れ続けることで、自分の身体も少しずつ変化していくのです。
(5) 声と呼吸
〇呼吸がすべての基盤
研究所のヴォイストレーニングでは、呼吸がすべての基盤になります。多くの人は、声を喉だけで出そうとします。しかし、それでは声は浅く、不安定になります。本来、声は呼吸の流れによって生まれるものです。息が深く流れた時、声も自然に広がります。
単に長く息を吐くことが目的ではないと語られていました。大切なのは、深い呼吸によって身体全体を使えるようにすることです。呼吸が変わると、声だけでなく、姿勢や感情表現まで変化します。呼吸とは、生き方そのものを映し出すものなのです。
〇大きな声と小さな声
研究所のヴォイストレーニングでは、劇団より大きな声を出せるようになりました。危険を知るためには、恥ずかしがっていてはいけません。大きな声を出せる人は、小さな声も繊細に使えます。しかし、小さい声だけで歌っていると、表現の幅は広がりません。
研究所のヴォイストレーニングでは、まず大きな呼吸と大きな声を作ることを重視します。身体全体が開いた状態を経験することで、そこから細かなニュアンスが生まれるからです。繊細な表現とは、弱い声ではありません。強い支えの上に成り立つ細やかさです。その基礎を作るために、徹底して呼吸を鍛える必要があるのです。
〇身体を犠牲にする時期
一時的に身体が苦しくなることもあります。呼吸を深く変える過程では、以前より歌いにくく感じる時期があります。しかし、それは身体が新しい状態に変わろうとしている証拠です。この停滞期を非常に重要だと考えていました。
ここで元に戻ってしまうと、浅い発声に逆戻りしてしまいます。だから、一時的な不安定さを受け入れながら続ける必要があります。芸術の成長とは、一直線ではありません。崩れながら、新しい感覚を身体に作っていくものなのです。
〇耳と身体の一致
声を変えるためには、耳も変わらなければなりません。自分の声を正しく聴けない人は、どれだけ練習しても改善できません。
研究所のヴォイストレーニングでは、耳と身体を同時に育てていきます。聴いた音を身体で再現する。その感覚を繰り返すことで、少しずつ一致が生まれます。逆に、身体だけ鍛えても、耳が育っていなければ表現は粗くなります。
だから大量に聴き、比較し、自分との差を感じ続ける必要があります。耳が育つと、自分の声の小さな狂いにも気づけるようになります。それが、本当の意味での訓練なのです。
〇感情と呼吸
感情表現も、呼吸と深く結びついています。怒り、不安、喜び、悲しみ、それぞれ呼吸の形が違います。感情を頭で演じるのではなく、呼吸から作ることを重視していました。浅い呼吸では、浅い感情しか出ません。逆に、深い呼吸ができると、感情の振幅も大きくなります。
歌とは、感情を身体で再現する行為なのです。そのためには、普段から自分の呼吸を観察する必要があります。どんな時に息が止まるのか、どんな時に流れるのか。その感覚を知ることが、表現力を高める第一歩になります。
〇生き方としての発声
福島英先生の理論は、単なる歌唱技術では終わりません。どう生きるかという問題にまで繋がっています。呼吸が浅い人は、生き方も防御的になります。逆に、深く息を吸い、深く吐ける人は、身体も心も開かれていきます。
研究所のヴォイストレーニングは、人生そのものを変える可能性を持っています。歌がうまくなることだけが目的ではありません。自分自身を深く知り、自分の感覚で生きるための訓練なのです。
(6) 世界の音楽と身体文化
〇アメリカ音楽の難しさ
アメリカの音楽は勉強しにくいものです。アメリカのショービジネスは、映画やエンターテインメントと密接に結びついており、単なる歌唱技術だけでは成立しません。リズム、身体の使い方、言葉のスピード感、そのすべてが巨大な文化のなかで育っています。その背景を理解しないまま表面的に真似しても、本質には届かないのです。
歌には、その国の歩き方や呼吸の癖が現れます。だから、外国の音楽を学ぶということは、異文化の身体を知ることでもあります。音符だけを追っても、そこには到達できません。身体感覚まで含めて学ぶ必要があるのです。
〇リズムを身体に入れる
リズムを頭で数えないこと。日本人は、拍を正確に合わせることに意識を向けすぎます。しかし世界の一流歌手たちは、身体全体でリズムを感じています。歩く感覚、腰の揺れ、息の圧力、そのすべてが音楽に繋がっています。リズムを身体に染み込ませることを重要視しました。
だから、何度も足音を繰り返すのです。それは単なるリズム練習ではなく、身体感覚を変える訓練です。身体が変われば、声も変わります。リズムとは、身体そのものの動きなのです。
〇民族性と声
歌には民族性が現れます。日本語には、日本語特有の抑揚と呼吸があります。一方で、フランス語にはフランス語の流れがあり、英語には英語のリズムがあります。
研究所のヴォイストレーニングでは、その違いを理解することができました。日本人が外国曲を歌う時、どうしても日本語的な重さが残ります。それをなくすには、発音だけでなく、身体の動きまで変える必要があります。だから言葉以前に、呼吸やリズムを身体に入れようとしました。歌とは、その国の人間の生き方そのものだからです。文化を理解せずに歌うことはできません。
〇音楽を聴く耳
とにかく大量に音楽を聴くことでした。しかし、それはただ流して聴くという意味ではありません。どこで呼吸しているのか、どこでリズムが揺れているのか、何を表現しようとしているのかを感じながら聴く必要があります。
耳が育つと、以前は分からなかった細かなニュアンスが聴こえてきます。そして、自分との差にも気づくようになります。最初は苦しいかもしれません。しかし、その差を知ることが成長の始まりです。耳が変わると、身体も変わります。聴く力は、歌う力そのものなのです。
〇一流の基準
一流の世界では0.01秒のズレも許されません。普通に歌えるだけでは通用しません。本当に高いレベルでは、わずかなタイミングの差が大きな違いになります。その厳しさを隠しませんでした。しかし同時に、それを恐れる必要もないと考えていました。
最初から完璧を求めるのではなく、一音ずつ積み重ねればよいのです。大切なのは、高い基準を知り続けることです。低い基準に慣れてしまうと、それ以上成長できなくなります。だから常に本物を聴き、本物に触れ続ける必要があるのです。
〇芸術と人生経験
研究所のヴォイストレーニングでは、人生経験そのものが声になると考えます。悲しみ、孤独、喜び、失敗、そのすべてが声に現れます。だから、ただ若くて声が出るだけでは足りません。どんなふうに生きてきたかが、最終的に歌の深みになります。
このヴォイストレーニングと劇団生活を経験したことも、すべて表現に繋がっていました。遠回りに見える経験も、決して無駄にはなりません。人生をどう積み重ねるか。その厚みが、最終的には歌の説得力になるのです。
(7) ヴォイストレーニング哲学
〇声は人間そのもの
声を単なる音として捉えていませんでした。声とは、その人の生き方そのものです。呼吸の浅さ、不安、緊張、自信、それらがすべて声に現れます。だから、発声だけ整えても、本当の意味での表現にはなりません。人間そのものが変わらなければ、声も変わらないのです。
ヴォイストレーニングは、身体と精神を同時に鍛えていきます。深く息を吸い、深く吐くことができるようになると、人は少しずつ変わります。声を変えるとは、生き方を変えることなのです。
〇自分を信じる力
研究所のヴォイストレーニングでは、周囲に流されず、自分の感覚を信じることの大切さです。芸能界では、他人の評価ばかり気にしてしまうことがあります。しかし、それでは本当の表現には辿り着けません。自分の身体感覚を信じることを重視しました。何が好きなのか、何に感動するのか。その感覚を大切にしなければ、歌は空虚になります。他人の真似ではなく、自分自身の声を探すこと。それが芸術の出発点です。
〇遠回りの価値
研究所のヴォイストレーニングに、効率だけを求めないことです。むしろ、遠回りのなかでしか得られない感覚を大切にしています。劇団に入ることも、日本舞踊を習うことも、クラシックを学ぶことも、すべて声に繋がります。一見関係ない経験が、あとになって表現の深みになります。だから、迷うことを恐れなくてよいのです。芸術は一直線ではありません。回り道をした人ほど、豊かな表現を持つことがあります。人生のすべてが、声のなかに積み重なっていくのです。
〇続けることの意味
研究所のヴォイストレーニングは、分からなくても続けるしかないと思っていました。継続することの重要性です。
歌は、短期間で完成するものではありません。何年も積み重ねるなかで、少しずつ身体が変わります。途中で成果が見えなくても、その時間は無駄ではありません。むしろ、見えないところで感覚が育っているのです。だから、すぐに答えを求めないことが大切です。続けることでしか、見えない世界があります。
〇表現とは生きること
表現と人生は切り離せません。どう生きるかが、そのまま歌になります。苦しみから逃げ続けている人の声は浅くなります。逆に、自分と向き合って生きている人の声には深みがあります。だから、歌だけ練習していても足りません。人間としてどう生きるかが問われるのです。芸術とは、人生を映し出す鏡だからです。
〇未来へ繋ぐ声
ここのヴォイストレーニングは、単なる技術継承ではありません。それは、人間がどう生き、どう表現するかを次の世代へ繋ぐ思想です。呼吸を深め、自分の感覚を信じ、身体を通して世界を感じる。その姿勢は、時代が変わっても失われません。
伝えたかったのは、単なる発声法ではなく、人間として豊かに生きる方法です。そして、それは、これからも多くの表現者の身体のなかで生き続けていくでしょう。
さいごに
芸術は終わらない旅
ここまで見てきたように、研究所のヴォイストレーニングは、単なる歌唱法ではありません。それは、身体を通して人間を深めていく方法論です。レクチャーやレッスンのなかで語られていたのは、技術だけではありませんでした。迷い、違和感、挫折、遠回り、そうした人生そのものが芸術を作るという思想でした。
劇団での生活もダンス、バレエの訓練も、すべては自分の身体を知るために行われます。そして、その身体を通してしか、本当の表現は生まれません。
現代では、すぐに結果を求める風潮があります。しかし、研究所のヴォイストレーニングはそれと正反対の道を示しています。一音を掴むために何年もかける。呼吸を変えるために、何度も崩れる。耳を育てるために、大量に聴き続ける。その地道な積み重ねこそが、芸術を支えているのです。
また、ここでは、誰かの真似をすることを拒否しています。コピーではなく、自分自身の身体で発見しなければならない。だから苦しいのです。しかし、その苦しさのなかでしか、自分だけの表現は生まれません。売れるためだけではない、自分にとって本当に必要な歌を探していく。その姿勢が、最後まで一貫しています。
研究所のヴォイストレーニングが、いつからでもやり直せるということは、とても重要です。芸術に遅すぎるということはありません。むしろ、人生経験を重ねた身体だからこそ、出せる声があります。若さだけでは届かない深みが存在します。だから、迷ってもいいのです。違う道に進んでもいいのです。その経験が、いつか声のなかに現れます。
ヴォイストレーニングは、声をつくるだけではありません。人間をつくる訓練です。呼吸を変え、耳を育て、身体を開き、自分自身の感覚を信じて生きる。その長い旅路こそが、芸術なのです。